【第三部 鎖が解けるまで】第15話 聞いたとおりに
レイフは、関の宿場の机で、五冊目を開いて炭を取った。
橋は、昼のうちに渡った。南の王都の門を出て、七日になる。窓の外は、もう暗い。下の広間から、煮た豆の匂いが二階まで上がってくる。
テオは、その広間にいる。ゆうべは川べりの天幕の仲間の所に泊まって、春には橋まで迎えに来ると約束してきたという。エルドは、関の先の市へ、銅貨を替えに行った。
部屋には、レイフしかいない。
書くことが、たまっていた。
南にいるあいだも、帳面は毎晩開いた。歩いた道と、辻で数えた写しの枚数と、食べた物は書いた。祭りの二日目の晩に聞いたことと、卓が済んだ夕方に回廊で聞いたことは、一行も書かずにおいた。あの国では、書いたものは証文になる。橋を渡れば、ならない。
聞いていてください、とエルドは言った。どこにも書けないので、あとで確かめる先が要ります、と。
確かめる先は、頭の中に置いたままだと当てにならない。十七日前のことと、八日前のことだ。いまなら、一字も違えずに言える。冬を三つ越したあとのことは、分からない。
だから、書く。聞いたとおりに書く。
——南の祭りの二日目の晩。広場の長い机で、主は、王女殿下の隣に座った。
——主は言った。あなたが、ほしい。
そこで、炭が遅くなった。
書いてみると、妙な具合だった。最初の帳面から、エルドの言ったことなら何千行も書いてきた。値を訊く言葉。名を訊く言葉。礼を言う言葉。どれも、四角い字に置き直せば、頁の上で落ち着いた。この一行は、落ち着かない。自分の字で書くものではない気がする。
それでも、聞いたのは、この言葉だ。
——王女殿下は言った。成らぬ。成らぬものを、求めるな。
——卓が済んだ日の夕方。王宮の回廊で、主は、同じことをもう一度言った。
——王女殿下は言った。書記がおらぬ。風だ。
——そのあと、王女殿下の声が切れた。来年も、のあとだ。
——主は言った。来年も、参ります。来い、と言われなくても。
七行になった。炭を置くと、指が黒い。
上から、読み直した。
頁の中のエルドがしたことは、どれも、誰かに言われてしたことではない。
追われて歩いた年月の長い人だ。その人が、自分の足で南まで行って、自分の口で言った。頁には書かないが、レイフは、それが少し自慢だった。自慢する相手は、いない。
階段が鳴って、戸が開いた。
エルドだった。小さい袋を懐にしまいながら、入ってくる。
「替えてきました。明日の朝から、また二枚です」
「はい」
エルドの目が、机の上へ来た。帳面は、開いたままだ。
「今日のぶんですか」
「南のぶんです。橋を渡ったので、書きました」
エルドは、少しのあいだ立っていた。それから、向かいの腰掛けを引いた。
「読んでも、いいですか」
「二人で書く帳面です」
帳面を、机の上で回した。
エルドは、上から読んだ。二行目で、目が止まった。そこから先へ行かない。手が出てきて、頁の端を押さえた。
「……レイフ」
「はい」
「ここは、書かなくていいのでは」
声が、いつもより小さい。
「見たままです。聞いたまま、ですが」
「私の言ったことまで、一字ずつ」
「聞いていてください、と言われました。確かめる先が要る、と」
「……言いました」
「頁に無いことを訊かれると、頭の中から答えることになります。半年なら、合います。三年たったら、請け合えません」
エルドは、口を開けて、閉じた。
押さえていた手が、頁から離れた。目が、三行目へ下りる。四行目、五行目。六行目まで行って、戻った。
指が、頁の上に出てきた。三行目に置かれる。それから、五行目へ動いた。指は、二つの行のあいだを、もう一度行って戻った。
「レイフ。回廊の所に、成らぬ、がありません」
「言われていません」
「書き落としでは、ないのですね」
「落としていません。回廊で聞いたのは、書記がおらぬ、と、風だ、です」
エルドは、頁から顔を上げずにいる。
「成らぬ、と言われたのは、一度だけですか」
「二度です」
指が、止まった。
「祭りの晩に、二度言われました。成らぬ、と、成らぬものを求めるな、です」
「……晩としては、一度ですね」
「晩としては、一度です」
数え方が、違っただけらしい。エルドは、小さく息を吐いた。
「もう一つ、確かめさせてください。あなたの聞いたかぎりで、王女殿下が、私を要らない、と言われたことはありますか」
レイフは、頭の中を、端から見ていった。長い机。回廊。朝の門。その前の年の、坂の踏み場。
「要らぬ、は二度聞きました。前の年の踏み場です。長いほうの話と、返事のことでした」
「……私のことでは、ありませんね」
「ありません。エルド様を要らぬ、とは、一度も聞いていません」
「来るな、は」
「聞いていません。門では、持ってこい、でした」
「あれは、名代の言葉です」
「はい。名代の声でした」
エルドは、長いこと頁を見ていた。
門を出てからの七日、この人は歩きながら、口の中で数ばかり言っていた。四千四百。二万六千四百。百九。いまは、口が止まっている。目だけが、二つの行を行き来していた。
「成るかどうかと、要るかどうかは、別の列です」
頁に向かって、エルドは言った。
「列、ですか」
「蔵の跡取りに教わりました。足して合っても、同じ列に置いてはいけないものがある、と。……私は、成らぬ、と言われて、要らぬ、も同じ列に入れていました」
列の話は、レイフには分からない。帳簿は、足すほうしか手伝ったことがない。
見て取れたのは、エルドの顔が、門を出た朝よりましになったことだ。
「成らない訳のほうは、川べりの数と、蔵の借りです。数なら、夏までに書けることがあります」
エルドは、帳面をこちらへ回して返した。
「書かなくていい、は取り消します。これからも、聞いたとおりに書いておいてください。……私の言ったことの行は、読むたびに手の置き場に困りますが」
「見たままです」
「はい。分かっています」
レイフは、戻ってきた頁の六行目を見た。声が切れた、と自分で書いた行だ。
リヴィアの声が切れる所を、三度見た。切れる訳は、右の手の紋にある。あの紋を外せる手は、さっきまで頁の端を押さえていた。
先のことを訊いておくのは、供の役だ。
「エルド様。夏に、五冊目に書かれました。五。断つ、は道に入れない、と。あの行は、いまも同じですか」
エルドは、すぐには答えなかった。何を訊かれたのかを、確かめている間だった。
「同じです。書き直していません」
「南の卓で、北の雇える人数は、足りないと分かりました。王女殿下の声も、切れました」
「はい。それでも、同じです」
エルドは、右の手を机の上に置いた。甲の薄い青の結び目が、灯りを受けている。
「訳を、書いていませんでしたね。あの紋は、王の血の誓いです。何百年ぶんあります。たぶん、断って払うのは、いちばん奥になります」
「はい」
「いちばん奥にあるのは、毎朝のことです。それを払って南へ行っても、次の朝に、誰に何を頼めばいいのかが分かりません。頼む相手の分からない朝を、あの人の所へ持っていくつもりは、ありません」
レイフは、何か言おうとした。言葉のほうが、出てこなかった。
「……はい」
階段の下から、テオの笑い声が上がってきた。
レイフは炭を取って、七行の下に一行足した。
——主は、五の行を書き直していない。
◇
六日あと、アルデンの王都に入った。
テオは、今度も坂の下の詰所に置いてきた。王宮の書き物の部屋で、レイフは戸口の脇に立った。紙と蝋の匂いがする。机の上には、文の山が六つあった。
ヒルデは、エルドの出した紙を読んだ。卓で決まったことを、エルドが道のあいだに書き出したものだ。
「春から百九。合わせて百二十。川べりは、四千四百」
揺れない声が、数を順に読んでいく。
「冬の麦が、銀貨二万六千四百枚。返す期限は、次の祭りの初日。その日までに婚礼の証文が結ばれれば、麦は持参に替わる」
そこで、灰色がかった青い目の端が、少し動いた。
何の動きなのかは、レイフには分からない。マグダなら、拾えただろう。
「残りの数のことで、話があると伺いました」
エルドが言った。
「あります。北の家だけでは、百二十です。数を増やすには、ほかの家が要ります。働き手が町へ出て、畑の空いた家は、この一年で増えました」
「南の名代に、訊かれました。ほかの家は、誓わせないのか、と」
「誓わせたがります」
ヒルデは、すぐに答えた。
「家々は、こう申すでしょう。誓わぬ者は、逃げる、と。紋の無い者を雇ったことのある家は、この国に、まだ幾つもありません」
目が、エルドの頭を越えて、戸口の脇へ来た。
「誓わずに、何年も逃げなかった例を、王宮は、一つしか存じません。一つでは、数になりません」
自分のことだと気づくのに、少しかかった。気づいたときには、ヒルデの目は、もうエルドへ戻っている。
数に入れられたのは、初めてだ。足りない、と言われたのも。
「王宮の領は、わたしが決められます。誓わせずに雇えます。畑の数は、冬のあいだに調べさせます。ほかの家を動かすには、あなたの領の、一年ぶんの数が要ります。十一人のうち、何人が残って、何人が去ったか。夏の卓までに、お持ちなさい」
「去る者が出ても、ですか」
「出たなら、出たとおりに。隠した数は、家々のほうが先に見つけます」
「承りました」
「東のご当主にも、文をお書きなさい。家々は、王宮の言うことより、隣の家のすることを見ます」
話は、関の税のことへ移った。麦と塩に、橋で幾ら掛けるか。それを半分にすると、どの家が得をするか。エルドは、身を乗り出して聞いている。
レイフには、ほとんど分からない話だった。
旅のあいだは、エルドの話すことなら、たいてい分かった。値の付け方も、道の日数も、宿の払いも、隣で聞いていれば足りた。この一年で、分からない話が増えた。帳簿の列。条の穴。関の税。話す相手も増えた。王妹殿下がいて、代官がいて、南にはリヴィアがいる。
分かるのは、明日から二十日歩くことと、北はもう霜だということだ。荷の重さと、火の加減も分かる。
それで足りるのかどうかは、毎朝、水を汲む前に決めている。今朝も、決めた。
次の朝、王宮を出る前に、エルドは回廊でユリアンに川べりのことを話した。行きに約束した話だ。見たとおりに、天幕の数まで話した。
それから、高台の東の通りにある家に寄った。茶は、取ってあった。
「口で、言えましたか」
白い髪の小柄な人は、椀を置きながら訊いた。
「言えました」
「そう」
それきり、北の雪はいつ来るのかという話になった。
◇
王都から北へ、二十日歩いた。
十日目から、朝の吐く息が白くなった。十五日目に、水桶に氷が張った。峠の上は、もう白くなっている。町の初雪は、まだだ。
町の南の口に、人が二人立っていた。
一人は、ディルクだ。もう一人は、手の大きい、四十がらみの男だった。ルチオだ。町の兵をまとめる者と、南から来て石を積む者が、並んで立っている。夏には、見なかった並び方だ。
近づくと、ディルクの顔が見えた。
左の目の下が、青い。殴られて、何日かたった痣の色だ。
「若様。お帰りなさい」
太い声は、いつものとおりだった。
「お留守のあいだに、あったことがあります。あったとおりに、お話しします」
隣で、ルチオが、大きな手を体の前で組んだ。




