【第三部 鎖が解けるまで】第16話 代官の一年
エルドは、役所の机を挟んで、ディルクの顔の痣を見ていた。左の目の下が、まだ青い。
町に入って、荷を下ろしただけで来た。机の向こうにコンラートが座り、その脇にディルクとルチオが立っている。レイフは、戸口の脇だ。墨の匂いは、発つ前と変わらない。
「十二日前の、市の日でございます」
コンラートは、手控えを開いた。細かい字が、三枚ぶん並んでいる。
「双方の申したことを、申したとおりに書いてございます。読みます」
聞いたことは、書く人だ。低い声が、同じ速さで読んでいった。
市の角で、町の子が棒を振っていた。槍のつもりだったらしい。通りかかったルチオが、持ち方を直してやった。左の手を前に、右の手を腰に。そこへ、鍛冶場の見習いのイェンスが来て、ルチオを殴った。ルチオは、一つ殴り返した。割って入ったディルクの顔に、イェンスの二つ目が当たった。
「イェンスの申し分でございます。——南の兵が、町の子に槍を教えていた。父は、槍を持たない厩番だった」
イェンスは、十八になる。父親は、九年前の冬に城で死んだ。いまは、林の石の下にいる。その名なら、見ずに言える。
「ルチオの申し分は——」
コンラートが、次の行を読みかけた。
「俺が言う」
ルチオが、口を開いた。手は、体の前で組んだままだ。
「棒の先が、下がってた。あれじゃ、自分の足を突く。直しただけだ。殴られて、一つ返した。兵の癖だ。返してから、しまったと思った」
「しまった、というのは」
「町の者に手を上げた。十一人まとめて、橋へ戻される。そう思った」
「戻しません。証文に、そういう条はありません」
ルチオは、短く息を吐いた。
「ディルク。その痣は」
「分けるのが、一つ遅れました。俺の落ち度です」
太い声は、真面目だった。コンラートが、三枚目をめくった。
「山の宿の主が、買い出しに下りておりました。双方の顔を見て、申しました。——どっちも、怖かっただけだ。あたしに言えるのは、そこまでだよ。……そのとおりに、書いてございます」
揃った字で読まれても、誰の言葉かは間違えようがない。
「代官の権で、裁きました。双方に、山の道で、雪よけの杭の打ち直しを三日。三十本でございます。冬の前に、どのみち要る仕事でございました」
「二人で、ですか」
「二人でなければ、一本も打てません。押さえる者と、打つ者が要りますので」
ルチオは、床を見ていた。
「口は、ききましたか」
「きいてない。杭、と言えば、杭が来た。三日は、それで足りた」
留守のあいだに起きて、留守のあいだに片づいていた。帳簿に載らないもののほうを、この町は自分で回した。分けた者がいて、書いた者がいて、顔を見た者がいる。
「ありがとうございました」
三人に、頭を下げた。それから、コンラートのほうを向いた。
「代官殿。発つ前に、任が明けたあとの話をさせてください、と言いました」
「承っております。任は、初雪で明けます。その先はファーレン殿が決めよ、と王宮の書状にございました」
「決めました。残っていただきたいのです。王宮の任としてではなく、北の家の雇いとしてです。証文を一枚、結ばせてください。年限は一年。毎年、結び直します。解く条は、どちらからでも」
手控えの上で、コンラートのペンが止まった。
「……代官を、証文で、でございますか。この国には、前例がございません」
「では、一枚目です」
灰色の目が、こちらを見た。長いこと、見ていた。
「王宮の扶持を、離れることになります。初雪まで、お返事をお待ちいただけますか」
「待ちます。決めるのは、あなたです」
遅い礼が、返ってきた。
◇
初雪は、二十八日あとの朝に来た。
役所の窓の外で、白いものが、音も立てずに落ちている。戸が開いて、ディルクが肩の雪を払いながら入ってきた。
「十年目です、若様。あの冬から」
この町の者は、あの冬からの年を、雪で数える。
コンラートは、机の向こうで立っていた。
「残ります」
前置きは、無かった。
「訳を、申し上げます。私は以前、七年のあいだにいたさなかったことの一覧を書きました。いたしたことの一覧は、まだ書いておりません。この一年では、一枚に足りませんでした」
「山の帳簿は、二冊目の終わりだと聞きました」
「三冊目に入るまでは、見届けとうございます」
証文は、その場で書いた。この町に、代書人はいない。条はエルドが言い、コンラートが自分で書いた。
「自分の雇いの証文を、自分で書くのでございますか」
「読まずに名を書く人では、ないでしょう。書けば、読む手間が省けます」
細かい字が、いつもと同じ太さで並んだ。
——アルデンの北の家のエルド=ファーレンは、コンラートを、北の領の代官として雇う。給金は、王宮の扶持と同じ額を、領の帳簿から出す。年限は、一年。毎年、初雪の日に結び直す。解く条。どちらからでも、証人の前で告げれば解ける。罰は無い。
証人は、二人立てた。南から来た者と、町の者だ。
テオは、大きい字で名を書いた。
次に、ディルクがペンを取った。太い指が、羽根の軸を、鎌の柄のように握っている。
「名だけは、書けます。お留守のあいだに、代官殿に習いました」
震える太い字が、四つ並んだ。去年、林の石の前では、この人の名はレイフが代わりに書いた。今日の名は、当人の手のものだ。
コンラートは、棚から綴りを一冊出した。表紙に、北の家、とある。一行目は、冬の終わりに書かれた。——従士レイフ、二十五。祝う。
その下に、二行目が入った。
——代官コンラート、雇う。年限、一年。
自分のことを書く字が、ほんの少し遅かった。
「これで、役所の手間賃は、お出しできなくなります」
ペンを置いて、コンラートは言った。
「北の家の雇いになった者が、北の当主にお払いするのでは、右の手から左の手へ移すだけでございますので」
「はい。朝のぶんは、粉屋の帳付けで稼ぎます。亭主が、手を探していました」
コンラートは、何か言いかけてやめた。かわりに、手控えに一行書いた。
窓の外で、声がした。南から来た者たちが、通りに出て空を見上げている。ルチオは、大きな手のひらに落ちたものを、溶けるまで見ていた。
「北の当主。これは、いつ止むんです」
テオが、窓のそばで訊いた。
「春です」
戸口の脇から、レイフが答えた。
テオの口が、開いたままになった。
その晩、レイフは粗い紙に、村への便りを書いた。四角い字で、五行ある。三通目だという。一行目は、村のみなへ、だった。
明日、テオが上の湯へ荷を上げる。雪で道が閉じる前の、最後の荷だ。村を通るので、便りも持っていく。行きは、村へ帰るステンが一緒に歩く。
◇
三日あとの昼から、吹雪になった。
テオは、その日の夕方に下りてくるはずだった。帰りは、一人だ。空は三日もつ、とレイフは見ていた。山の空は、三日目の昼で変わった。日が傾いても、山の道からは誰も来ない。
エルドは、町の上の口に立っていた。風が、横から雪を叩きつけてくる。十歩先の柵が、見えたり消えたりした。ディルクが、町の兵に薪を運ばせている。
「いまは、出ません」
レイフが言った。山の道を知っているのは、この男だ。
「吹いているうちに上がれば、探す相手が増えるだけです。止み間が来ます。そのあいだに、杭の所まで行きます」
「杭の所に、いると思いますか」
「吹雪いたら、杭から離れるな、と教えました。杭が見えなくなったら、動くな、とも。十一人とも、聞いています」
後ろで、雪を踏む音がした。
若い男が、角灯を二つ提げて立っていた。革の前掛けの上に、外套を引っかけている。イェンスだ。
「杭は、俺が打ちました」
こちらを見ずに、言った。
「三十本、どこにあるかは、足が覚えてます。頭が雪に埋まってても、分かります」
「お願いします」
その後ろから、大きな影が来た。ルチオだった。
「俺も行く。あの道の石は、俺たちが積んだ」
「雪の山は、初めての人を連れては上がれません」
レイフの声は、平らだった。
「探す相手が、二人になります」
ルチオは、口を閉じた。拳が、一度握られて、開いた。
「……なら、火を焚く。下りてくる者に、見える所でだ」
止み間は、日が落ちる少し前に来た。
レイフが前を行き、イェンスが続き、エルドはその後ろについた。三人の腰を、縄でつないである。雪は、膝の下まであった。風がやむと、山は、自分の息しか聞こえないほど静かだ。
町の上の口から半刻ほど上がると、木が切れて、尾根に出る。風がまともに当たる所だ。杭は、そこから先に打ってある。
「一本目」
イェンスが、雪から出た杭の頭を、角灯で照らした。
「次は、右へ十歩」
十歩行くと、杭があった。この男は、杭と杭のあいだを、歩数で覚えている。
十本目を過ぎた所で、また風が来た。角灯の火が、横に寝る。
「十七。十八」
イェンスの声が、風の中で途切れた。
「十九——」
杭の根元に、雪の塊があった。
塊が、動いた。背負い縄で、杭に体を結んである。膝を抱えて、風下にしゃがんでいた。
「テオ」
呼ぶと、雪の下から顔が上がった。歯が、鳴っている。
「……北の当主。杭が、見えなくなったんで。動くな、と教わったんで」
「教えたとおりです」
答えたのは、レイフだ。もう、縄の結び目に手を掛けている。すぐには解けない。きつく、何重にも結んである。袋の口をきつく縛れと、粉屋で叱られた男の結び目だ。
エルドは、テオの両手を取った。手袋の上からでも、冷たい。
「握ってみてください」
「……握れます」
指は、十本とも動いた。
イェンスが、自分の首から襟巻きを外した。何も言わずに、テオの耳と首に巻く。炭の匂いのする、濡れた毛だ。
「あんた、鍛冶場の——」
「黙って歩け。舌を噛む」
テオは、黙った。
下りは、三人でテオを挟んだ。町の上の口に、火が見えた。雪の中でもよく見える、大きな火だ。その前に、ルチオが立っている。南から来た者たちが、後ろに固まっていた。
イェンスは、火の前で足を止めた。
「十九本目だった」
ルチオを見ずに、言った。
「……あれは、俺が押さえた杭だ」
「俺が打った」
それきり、二人とも火を見ていた。
◇
次の朝、コンラートの手控えには、名が二列あった。山へ上がった者と、戻った者だ。数は、合っている。
——テオ、戻る。
いちばん下の一行も、ほかの行と同じ太さの字だった。
エルドは、役所の紙を一枚もらって、机に置いた。
町の恐れが解けたら、解けたと書いて寄越せ。夏の返事に、そうあった。
解けた、とは、まだ書けない。粉屋の女房は、いまも戸口で腕を組む。ゆうべ火の前にいた二人は、あれから口をきいていない。
それでも、書けることが一つできた。
窓の外は、白い。この冬、領を空ける用は無い。春までに、百九人ぶんの畑と屋根を割る。南の王都までは、歩いて三十三日ある。歩いて行く用の無い冬に、あの人の所まで行けるものは、紙しか無かった。
長い文は、二度と書かない。そう決めてある。
短く書く。ペンを、取った。




