【第三部 鎖が解けるまで】第18話 歩数
リヴィアが、大湯の湯番から文を受け取ったのは、まだ冬の初めのことだ。
南の冬は、雨が降る。その日も、朝から細い雨だった。入口の台で木の札を受け取ると、湯番の女が、台の下から葦の紙を一通出した。四つに畳んで、麻の紐が掛けてある。
「リヴィア。預かり物だよ。北から来た荷の者が置いていった。返事があるなら、五日のうちに持っておいで。同じ者が、北へ戻る荷に付くそうだ」
表に、名が書いてあった。
——リヴィア
役の名も、家の名も、付いていない。細い字が、まっすぐに並んでいる。
エルドの字だ。夏に、四枚読んだ。
文は、蔵の鍵と一緒にノエミに持たせた。湯番は、もう次の客の名を聞いている。
十日ほど前に、広間で北の文が読まれた。名代の机に届いた文だ。老いた書記が封を切って、声に出して読んだ。誓わせぬ条のこと。吹雪の日に、町の者が、南から来た者を探しに山へ上がったこと。終わりの一行も、書記は用件と同じ声で読んだ。
——北は、初雪です。秋に、また参ります。
秋の卓のことでございますな、と侍従長は言った。そうであろう、と答えた。若い書記の筆が、それを書いた。
返事の終わりに、自分の手で一行足した。南は、雨だ。筆は、終わりの字まで止まらずに行った。天気のことなら、手の紋は何も言わぬらしい。
あれで、済んだと思っていた。
今日の文は、名代の机を通っていない。
髪を布で高く巻いて、奥の隅で肩まで沈んだ。湯気の向こうで、女たちが笑っている。
「聞いたかい。染物屋の下の娘。月の数えを違えたんだとさ」
「春には産むよ、あれは」
「数えくらい、母親が教えとくもんだよ」
この国の女が、帳簿の読み方より先に覚える数えだ。リヴィアは、聞き流して目を閉じた。
閉じても、落ち着かない。湯の外に、まだ開いていない文がある。
「もう上がるのかい、リヴィア。雨の日は、いつも長湯なのに」
洗い場から、ジュリアが桶を振った。
「用がある」
「湯より急ぐ用ねえ」
洗い場が、どっと笑った。返す言葉を探しているうちに、足のほうが先に湯を出ていた。
湯上がりの広間の隅で、ノエミが待っていた。黙って、文を差し出す。それから、立つ所を少し変えた。広間の者から、リヴィアの手元が見えなくなる。
紐を解いた。
——リヴィア。
——長い文は、書きません。
——これは、三行です。
——北は、雪です。あなたの国の冬を、私はまだ知りません。
——エルド
読むのに、息二つも要らなかった。
二行目で、口元が緩んだ。声は、立てていない。
長い文は二度と書くな、と書いたのは、わたしだ。短い文のことを書いておらぬのには、書いたあとで気づいた。気づいて、塞がずにおいた。エルドは、その穴を通ってきた。通る前に、通ります、と書いてある。三行だと、数まで付けてだ。
条の穴を黙って通る者なら、何人も見た。先に名乗ってから通る者は、初めて見る。
三行目を、もう一度読んだ。
あなたの国の冬を、私はまだ知りません。
訊いてはおらぬ。知らぬ、と書いてあるだけだ。それなのに、畳んだあとも、その一行は問いの形で残った。
ノエミが、肩掛けを広げて待っている。外は、まだ雨だった。
◇
返事は、その夜、部屋の机で書いた。
書記は、日の入りで筆を置いて帰っている。灯りは、一つだけ残した。窓の外で、雨が石を打っている。
知らぬ、と書いてきた者を、知らぬままにしておくのは、筋が合わぬ。
書けぬ語があることは、もう知っている。来い、とは書けぬ。待つ、とも、おそらく書けぬ。試しはせぬ。筆が宙で止まるのを、もう一度見る用は無い。
——エルド=ファーレン。
——三行であった。長い文には、入れぬ。
——雪は、わたしも知らぬ。南の冬に降るのは、雨だけだ。
——リヴィア
筆は、止まらなかった。
名は、名だけにした。名代、と書けば、名代の文になる。名代の文は、書記が写しを取る。
読み直した。二行だ。あの者より、一行短い。それで、よい。
墨が乾くのを待つあいだ、自分の書いた名を見ていた。
秋に、広間で、エルドの手を見た。挨拶を返して下ろした手の甲に、薄い青の結び目があった。何にも縛られていなかった男が、自分で一つ結んだ。引き取るときに告げる相手の名を、その中に置いた。丘の騎士の文で、そう読んでいる。
エルドが自分で結んだものの中に、レイフの名がある。
名代、と付かぬわたしの名は、あの者の手元に幾つあるか。
招きの証文に、一つ。それから、今夜の二行の下に、一つ。
そこまで並べてから、なぜ並べたのかと思った。
灯りを、消した。畳んだ表には、あて先の名を書いてある。明日、湯番に預ければ、北へ戻る荷に付く。三行のほうは、次に蔵へ下りるときに、夏の写しの筒へ入れる。名の無い写しの隣なら、どの綴りにも載らぬ。
◇
次の朝も、雨だった。
父の寝所は、煎じた草の匂いがする。フラヴィウスは寝台を下りて、窓際の椅子へ歩いていた。椅子は、秋よりまた遠くへ動かしてある。侍従は、脇についているだけで、手を出さない。
リヴィアは、父の足を数えていた。数えているつもりだった。
父の手が、椅子の背をつかんだ。
「十四でございました」
「十五だ」
座ってから、父は言った。乾いた声だ。
「わたしの足は、わたしが数えておる。そなたは、十のあたりで窓の外を見ておった」
窓の外は、雨だ。雨のほかに、見るものは無い。
「……数え違えました」
「そなたが数を違えるのを、初めて見た」
黒い目が、リヴィアの顔に留まった。長くはない。帳簿の一頁を読むほどのあいだだ。この人も、読むのが速い。
言い訳は、せぬ。違えたものは、違えた。
「麦は」
「初めの荷が、川べりに着きました。四千四百は、この冬を越します」
「借りは」
「次の祭りの初日までに返す、と書きました。蔵は底でございます。返せませぬ」
「返せぬ借りを、消す道は」
「証文の三行目に、書いてございます」
父は、うなずいた。それについては、何も言わぬ。
「パウルスは、幾つになった」
「この冬で、十二になりました。広間までは、冬があと二つでございます」
「わたしのほうは、あと二十五歩か。どちらが先に着くかだな」
父は、少し笑った。それから、窓の外の雨へ目をやった。
「北の当主は、秋にまた来ると書いてきたそうだな。侍従長に聞いた」
「卓のことでございましょう。秋にも、数を運んで参りました」
「夏の卓は、アルデンの王都であったな」
「はい。関と商いの取り決めを、結び直します。橋を渡す者のことも、そこへ載ります」
「正使は、わたしが決めるのであったな」
「そう申し上げました」
「そなたが行け」
すぐには、答えが出なかった。
「名代が、国を空けることになります」
「前の正使も、そなたであった。王妹は、そなたの条の癖を知っておる。知っておる者どうしで詰めるほうが、穴が残らぬ。それに、そなたの名で借りた麦の話だ。ほかの者に、何を持たせて行かせる」
条として、立っていた。返せる穴が、見つからぬ。
「留守のあいだの申し立ては」
「夏までに、二十歩は歩く。半日なら、この椅子で聞ける。聞けるように、そなたが証文を書いていけ。蔵の家の跡取りも、卓へ出たいと申してきた。関の税は、蔵の商いに関わるそうだ」
「……承りました」
「書かせるなよ」
父は、窓の外を見たまま言った。
「娘が歩数を違えた朝に決めた、とは」
礼をして、戸を出た。顔が熱いのは、煎じ薬の湯気のせいにしておいた。
戸の外で、書記が二人、筆を持って待っている。
正使、と父は言った。
夏の卓は、アルデンの王都だ。エルドは、数を持ってそこへ来る。持ってこい、と門で言ったのは、わたしだ。
秋に、また参ります、とあの者は書いた。
夏には、こちらが行く。
そのことを、あの者は、まだ知らぬ。




