【第三部 鎖が解けるまで】第17話 公の文、私の文
エルドは、南へ出す文を、四行で止めた。
吹雪の次の朝の、役所だ。窓の外は、まだ白い。封に使う蝋が、小さな火の上で溶けかけている。
——メリディアの王の名代、リヴィア殿下。
——誓わせぬ条のことを、王妹殿下に伺いました。王宮の領は、誓わせずに雇えます。ほかの家の数は、夏の卓までに書いて届けます。
——町の恐れは、まだ解けていません。ただ、吹雪の日に、町の者が、南から来た者を探しに山へ上がりました。
——北は、初雪です。秋に、また参ります。
終わりの一行は、初めから書くと決めていた。
口で言ったことを、今度は残る所に置く。書記が読み上げても、北の当主が次の秋の卓へ来る、という一行にしか聞こえない。南の綴りに綴じられて、困る者はいないはずだ。
名を書いて、コンラートに渡した。コンラートは控えを取って、封を押した。文は、詰所の使いが王都へ運ぶ。南までは、二十日かかる。
◇
その晩、エルドは、家の机にもう一枚、紙を置いた。
葦の紙だ。南の辻で、帰りぎわに一束買ってきた。竈の火は落としてある。灯りの油の匂いがした。向かいでは、レイフが五冊目を開いている。
長い文は、二度と書かない。リヴィアに、そう書かれた。広間で、書きません、と口でも答えた。
短い文のことは、どちらにも入っていない。
今夜の文は、名代の机へは出さない。それも、決めてあった。
あの人が一人になれるのは、町の大湯だけだ。大湯の湯番は、名を聞いて物を預かる。その名の者にだけ渡して、包みの中は見ない。南の卓のあいだに、辻でジュリアの亭主に聞いた。北まで荷を継ぐ者がいるかどうかも、そのとき訊いた。塩と樹脂の荷は、王都で人を替えながら、北の市まで上がってくる。下る荷に紙を一枚載せるのは、銅貨三枚で足りるという。
訊いただけで、頼まずに帰ってきた。使うかどうかを、まだ決めていなかった。
「レイフ。短い文を、書きます」
向かいで、炭が止まった。
「短い文は、何行までですか」
からかっている声とは違う。数を訊いている。
そこは、考えの外だった。四枚が長いことは、分かっている。一枚でも、端から端まで埋めれば長い。
「三行です」
「訳は」
「四行目から、理屈が始まるので」
レイフは、少し考えた。
「宛名と名は、行に入りますか」
「入れません」
「では、五行まで書けます」
「……そういう読み方は、しないでください。穴を探しているように聞こえます」
「書いてあるとおりに、数えただけです」
返す言葉に、詰まった。
炭の音が戻ってから、ペンを下ろした。
——リヴィア。
——長い文は、書きません。
——これは、三行です。
——北は、雪です。あなたの国の冬を、私はまだ知りません。
——エルド
宛名も名も、名だけにした。湯の中では名で呼ぶ、と南の湯屋の定めにある。家の名と役の名は、外に置く。大湯へ行く紙なら、それに合わせるのが筋だろう。
言いたいことは、書いていない。それは、口で言った。紙に置くのは、残って困らないことだけにする。誰かの目に触れても、北の者が雪の話をしているだけだ。書記の読まない道でも、そうする。
次の市の日に、塩の荷の者に銅貨を三枚渡した。雪で道が止まる前の、最後の荷だった。
◇
根雪になる前に、上の湯から、村の者の口で言づけが下りてきた。樽は足りた、客は春まで来ない、あんたも来るな、道が凍ってる。言った当人は、村の者と一緒に山で冬を越すらしい。
雪は、ひと月で膝を越えた。市には、南の品が来なくなった。荷の者は、雪のあいだ、詰所より北へは上がらない。文を運ぶ使いだけが、凍った街道を通ってくる。
朝は、粉屋の帳付けをした。
「若様に手間賃を払う日が来るとは、思いませんでしたよ」
亭主は、粉で白い手で銅貨を二枚出した。
「いただきます。朝のぶんです」
「大きいのの、ですか。あの人は、うちのパンを日に三つ食べる。払い甲斐がありますよ」
亭主は、笑って石臼のほうへ戻っていった。
昼は役所で、春に来る百九人ぶんの畑と屋根を、コンラートと一枚ずつ割っていった。
冬じゅう待つ、ということを、初めてしている。
去年の冬は、待つ相手がいなかった。秋には、待てずに歩いた。この冬は、歩いて行く用が無い。
役所で、出した文の控えを一度だけ見た。用件のあとに、雪のこと。終わりに、一行。王都の祖母に聞いた、父の文の形に似ていた。寄せたつもりは無い。短く書こうとしたら、こうなった。
父は、三度の冬、そういう文を書いたという。雪を掻いていると、その訳が分かる。冬の北の家の者は、領を離れられない。離れられない者にできるのは、短い文を出して、あとは雪を掻くことだけだ。
南の返事は、四十日あまりで来た。
市の日に、ディルクが詰所から持ってきた。目は、下から入る。
名の上に、同じ手の一行がある。
——南は、雨だ。
上へ戻った。書記の揃った字が、四行ある。
——アルデンの北の家、エルド=ファーレン殿。
——王宮の領のことは、読んだ。ほかの家の数を、夏の卓までに書いて寄越せ。
——蔵の家の麦は、川べりへ下りはじめた。四千四百は、この冬を越す。
——山へ上がった町の者の名を、書いておけ。解けたと書く日に、要る。
四行目で、手が止まった。
名を、書いていなかった。町の者、とだけ書いた。イェンスには、名がある。名を書く国の人は、そこを見落とさない。落ち度だ。次の文に書く。
それから、下の一行をもう一度読んだ。
条とは違う。数でもない。寄越せ、とも、書いておけ、とも言っていない。北は初雪です、と書いたら、南は雨だ、と返ってきた。
条で書く人が、条からはみ出したものを、自分の手で一行書いている。
こぼれ物だ。
「レイフ。下の一行を、見てください」
レイフは、文を受け取って読んだ。
「天気です」
「はい。天気です」
「エルド様は、訊いていません。北は初雪です、と書いただけです」
「……訊いていません」
「訊かれていないのに、答えてあります」
そうなる。言葉どおりに読む男が読んでも、そうなる。
文を畳むのに、しばらくかかった。灯りの下で、雨だ、の二字を見ていた。南の冬に降るものを、自分は知らない。
◇
真冬に、セシルが二十五になった。祝いの文を、町から出した。三行に収めた。
軒から雫が落ちたのは、南の返事からふた月あまりあとの朝だ。雫は、戸口の石の同じ所を、続けて打っている。
去年も、この音を聞いた。去年は、レイフの帳面で読んだ日と比べた。今年は、自分の覚えている去年と比べられる。
「レイフ。今日です」
井戸から戻ってきた男は、桶を提げたまま止まった。
「……はい」
「二十六です。座っていてください、とは、今年は言いません。去年、座っていられなかったので」
「鍋は、俺が見ます」
「お願いします」
買い出しの帰りに、役所へ寄った。コンラートは、北の家の綴りを出して、三行目を書いた。
——従士レイフ、二十六。祝う。
「今年も、日付は今日でよろしいので」
「はい。毎年、違う日になります」
覚えている祝いが、二つになった。
◇
雪が消えると、テオは橋へ発った。
橋を荷車が渡れる日から、三十人ずつ渡ってくる。最初の三十人を、川べりを出てきた者が迎えに行く。
同じ日に、冬のあいだ詰所で止まっていた荷が、町へ上がってきた。塩と、樹脂と、香りの実だ。
荷の者が、役所の前でエルドを呼び止めた。言葉の尻が、歌うように上がる。
「北の当主でいらっしゃいますか。王都で、前の者から預かりました。その前は、関だそうで。冬じゅう、詰所の棚にありました」
懐から、葦の紙を一通出した。四つに畳んで、紐が掛けてある。表に、名があった。
——エルド=ファーレン
役の名は、付いていない。速くて、迷いの見えない線だ。終わりの一画が、少し長い。
紐に、手を掛けた。




