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誓いを断つ者【第二部完結・第三部 連載中】  作者: 篇乃綴り堂
第三部「鎖が解けるまで」第三章
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【第三部 鎖が解けるまで】第14話 三千の卓


 エルドは、広間の客の椅子で、川べりの数が読み上げられるのを聞いていた。


 祭りが明けて、五日目になる。卓は、明けた朝から続いていた。開け放した入口から、秋の風が入ってくる。机の上は、葦(あし)の紙と墨の匂いがした。


 初めの二日で、十一人の夏を読んだ。十一人とも、畑と道に入っている。町の恐れは、まだ解けていない。解けたら解けたと書いて寄越せ、と夏の文にあった。解けていません、と口で答えた。若い書記の筆が、それを書いた。


 三日目に、テオが王宮の門で名を言った。川べりで話したことを、今度は書記の前で話した。同じ話が、綴(つづ)りに綴(と)じられた。風だったものが、残るものになった。


 今日は、数が上がってきた。雇いの結び直しが済んで、結び直してもらえなかった者が、また川べりへ流れた。四千四百になったという。


「蔵の家の証文を読め」


 机の向こうで、リヴィアが言った。深い青の上衣の胸に、青い石が戻っている。髪は、後ろで一つに束ねてあった。名代(みょうだい)の声だ。


 老いた書記が、読み上げた。


 ——蔵の家は、川べりの四千四百人に、この冬の麦を出す。


 ——代は、銀貨二万六千四百枚。王の家は、次の収穫の祭りの初日までに返す。


 ——その日までに、名代と蔵の家の跡取りが婚礼の証文を結べば、麦は、入る者の持参に替える。代は取らない。


 三行目で、椅子の上の背が硬くなった。


 顔合わせの席で、侍従長が言っていた。蔵と麦と銀のことは条なので、卓で詰める、と。その条が、いま読まれた。


「跡取り。二万六千四百の訳を言え」


 ステファノは、蔵の家の席で、布の袋の口を開けた。干し葡萄(ぶどう)が、机に一粒ずつ並んでいく。


「一人が、日に銅貨二枚。パン二つぶんでございます。四千四百人で、日に八千八百枚。銅貨五十枚で銀貨一枚でございますから、日に銀貨百七十六枚。冬は、百五十日。合わせて、二万六千四百枚になります」


 リヴィアは、証文を引き寄せた。息を二つするあいだに、目が上から下まで行く。


「数は、合っている。……三行目だ。蔵の家は、代と持参と、どちらを望む。それが、書いておらぬ」


「父は、持参を望んでおります。返る当ての薄い借りを、借りのまま置けぬ家でございますので」


 言いにくいことを、今日も先に言う人だった。


「蔵の者としてのわたしは、代を望みます。蔵は、麦を売って回す所でございます。持参に替えれば、麦は出て、銀は入りません。……顔合わせの席で申した望みは、別でございます。あれは、いまも変わっておりません。今日は風の日ではございませんので、これも書かれますな」


「書かれる」


 若い書記の筆が、速く動いた。侍従長が、咳払いを一つした。


「北の当主。次に橋を渡す数を言え」


 名代の声が、こちらへ来た。目も来た。祭りの晩に隣で笑っていた人の目とは、違う目だ。


「春、橋を荷車が渡れる日から、百九人です。いまの十一人と合わせて、百二十になります。北の家が食わせられるのは、帳簿の上で、そこまでです」


「条としては、立っております」


 ステファノが言った。


「槍を置いて、証文を一枚持って、一人ずつ渡る。誓わせない。テオという者の話で、よく分かりました。……数としては、立ちません。北の当主に伺います。百二十人が北へ渡ると、この冬の麦は、幾日ぶん減りますか」


 頭の中に、数を置いた。百二十人が、日に二枚。冬の百五十日で、銀貨七百二十枚になる。日に百七十六枚の麦の、四日と少しだ。


「四日ぶんです」


 答えてから、もう一つ気づいた。当たっていることは、人に言われる前に、自分の口で言う。


「……いいえ。渡るのは、春です。この冬の麦は、一日ぶんも減りません」


 ステファノは、うなずいた。責める目では、なかった。数を確かめ終えた人の目だ。


「ただ、北では、一人が日に一枚に届かぬと伺いました。数が大きくなれば、あの値は効いてまいります。蔵の者として、それは申し上げておきます」


 公平な人だった。公平に並べられると、足りないぶんが、よけいにはっきり見える。


 歩いて持ってきた数は、四千四百の冬の前では、四日ぶんにもならなかった。


「残りは、どうする」


 リヴィアが訊(き)いた。


「北の家だけでは、書けません。アルデンには、ほかにも家があります。働き手が町へ出て、畑の空いた家です。来年の夏に、関と商いの取り決めを結び直す卓が、アルデンの王都に置かれます。橋を渡る者のことも、そこへ載せると、王妹(おうまい)殿下に伺いました」


「川べりの者は、誓いの国の家を恐れる。北の家が誓わせぬことは、テオの口で分かった。ほかの家は、どうだ」


「確かめていません。帰りに、王妹殿下に伺います」


「確かめておらぬことは、書かぬ。夏の卓までに、書いて届けよ」


「はい」


 書記の筆が、二本とも動いた。


「名代殿。夏では、この冬に間に合いませぬ」


 侍従長が、低い声で言った。


「蔵の家の麦のほかに、冬を越す手はございませぬ」


 リヴィアは、胸の青い石に指を置いた。少しして、離した。


「借りの証文に、名を書く。麦は、受ける。縁組の返事は、期限までに出す」


 筆が、証文の下へ下りた。速くて、迷いの見えない線だ。終わりの一画(いっかく)が、少し長い。


 春から、文の終わりで何度も見てきた名だった。


 その名で、四千四百人が冬を越す。同じ名の下に、次の祭りという期限が付いた。その日までに返せなければ、借りが残る。借りを消す道は、三行目に書いてある。


 自分が持ってきたのは、百二十と、夏までに書いて届けるという約束だけだ。


  ◇


 三日あとの夕方に、卓は済んだ。


 残りの三日で、春の百九人を渡す段取りを詰めた。橋を荷車が渡れる日から、三十人ずつ渡す。テオが、その初めの組を橋で迎える。


 エルドは、広間の外の回廊で、柱の脇に立っていた。


 日は、坂の向こうへ入ったところだ。名代の言うことが書かれるのは、日の入りまでだと聞いている。書記は、もう筆を置いて帰った。


 衣の音がして、リヴィアが広間から出てきた。侍女が一人、後ろについている。


「リヴィア」


 白い肩掛けが、柱の前で向きを変えた。侍女は、回廊の角まで下がった。レイフは、後ろにいる。


「明日の朝、発ちます。その前に、祭りの晩と同じことを、もう一度言いに来ました」


「祭りは、明けたぞ」


「はい。祭りの日にしか言えないことなら、初めから言いません」


 リヴィアは、黙った。行け、とも、言うな、とも言わない。


「蔵の家の証文は、卓で聞きました。やめてください、と言える数を、私は持っていません。それでも、取り下げません。あなたが、ほしい」


 夕方の風が、回廊を抜けていった。


「……書記がおらぬ。風だ」


 よく通る声が、いつもより低い。


「はい。私が、覚えています。それで足ります」


 リヴィアは、柱に片手を置いた。坂の下を見ている。屋根の向こうに、北へ行く街道が白い。


「夏の卓は、アルデンの王都だな」


「はい」


「南からは、正使を出す。誰を出すかは、父上が決められる」


 名代の声だった。そこで、声が変わった。


「そなたは、来年も——」


 切れた。


 唇は、開いている。続きの音が、来ない。柱に置いた指の先が、白くなった。喉が一度動いて、何も出てこなかった。


「見ました」


 リヴィアは、口を閉じた。こちらを見ない。


「……見るな」


 夕方の光の中で、頬に朱がさしていた。祭りの晩と、同じ色だ。あの晩は、怒りの色だと思っていた。


 この人の声が切れるのは、求めぬ、の行に触れるときだけだ。蔵で、当人にそう教わった。


 いま、この人は、何かを求めかけた。来年も、のあとに続く言葉は、多くない。


 言えない人に、言わせようとはしない。言えない人のぶんは、言える者が言えばいい。


「来年も、参ります。来い、と言われなくても」


 リヴィアが、こちらを向いた。黒い目が、まっすぐに来る。


「……わたしは、言っておらぬ」


「はい。言われていません。私が、決めました」


 返事は、来なかった。


 リヴィアは、柱から手を離して、回廊を歩いていった。角で、侍女があとに続く。白い肩掛けの背は、角を曲がる前に、一度だけ歩みを緩めた。


 後ろで、レイフが、長い息を吐いた。


  ◇


 次の朝、王宮の門で、名簿に名を書いた。隣に、テオの大きい字が並ぶ。朝の石が、靴の底から冷たい。


 リヴィアは、書記を一人連れて、門の内に立っていた。胸に、青い石がある。


 書記が、卓で決めたことを読み上げた。


 ——アルデンの北の家は、春、国境の橋を荷車が渡れる日から、百九人を迎える。


 ——残りの数と、誓わせぬ条のことは、夏の卓までに書いて届ける。書けぬときは、書けぬと書いて届ける。


「夏の卓に、持ってこい」


 名代の声は、切れずに終わりまで出た。回廊では、切れた声だ。どこが違うのかは、まだ分からない。


「はい。持って参ります、王女殿下」


 右の手のひらが、上を向いて出てくる。同じ形で返した。何も載せていない手が、門の内で向かい合った。


 サンドロの嗄(しわが)れた「通れ」に送られて、門を出た。


 坂を下りながら、レイフが言った。


「ゆうべは、誰も来ませんでした」


「はい。来ませんでした」


 前にこの門を出た朝には、前の晩のうちに言づけが来ていた。名代として見送る、という言づけだ。踏み場の縁に座っていた人は、門には来ない。そういう知らせだった。


 門に立っていたのが、どちらの人だったのか。今度は、何も言づけられていない。


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