【第三部 鎖が解けるまで】第12話 風の三日
エルドは、辻の畳んだ台の脇に立って、コルネリアの杯が空くのを待っていた。
祭りの二日目の、昼すぎだ。台の脚の名の板には、葡萄の葉が掛けてある。代書人は、年に三日だけの休みを、台の前の腰掛けで過ごしていた。坂の上からも下からも、太鼓が聞こえる。
「ご当主。今日は、写しはございませんよ」
「はい。一つ、教えてください。祭りの日に人に物を贈るには、どうすればいいのですか」
コルネリアは、杯を膝に置いた。節の立った指が、ペンの無い所で少し動く。
「贈り物には、証文が付きます。ところが、この三日は誰も書きませぬ」
「では、贈れないのですか」
「贈れます。その場で無くなる物でしたら。食べる物か、呑む物でございます。無くなってしまえば、受けたの返したのと書くことが、残りませぬので」
「花は、どうですか」
「三日では、枯れませぬ。残ります」
北では、着くころには茎だ、と言われた。ここでは、枯れないので駄目だという。花というものは、よくよく自分に向いていないらしい。
「……呑む物に、します」
「それがよろしゅうございます。どなたに、とは伺いませぬ。今日は、姫様の日でございますが」
伺わない、と言いながら、言っている。後ろで、レイフが鼻から短く息を抜いた。
辻を離れて、広場のほうへ歩いた。
昼前に王宮の坂を下りてきたとき、途中の踏み場には、裸足の男と女が入っていた。前に見たときは、洗って干してあった石の囲いだ。今日は、縁まで紫が跳ねていた。
歩きながら、きのうの席で言われたことを、もう一度並べた。
向かいに並んで座った二人のうち、片方だけを一度も見ない。たまたまなら、一度や二度は目が流れる。一度も、というのは、見ないと決めていなければ、できないことだ。
そこまでは、読めた。
見ないと決めた訳は、二つ読める。顔も見たくないのか。見れば、何かが顔に出るのか。どちらなのかは、机の上では決まらない。紙より先に顔だ、と教わった。その顔を、きのうは一度もこちらへ向けてもらえなかった。
確かめに行くのとは、違う。今日は、言いに行く。
「レイフ。今夜は、広場の長い机に座ります。あなたも、隣に座ってください」
「隣では、全部聞こえます」
「構いません。聞いていてください。今日言うことは、どこにも書けません。あとで確かめる先が、要ります」
「はい」
この男の返事は、いつもと同じ長さだった。
◇
日が傾くと、広場の長い机に、綱の灯りが端から点っていった。
足の下の石は、昼の熱をまだ持っている。鍋の湯気と、若い酒の匂いがした。白い肩掛けは、東の端の机にあった。
リヴィアは、町の女たちに挟まれて座っている。深い青の上衣の胸に、石は無い。黒い髪は、束ねずに背へ流してあった。隣で、ジュリアが鍋の中身を椀によそっている。
「二十六だね、リヴィア。めでたいよ」
「めでたい歳でもない」
近づくと、そういう声が聞こえた。
向かいには、ステファノがいた。肩に縄の跡のある男たちに囲まれて、冬の麦の値を訊かれている。干し葡萄が、机の上に五つ六つ並んでいた。少し離れた灯りの柱の下には、侍女が立っている。声の届かない所だ。
「エルド! 花婿殿も。座りな、空いてるよ」
ジュリアが、匙を持った手を振った。指しているのは、机の端のほうだ。
リヴィアの右隣も、空いていた。
そちらへ歩いた。椅子を引いて、座る。あいだに、人一人ぶんは置かずにおいた。
「リヴィア。隣に座ります」
言ったのは、座ってからだった。訊くより先に、体のほうが座っていた。
返事は、ひと息遅れた。
「……席は、町のものだ。わたしが許すことではない」
黒い目が、こちらの肩と自分の肩のあいだを見た。
「近いな。客の距離は、どうした」
「あの幅では、今夜の用が足りません」
リヴィアは、何か言いかけて、やめた。前を向いて、椀に目を落とす。
レイフが、反対の隣に座った。ジュリアが、その前に椀を三つ並べた。
向かいで、ステファノが立った。
「蔵の者は、朝が早うございます。麦は、日の出に量りますので。名代、お先に失礼いたします」
「祭りの日にも、量るのか」
「麦は、祭りを知りませんので」
男たちが笑った。ステファノは、机の干し葡萄を一粒ずつ袋に戻して、こちらへ頭を下げた。
「北の当主。卓で」
「はい。卓でお願いします」
ステファノの目が、二つの椅子のあいだを一度通った。何も言わずに、灯りの下を帰っていく。
広場の真ん中で腕比べが始まると、ジュリアも女たちも、そちらへ流れていった。
机の、こちらの端が空いた。太鼓のおかげで、三つ向こうの席の話は聞こえない。
「陛下は、今朝は何歩でしたか」
訊くと、リヴィアは椀から顔を上げた。
「十歩だ。……そなたは、まずそこを訊くのだな」
「春に、増えますようにと書きました。増えたかどうかを、知りたかったのです」
「あの一行なら、書記が広間で読み上げた。綴りにも、綴じてある」
「……用件のつもりで書きました」
「用件には聞こえなかった」
リヴィアは、声を立てずに笑った。きのうの席で見た笑い方だ。今日は、こちらを向いている。
「北の騎士の文に、姉君が山の湯で宿を始めたとあった」
「この夏に、泊まりました。客の値でした。一枚もまけてもらえませんでした」
「当主から取るのか」
「払った客に世話も何もない、と言われました」
「……よい宿だ」
今度の笑いは、少し長かった。一年のあいだ、文の終わりの一行と名でしか会えなかった人が、隣で笑っている。肩掛けの端が、こちらの袖に届きそうな所にあった。
「きのうの席で、蔵の跡取りに、帳簿の列の分け方を教わりました。気持ちのいい人でした」
「……そなたは、顔合わせの相手を、当人の隣で褒めるのか」
「見たとおりを言いました」
「条の立つ男だ。穴が、見つからぬ」
褒めているのに、条を読むときの声だった。
「辻で聞きました。今日が、あなたの生まれた日だと」
「町の者は、口で覚える。帳簿より確かだ、と当人たちは言う」
「おめでとうございます。祭りの贈り物は、その場で無くなる物に限る、と教わりました」
壺を取った。今年の葡萄で仕込んだ、若い酒だ。リヴィアの杯に、縁の少し下まで注ぐ。
「呑めば、無くなります」
「誰に教わった」
「辻の代書人です」
「あの者は、休みの日にも務めるのだな」
壺を置いた。自分の杯は、伏せたままにしてある。リヴィアの目が、それを見た。
「そなたは、呑まぬのか」
「今日は、呑みません。前の祭りの晩に、三杯で長い話をしました」
「した。七つあるうちの三つ目で、止めた」
「酒が言わせた、ということにしたくないことを、言いに来ました」
杯へ伸びかけていた白い手が、机の上へ戻った。
「……長い話なら、聞かぬぞ」
「一つだけです」
太鼓が、鳴っている。隣で、レイフの匙の音がやんだ。
「リヴィア」
黒い目が、こちらへ来た。
「あなたが、ほしい」
言ってしまうと、短い。夏に紙を四枚使って、書けたのは、会いたい、までだった。
リヴィアは、動かない。灯りが、風で揺れた。
「返事は、要りません。今日言ったことは、明日には残らないと聞きました。それで、今日を選びました。あなたが、聞かなかったことにできる日です」
訳を置くあいだも、目は逸らさずにいた。
「成るかどうかは、私には分かりません。分からないまま、言いに来ました」
「成らぬ」
すぐに出た声だった。
灯りの下で、頬に朱がさしていた。酒には、まだ口を付けていない人だ。
「……成らぬものを、求めるな」
リヴィアは、立った。椅子の脚が、石を擦る。上衣の裾を払いもせずに、机を離れた。
自分も立って、胸から上を傾けた。顔を上げたときには、白い肩掛けは、もう机のあいだを歩いていた。柱の下から侍女が離れて、あとに続く。
灯りの外へ出るまで、その背はこちらを向かずに行った。
座り直した。耳が、熱い。酒は、一口も呑んでいない。
「聞きました」
隣で、レイフが言った。匙は、置いたままだ。
「……はい」
確かめる先は、頼んだとおりに、全部聞いていた。それより先のことは、何も言わない男だ。
成らない、と言われた。それでも、言ったことを取り下げる気にはならなかった。
風の日だ。明日には、どちらの言葉も残らない。
隣の席に、杯が一つ残っていた。
呑めば無くなるはずの酒は、縁の少し下で、灯りを映している。




