【第三部 鎖が解けるまで】第11話 顔合わせの席
エルドは、宴の広間の入口で、腰の剣を棚の者に預けた。
祭りの初日の昼だ。坂の下から、太鼓と笛が上がってくる。踏んだ葡萄の甘酸っぱい匂いは、王宮のいちばん奥まで届いていた。門の名簿は、今朝から閉じてある。三日のあいだ、この国では誰も書かない。
木の札を受け取ると、レイフも隣で剣を預けた。
「エルド様。顔は、どうしますか」
札を懐に入れかけた手が、止まった。
「顔、とは何のことですか」
「マグダが、その顔のまま座るな、と言っていました」
山の上で言われたことだ。全部出てる、とも言われた。
「……作り方を、知りません」
「では、そのままです」
レイフは、それで話が済んだというようにうなずいた。
侍従長が、長い衣の裾を引いて迎えに出てきた。
「北の当主。お席は、上座の向かいでございます。蔵の跡取りの、お隣に。お連れは、あちらの机へ」
柱の向こうの小さい机を、手で示す。白い髪の老人が一人、先に座っていた。蔵の家の供らしい。レイフは、黙ってそちらへ歩いていった。
前に、何度も入った広間だ。奥の長い机の真ん中で、青い布を掛けた王の椅子が、今日も空いている。昼でも、柱の灯りには火が入っていた。
隅の、書記の小さい机には、誰もいない。筆も帳簿も、片づけてあった。
手前の机から、男が一人立った。
三十の手前だろう。背は、自分と変わらない。南の人にしては、顔も手も色が白い。外より、蔵の内にいる時のほうが長いのだろう。
右の手のひらが、上を向いて出てくる。同じ形で返した。中指の節に、ペンのたこが盛り上がっていた。
「蔵の家のステファノでございます。北の当主のことは、辻で聞いてまいりました。写しを数える手が、たいそう速いと伺いました」
「エルド=ファーレンです。……辻は、耳が早いのですね」
「あの台に一日座れば、町じゅうに名が回ります」
目の端に、細かい皺が寄った。笑うと、そうなる人らしい。
ステファノ。夏の入りに、北の役所で聞いた名だ。口の中で、一度言った。その名の人が、いま隣の椅子を引いている。
嫌な所の、見当たらない人だった。見当たらないことに、少し困った。
◇
衣の音がして、奥の戸からリヴィアが入ってきた。
深い青の上衣に、白い肩掛け。黒い髪は、後ろで一つに束ねてある。胸に、青い石が無い。祭りの膳には、着けない人だ。前の祭りの晩の机でも、そうだった。後ろにいるのは、侍女が一人だけだ。
ステファノが立った。エルドも立った。
リヴィアは、ステファノの前で足を止めて、右の手のひらを差し出した。左の手が、添えてある。ステファノが返す。黒い目が、返された右の手に一度落ちて、顔へ戻った。
「蔵の跡取り。よく来た」
「お招きにあずかりました、名代」
リヴィアは、奥の机を回って、王の椅子の隣に座った。
こちらには、手は出なかった。目も、来なかった。
黙って、座り直した。
侍従長が、奥の机の端で咳払いをした。
「北の当主は、この国の顔合わせの席は初めてでございましょう。先に習いを申し上げます」
老人は、こちらへ体を向けた。
「婚礼の証文には、持参を並べる行がございます。迎える家が出すものと、入る方が持ってこられるものを、一つずつ書きます。蔵と麦と銀のことは条でございますので、祭りが明けた卓で詰めます。今日は、顔合わせでございます。持参のうち、紙に書けぬほうを、当人の口で並べていただきます」
「紙に書けないほうとは、何のことですか」
訊いてから、客が口を挟む所ではなかったかと思った。侍従長は、気を悪くしたふうもなく答えた。
「人のほうでございます。何ができて、何ができぬか。何が欲しいか。祭りの日でございますので、言いにくいことほど、今日のうちに申すのがよいとされております」
「では、言いにくいほうから申します」
ステファノが言った。懐から小さな布の袋を出して、口を開ける。干した葡萄だった。
「蔵の者の癖でございます。数は、目の前に置かないと落ち着きませんので」
一粒、机に置いた。
「出せるものは、目でございます。十五の年から、蔵の帳簿を付けてまいりました。麦がどの月に幾ら減るかを、帳簿を開かずに申し上げられます」
二粒目が、少し離して置かれた。
「出せぬものも、ございます。剣は、持ったことがありません。蔵の鍵は、弟に渡してまいります。……惜しゅうございます。それも、申し上げておきます」
三粒目は、リヴィアに近いほうへ置いた。
「欲しいものは、一つです。帳簿の話が通じる方の隣に、座ることでございます。名代は、帳簿を読むのがたいそう速いと聞きました。そういう方の隣で帳簿を開いたことが、わたしには、まだございません」
嘘の無い声だった。値を吊り上げる声とも、機嫌を取る声とも違う。持っている物と欲しい物を、秤の両方の皿に載せて見せている。
リヴィアは、机の上の三粒を見ていた。
「迎える家の持参を言う。わたしも、言いにくいほうからだ」
よく通る声が、柱のあいだに届いた。
「王の家に入る者は、朝から日の入りまで、言うことをみな書かれる。わたしの隣に座れば、そなたの言うこともだ。書かれぬ所は、寝所と湯のほかに、幾らも無い。それから、弟が一人いる。十一だ。見たままを言う。隠したいことのある者には、勧めぬ」
侍従長の白い眉が、少し下がった。めでたい席で、名代が家の難ばかりを並べている。
「父上は、病み上がりだ。口のほうは、病む前より達者になられた。蔵は、底が見えている。これは、そなたのほうがよく知っていよう」
人の条の穴を、先に指す人だ。今日は、自分の家の穴を指している。
ステファノは、声を立てて笑った。
「書かれるのには、慣れております。蔵では、麦の一袋まで書きますので。見たままを言う方は、帳簿より怖うございますな」
「怖いぞ。パンを残すと、その場で言われる」
リヴィアは、声を立てずに笑った。
話が、合っている。侍従長の眉が、元の高さへ戻った。
笑わせたのは、隣の男だ。それが、思っていたより堪えた。
◇
膳が、運ばれてきた。
甘い根と豆の煮込みに、白いパンが付く。葡萄の酒の匂いが、湯気の奥にあった。この国の祝いの膳は、辛くない。構えずに匙を入れられる。
柱の向こうでは、レイフが、蔵の家の老人と向かい合っていた。二人とも黙って、同じ速さで皿を空けている。
ステファノは、パンを割りながら、こちらへ体を向けた。
「北の当主。数の紙を拝見しました。卓の支度にと、書記殿が蔵の家へも回してくださいましたので」
「十一人の夏の数ですね」
「はい。右と左が、一枚で合っておりました。一つだけ、申し上げてもよろしいですか」
「お願いします」
干し葡萄が、こちらの皿の脇に二粒並んだ。
「入り用の列に、パンと、塩と、屋根の板がありました。パンは、毎日要ります。板は、一度葺けば十年もちます。同じ列に足すと、来年も同じだけ要るように読めます。蔵では、棚の修繕と麦を、同じ頁には書きません」
二粒のあいだが、指で少し広げられた。
言われて、紙を頭の中に広げ直した。毎日出ていく銭と、一度きりの銭だ。足せば、合う。合うからといって、同じ列に置いてよいわけではなかった。冬に川の町で帳付けをしたときには、足して合えば、それで済んでいた。
「……分けます。毎日の入り用と、一度きりの入り用に。次に橋を渡る人数を出すときに、効いてきますね」
「効きます。百人ぶんの屋根を、百人ぶんのパンと一緒に足すと、数が怖くなりますので」
「教わりました。覚えました」
自分の声が、少し弾んだ。
恋敵、という語があることは知っている。その相手と、帳簿の列の分け方で話が合っている。
「板は、二百四十であったな」
奥の机から、声が来た。
リヴィアは、ステファノを見ていた。
「外せば、十一人の夏の入り用は千百十六だ。こちらの厚い銅貨に直せば、一人が日に一枚に届かぬ。北のパンは、安い」
紙に書いた合計は、千三百五十六だった。二百四十を引けば、合う。銅貨の直し方まで、合っていた。
あの紙がこの人の机に載っていたのは、おとといの、わずかなあいだだ。
「千百十六でございますか。……名代は、北の数まで、そらでお持ちでございますか」
ステファノが、感心した声を出した。
「机に載った紙は、読む。務めだ」
答える目は、やはりステファノにあった。
読むのが、速い人だ。書庫で写しを繰るのを見たときから、知っている。一度読めば、頭に残るのだろう。どの紙でも、そうなのだろう。それだけのことだ。
そう片づけて、パンを割った。
◇
皿が下がると、侍従長が立った。
「条は、祭りが明けた卓で詰めます。——よい顔合わせでございました」
終わりの一言だけ、声が柔らかかった。
リヴィアが立つ。上衣の裾が、石の床の上で揺れた。
「蔵の跡取り。祭りは、あと二日ある。町の机にも座っていけ。蔵の者が何を食べているかを、町は見たがる」
「そういたします」
「北の当主も、町を見ていかれよ」
顔は、ステファノとのあいだの、誰もいない所へ向いていた。
白い肩掛けの背が、奥の戸へ消えた。侍女が、あとに続いた。
入口の棚で、札と剣を引き換えた。レイフは、先に受け取って、柱の脇で待っている。
「北の当主」
ステファノだった。干し葡萄の袋の口を、紐で縛りながら歩いてくる。
「今日は、よい席でございました。屋根の板の話を、あれほど嬉しそうに聞く方を、初めて見ました」
「……顔に、出ていましたか」
「出ておりました。板の話のほかも」
返す言葉を、探した。見つかる前に、ステファノは袋を懐に入れた。
「顔合わせは、相手の顔を見る日でございます。わたしは、名代の目がどこへ行くかを見ておりました。蔵の者は、自分の麦の行く先を知りたがりますので」
目の端の皺が、消えていた。
「名代は、あなたの方を一度もご覧になりませんでしたな」




