【第三部 鎖が解けるまで】第13話 名代は怒る
リヴィアは、ノエミに髪を梳かせながら、坂の下の太鼓を聞いていた。
祭りの二日目の夜だ。居間の窓は開けてある。踏んだ葡萄の匂いが、灯りの油の匂いに混じっていた。広場から戻って、まだいくらもたっていない。
櫛が、いつもより遅い。
ノエミは、何も訊かない。広場では、声の届かない柱の下にいた。話は聞こえていない。それでも、杯に口も付けずに席を立つ所は見ている。同じ乳で育った女だ。訊かなくても、櫛の遅さで訊いている。
「ノエミ。櫛が遅い」
「申し訳ございません、姫様」
詫びたあとも、櫛は同じ遅さで下りてきた。
腹が、立っている。
夏には、蔵の内の行を四枚の紙に書いて、書記のいる机へ送ってきた。今度は、口だ。エルドは、町じゅうが座っている机で、隣に座って言った。
しかも、今日だ。
帳簿に無い日だ。王の家の帳簿には、祭りの二日目、としか書かれていない。年に一度の祭りの、青い石を外して、町の者に名で呼ばれて座る晩だった。
あの机で、リヴィアは笑っていた。
歩数の一行を用件のつもりで書いた、と聞いて笑った。姉君が当主から宿賃を取ると聞いて、また笑った。庭でも踏み場でも、人一人ぶん空けて座った男だ。今夜は、空けずに座った。それを咎めもせずに、隣にいた。
その席へ、あの者は一言を置いた。
——あなたが、ほしい。
櫛が、髪の先まで下りた。
机の筆に手が伸びた。伸ばした手を、引いた。
今日は、誰も書かぬ日だ。写しも取れぬ。書けば、あの者の言ったことは、風でなくなる。
書けぬのなら、頭の中に並べるほかない。
一つだけ言う、とあの者は言った。よい。四枚よりは、ましだ。
残らぬ日を選んだ、とも言った。これも、よい。書記の筆には載らぬ。四枚の落ち度を、覚えてはいたらしい。
返事は要らぬ、と言った。
違う。
求められた者は、どうすればよい。夏に、紙屑の余白に書いた問いだ。あの者は、その答えを持たずに来た。持たぬまま、自分の言うぶんだけを済ませた。
聞かなかったことにできる日だ、とも言った。
これも、違う。
一度聞いたものを、わたしは忘れぬ。誰も書かぬ日を選べば残らぬ、とあの者は読んだ。聞いた者が覚えていることは、数に入れておらぬ。
この先、祭りの二日目が来るたびに、わたしは、あれを聞くことになる。
終わりに、自分の返した言葉を並べた。成らぬものを求めるな、と言った。
これは、わたしの言葉のほうに穴がある。
あの者を止める行は、六行のどこにも無い。夏の写しの余白に、自分の手で、よい、と書いた。止める行の無い者に、求めるな、と言っても、風の日の風だ。
あの者は、穴を見つければ通る。また、言うであろう。
櫛の音が、やんでいた。ノエミは、黙って窓のほうへ行って、戸をもう少し開けた。夜の風が頬に当たる。
冷たい風だった。熱いのは、頬のほうだ。
「下がってよい」
ノエミは、櫛を机に置いて、戸の外へ出ていった。
◇
一人になった。
退ける言葉は、するりと声になった。
では、何が言えぬのか。
蔵では、声が切れた。坂の踏み場でも、切れた。夏の夜明けには、筆が宙で止まった。三度とも、エルドへ向けた言葉だった。
部屋には、誰もいない。窓の外は、太鼓だけだ。
確かめておらぬことは、言わぬ。ならば、確かめる。
「……ほしい」
声に、なった。
小さい声だ。それでも、息は途中で切れずに終わりの音まで行った。壁は、何も返さない。
もう一度、言った。今度は、名を付けた。
「エルド=ファーレンが、ほしい」
これも、声になった。
右の手を灯りにかざした。甲の紋は、古い色のまま何も言わぬ。
言えるのだ。壁に向かってなら、何度でも。
あの者の耳へ届く所でだけ、この紋は、わたしの喉を塞ぐ。届かぬ言葉は、求めたうちに入らぬらしい。
言えた所で、何になる。
腹の立ち方が、少し変わった。さっきまでは、エルドにだけ立てていた。いまは、何百年も前の一行にも立っている。父上も、筆の止まった晩に、同じ腹を立てたと言っておられた。
寝台に入る気には、なれずにいた。灯りを持って、回廊を渡った。
弟の寝間は、奥の庭に面している。戸を細く開けると、寝息が聞こえた。
パウルスは、掛け布を蹴り落として、斜めに寝ていた。黒い髪は、寝ていても跳ねている。枕元に、板と葦の紙があった。名の稽古だ。終わりの一画が、今日も長い。
掛け布を拾って、肩まで掛け直した。母がしていたことだ。十一年、リヴィアがしている。
この子が広間の端に立てるのは、十四だ。冬を、あと三つ越さねばならぬ。父上は、今朝で十歩。広間の椅子までは、まだ三十歩残っている。蔵は、底だ。祭りが明ければ、川べりはまた増える。
わたしの行は、入れぬ、と言う。エルドは、北の当主だ。置いてよそへ行く気にはならぬ、と蔵で言った男だ。わたしも、ここを置いては行かぬ。
成らぬ、と言ったのは、手の紋ではない。わたしだ。
寝息は、変わらずに続いていた。
◇
祭りの三日目、リヴィアは町へ下りずにいた。
朝は、父の寝所で歩数を見た。今朝も十歩だ。父は椅子の背をつかんで、祭りが明ければまた増えるな、と言った。川べりのことだ。増えます、と答えた。
昼は、奥の庭にいた。泉の縁に座っていると、パウルスが門のほうから戻ってきた。手に葡萄を一房持っている。
「姉上。今日は、町へ行かないの。きのうは、行ったのに」
「きのうは、きのうだ」
パウルスは、それ以上は言わずに、隣に座った。
「門で、サンドロに葡萄をもらった。門から、坂の踏み場が見えたよ。北の人がいた」
膝の上で、指が肩掛けの端を折った。
「大きいのと、二人だった。踏み場の縁に座って、人が踏むのを見ていた。踏めばいいのに、とサンドロに言ったら、北の者は踏み方を知らんのだ、って」
踏み場の縁。
前の秋の終わりに、リヴィアが座っていた所だ。半分、と言って、その先が声にならずに終わった所だ。
「何か、言っていたか」
訊いてから、訊くつもりの無かったことに気づいた。
「遠くて、声までは届かないよ。……姉上、訊きたいの」
「訊いてはおらぬ」
「いま、訊いた」
見たままを言う子だ。聞いたままも、言う。
「北の人は、ここが寄っていた」
パウルスは、自分の眉のあいだを指で押さえて見せた。
「分からないものを見ているみたいだった。姉上も、蔵の帳簿の数が合わない日には、同じ所が寄る」
「わたしは、寄せぬ」
「寄る」
パウルスは、葡萄を一粒取って、こちらの手のひらに載せた。それきり、口を閉じている。
葡萄は、甘かった。
その晩の長い机にも、リヴィアは座らずにおいた。
◇
祭りが明けた朝、ノエミが青い石を持ってきた。
首に掛ける。髪は、後ろで一つに束ねさせた。戸の外で、書記が二人、筆を持って待っている。今日から、言うことはまたみな書かれる。
今日の卓には、蔵の跡取りが座る。北の当主も座る。十一人の夏の数と、次に橋を渡す数と、冬の麦の話をする。風の話は、きのうで終わった。
鏡の前で、顔を作った。名代の顔だ。作るのに、いつもより息一つぶん長くかかった。
広間へ行く回廊は、奥の庭の脇を通る。泉の縁から、パウルスが顔を上げた。
目を合わせずに、通りすぎた。この顔が出来ているかどうかを、あの子に言い当てられたくなかった。
「姉上。今日は、歩くのが速い」
後ろから、声が追ってきた。




