【第三部 鎖が解けるまで】間話 一度だけ
セシルは、詰所の板間で、取り決めの写しを揃えていた。
写しは、三枚ある。丘の前庭へ持ち帰るぶんだ。聖堂の朝の鐘は、さっき鳴り終わった。開けた戸口から、まだ日の当たらない石の冷えが入ってくる。
きのう、王宮の卓で名が書かれた。雇う家は、渡る者に誓わせない。その一行を、誓いを見るのが務めの私が、丘へ運ぶ。呑めぬと返してきた家があることも、運ぶ。
「巡察。王宮の使いだ。王女殿下が、昼すぎに庭へ、と」
帳場の奥から、隊長が顎で戸口を示した。顎の四角い人は、今朝も要ることしか言わない。
向かいの机で、同輩が茶の椀を置いた。黒い髪を短く切った人で、叙任の年が同じだ。そのぶん、遠慮が無い。
「南の王女殿下に呼ばれるようになったか。写しは、見ておいてやる。貸しだぞ」
「書いておきます」
「書くな。忘れてくれたほうが、取り立てやすい」
同輩は、白い制服の裾を払って、帳場の奥へ行った。
◇
昼前に、坂を上がった。
王宮へ上がる坂は、聖堂の脇から始まる。石の継ぎ目に、朝の靄の名残りがある。壁の影に沿って、セシルは上がっていった。影の中に、人はいない。
二年前の夏、この坂に三百が並んだ。誓いを断ってくれ、と頼みに来た人たちだ。私は下から順に声をかけて、列を壁の影へ寄せた。エルドは、坂の下まで届く声で、断ちません、と言った。
あれから、この坂に列はできていない。エルドが王都に着いたことは、辻がもう知っている。知っていて、誰も並ばない。坂で頼まれても、あの人は、一つも断たなかったからだ。
坂の下を振り返ると、黒い門の脇に、石の台が見える。誓わせる台だ。台は残って、断つ手は使われない。あの日に並んだ人たちは、誓ったまま、どこかで暮らしている。
その出口を、私は二年、丘の前庭で並べてきた。並んだのは、まだ一つだ。
◇
昼すぎに、王宮の庭へ通された。
木陰の石の腰掛けに、リヴィアが座っている。白い麻の衣に、胸の青い石。髪は、後ろで一つに束ねてあった。水盤の水が、細い音を立てている。侍女は、回廊の柱の所に立っていた。
「北の騎士。座られよ。きのうの続きを訊く」
セシルは、腰掛けの端に座った。
「そなたの文を読んで、わが国の帳簿に欄を一つ足した。引き取れる口上で結んだ者を、載せる欄だ。そなたの国の者は、誓いではないと言う。わが国の者は、証文ではないかと言う。どちらの国でも、よその物だと言われる。そういう物を載せる欄だ」
「はい。丘では、いまも、誓いではないと言われます」
「きのう、出口を付ける手は無い、と言ったな。戦を起こさぬ口上には、付けたであろう」
「付けられたのは、あの一つだけです。臣従にも、婚姻にも、商いの誓いにも、口上は教会の定めたままです。出口が、ありません」
坂の、人のいない壁の影が、目に浮かんだ。
「家々は、誓わせたがる。逃げられるのが怖いのだそうだ。川べりの者は、誓わされるのを恐れる。解けぬからだ」
リヴィアは、水盤のほうを見ていた。
「あいだに置ける物は、無いのか。仕えると告げて、やめるときは人に告げる。そなたの口上は、そういう形であったろう」
奉公の口上に、聞く者の名を置く。
考えたことが、無いわけではない。二つ目のことは、一つ目の口上で結ぶ人が増えるまで、と先へ送ってきた。
「奉公の口上を、引き取れる形に並べ直すことになります。雇う家の名と、聞く者の名を置きます」
「並べてみよ」
「一つ目は、四十三回かかりました」
「では、次は四十四回目からだ。初めから数え直すことはない」
「四十四回目は、もう使いました。北の当主が、同じ口上を唱えた回です」
リヴィアは、ひと息、黙った。
「……では、四十五回目からだ」
真顔だった。冗談なのかどうか、セシルには決めかねた。この人の冗談は、条の形をしている。
回廊のほうで、足音がした。
柱のあいだを、エルドが歩いていく。レイフが後ろにいて、隣にはユリアンがいた。ユリアンが、身ぶりを付けて何か話している。エルドが、笑った。声は立てずに、肩だけが揺れた。
笑うと、思っていたより若く見える。
「聞く者は、誰が選ぶ」
リヴィアの声は、途切れなかった。
「雇う家が選んだ者では、雇われる側が告げにくかろう」
条の話だ。穴を、先に指している。声も、言葉の運びも、さっきまでと少しも変わらない。
黒い目だけが、回廊にあった。柱から柱へ、歩いていく人を追っている。三人が角を曲がると、目は水盤へ戻ってきた。
「……そこは、まだ考えていません」
「よい。穴の場所が分かっていれば、塞ぎ方は見つかる」
セシルは、うなずいた。
「姉君は、息災か。山の宿は、客が上がるようになったそうだな」
「はい。休みに行くと、何もさせてもらえません。一日に一度、名で呼ばれます」
「一度か」
「湯の外では、一度と決めているそうです」
リヴィアは、少し考えた。
「では、今日のぶんは、わたしが使う。——セシル」
すぐには、返事が出なかった。
「……はい、王女殿下」
「並んだら、また文を寄越せ。欄は、足せばよい」
◇
その晩、板間の隅で、帳面を開いた。炭の匂いがする。
——朝。写しは、三枚。坂に、列は無い。
——昼。南の王女殿下に、二つ目を並べよと言われた。奉公の口上。聞く者を、誰が選ぶか。
——王女殿下に、名で呼ばれた。一度。
四つ目を書きかけて、炭を止めた。
庭で、エルドが笑った。笑うと、思っていたより若く見える。
同じことを、前に一度だけ思った。登録院の石段だ。あのときは、どうでもいいことを思った、と自分に言って済ませた。あの石段を、当人はもう覚えていない。
どうでもよくは、なかったのだと思う。
好きです、と人の前で言い切ったことなら、ある。祭りの菓子の話だった。あの人のことは、言い切る前に、自分でやめた。一度思って、それきりにした。
今日、もう一度だけ思った。同じ時に、隣で、黒い目が同じほうを見ていた。
エルドのほうのことは、去年の夏に、山の宿で聞いている。四枚の文のことだ。
両方を見たのは、私だけではないだろう。マグダなら、とうに見て取っている。それを当人たちに言うのは、私の務めに無い。
四つ目は、書かずに帳面を閉じた。見ていない、と言うつもりは無い。見た。私の帳面に載せるものではない、と決めただけだ。
右の手の甲に、結び目がある。端が一本、長く出ている。引けば解ける結び方だ。
明日、丘へ発つ。二つ目は、四十五回目から並べる。




