【第三部 鎖が解けるまで】第10話 客の欄
エルドは、橋の真ん中で、敷石の色の変わる所を自分の足で越えた。
後ろに、レイフとテオが続いた。三人とも、足は止まらない。
南の岸の関で、役人が証文を読んだ。白くて厚い一枚だ。去年の夏にリヴィアが名を書いた招きの証文を、そのまま持ってきた。
「客人、エルド=ファーレン。連れは」
「二人です。従士と、北の家が雇っている者です」
テオが、自分の証文を出した。役人は、雇う者の名の所を指で押さえて、テオの顔を見た。
「槍を置いて渡った者だな。解いて、帰ってきたのか」
「いいえ。北の家の用で通ります。祭りが明けたら、北へ帰ります」
帰る、とテオは言った。北へ来て、まだ三月にならない。
◇
関を抜けると、道の脇から天幕が始まった。
天幕の前に、男たちが座っている。鍋の煙と、干した葦の匂いがした。こちらを見る目は多いが、立つ者はいない。
「……テオか」
鍋の脇の男が、腰を浮かせた。
「テオだ。北へ行ったテオだぞ」
人が、寄ってきた。十人が二十人になり、すぐに数が分からなくなった。テオは、荷を下ろして、両方の手を上げて見せた。
「何も無いよ。証文に名を書いただけだ。便りに書いたとおりだ」
「便りは、三度読ませた。パンは、ほんとに固いのか」
「固い。噛んでると、うまい」
笑いが起きた。笑いが引くと、別の声が訊いた。
「町の者は、まだ戸を閉めるのか」
「閉める。おれたちの足がそろってたのが、怖かったんだ。九年前に、そういう兵が城を焼いたんだと。粉屋は、麦を挽いてくれる。おかみさんには、袋の口をきつく縛れって叱られた」
今度は、誰も笑わなかった。黙って聞いている。
便りに書いてあったことを、同じ者が口で言っている。それだけで、聞く側の顔が違った。紙は、三度読ませても、訊き返せない。この男には、訊き返せる。
髪に白いものの混じった男が、人のあいだからこちらを見た。
「あんたが、北の当主か。あと何人、行ける」
「百二十までは、書いて南へ届けてあります。その先は、まだ書けません。祭りが明けた卓で、数を詰めてきます」
「書けんものは、書けんと言うのか」
「はい」
男は、短く笑った。良いとも悪いとも言わずに、鍋のほうへ戻っていった。
「北の当主」
テオが、小さな声で言った。
「おれは、七日、ここにいていいですか。口で言わないと、信じない連中なんで」
「いてください。祭りが明けたら、王宮の門で、北の家のテオだと名を言ってください。卓で、いまと同じ話をしてもらいます」
テオは、大きくうなずいた。振り返ったときには、もう三人に袖を引かれていた。
◇
七日あとの昼すぎに、南の王都の坂を上がった。
蜂蜜色の石が、秋の日を照り返している。辻という辻に、布の屋根の骨が組んであった。祭りは、あさってからだ。
王宮の門で、名簿の役人に呼び止められた。
「客人は、証文を」
白い一枚を渡した。役人は、上から下まで読んで、厚い名簿を繰った。指が、去年の秋の頁で止まる。
「エルド=ファーレン。去年の秋に、出た、とある。……この証文に、期限は」
「書いてありません」
「解いた、という書き足しも無いな」
「ありません。読み直してきました」
役人は、証文と名簿を見比べて、しばらく黙っていた。
「客は、自ら望む日に来て、自ら望む日に帰る、とある。済んだとは、どこにも書いていない。ならば、客だ」
役人は、羽根ペンを差し出した。
「客の欄に、名を」
書いた。隣に、連れ、と書き足されて、レイフが名を書く。
役人が、名簿を引き寄せて読み上げた。
「エルド。レイフ」
「通れ」
門の脇から、嗄れた声がした。肩幅の広い兵が、槍を立てている。
「サンドロ殿」
サンドロは、太い首をこちらへ向けた。
「名を、覚えていたか」
「去年、辻で聞きました」
「北で、当主になったと聞いた。……通れ。二度は言わん」
二度、言ってくれた。
◇
広間の机の向こうに、リヴィアがいた。
深い青の上衣に、白い肩掛け。胸に、青い石。黒い髪は、後ろで一つに束ねてある。机の両端で、書記が二人、筆を取っていた。侍従長が脇に立ち、柱のそばに侍女が控えている。
一年ぶりだ。そう思ったとたんに、足が一つ遅れた。
胸から上を傾けると、リヴィアは立って、右の手のひらを上に向けて差し出した。左の手が、添えてある。同じ形で返した。何も載せていない手が、机を挟んで向かい合った。
手を下ろすときに、甲が上を向いた。
黒い目が、そこへ落ちた。右の手の甲の、薄い青の結び目だ。ひと息ぶん、長く留まった。
「……結んだのだな」
「はい。引き取れるものを、一つ」
リヴィアは、それ以上は訊かなかった。目が、顔へ戻ってくる。なぜそこで留まったのかは、分からなかった。
「北の当主。橋から七日であろう。座られよ」
名代の声だった。
客の椅子が、机の前に出してある。机とのあいだは、人一人ぶんだ。去年はこちらが空けた幅を、今年は向こうが置いている。
「文に、十一人の夏のことを書いて寄越せ、とありました」
「書かせた」
「寄越しに来ました」
若い書記の筆が、一度止まって、また動いた。リヴィアの目が、少し細くなった。
「……運ぶ者までは、書かなかったな」
「はい。書いてありませんでした」
懐から、数の紙を出した。畑に入った六人が起こした広さ。道に入った五人が、沢の渡りに積んだ石の段。パンと塩と屋根の板に出た入り用。右と左に分けて、一枚に収めてある。
老いた書記が、受け取って目を通した。
「……右と左が、合っております。よい帳付けでございますな」
書記は、紙から顔を上げて、リヴィアのほうを向いた。
「名代殿。祭りが明けますと、雇いの結び直しで、写しの数を合わせる手が足りませぬ。北の当主を、十日ほど宮廷でお雇いしては——」
「ならぬ」
間が、無かった。
「日に三枚でも、でございますか」
「ならぬ。客に帳付けをさせる宮廷が、あるか」
老いた書記は、頭を下げた。
礼の話にしては、返事が早すぎた。仕えさせぬ。蔵で、この人は自分の行をそう読んでいた。早かったのは、そちらのほうだろう。
「王女殿下。一つ、お詫びを申し上げます」
書記の筆が動いているのは、承知している。それでも、これは口で言うと決めてきた。
「先の文に、書いてはならないものを書きました。片づけてくださったと、返事で知りました」
「蔵に納めた。済んだことだ」
短い声だった。
「長い文は二度と書くな、と書いた。読んだか」
「読みました。長い文は、書きません」
リヴィアの目が、ひと息、こちらの顔に留まった。
「……ならば、よい」
老いた書記が、脇から名簿の写しを差し出した。
「名代殿。門より、報せでございます。北の当主の名が、客の欄に戻りました。去年の招きの証文が、解かれておりませぬので」
リヴィアは、写しを一目で読んだ。指の背が、机を一度叩いた。
「期限を書かなかったのは、わたしの落ち度だ」
筆が、それを書いた。
落ち度なら、いま書き足せば済む。書記は二人いる。筆も、紙もある。解く、と一行足せば、自分は客でなくなる。
リヴィアは、書き足せとは言わなかった。
「客殿を使え。卓は、祭りが明けてからだ」
「名代殿」
侍従長が、一歩出た。
「あさっては祭りの初日、顔合わせでございます。名代の客人が王宮におられて、席にお呼びせぬのは、礼を欠きます。北の当主にも、お座りいただいては」
初日。日取りを、いま知った。
リヴィアは、侍従長を見なかった。机の上の数の紙を、見ている。
「席次は、侍従長に任せてある」
「では、そのように」
侍従長は、こちらへ頭を下げた。その顔のまま席に座るな、と山の上で言われたばかりだ。座ることに、なった。
◇
次の朝、レイフに厚い銅貨を一枚払ってから、坂を下りた。南では、朝のぶんは一枚になる。橋の手前で、替えてきた。
辻の台の前には、朝から列ができていた。葦の紙の、乾いた匂いがする。
「ご当主。今日は、客でございますか。お手伝いでございますか」
コルネリアは、節の立った指のペンを止めずに言った。
「手伝いです。日に三枚でしたね」
「祭りの前の日は、書き収めでございます。明日から三日は、誰も書きませぬので。写しの数を合わせる手は、幾つあっても足りませぬ」
台の脇に座って、写しを数えた。昼までに、六十枚を超えた。朝に一枚払って、夕方に三枚もらう。二枚が、袋に残る。宮廷に雇われなくても、朝のぶんは立つ。
「エルドじゃないか!」
腕を叩かれた。ジュリアだった。後ろに、娘を連れている。この台の後ろで、紙を揃えていた子だ。背が伸びた。
「この子、今年から名が書けるんだよ。十四になったからね。きのう、初めて証人の所に名を書いたんだ」
娘は、赤くなって母親の袖を引いた。
「マグダは、どうしたんだい。花婿殿は、いるね」
「マグダは、北の山で宿をしています。レイフは、もう花婿殿ではありません」
「知ってるよ。呼びやすいんだ」
レイフは、半歩うしろで黙っていた。
「あんた、明日の席に座るんだって? 辻じゅうが知ってるよ。蔵持ちの婿さんと、北の当主が、同じ席だ」
耳の早い町だ。きのうの夕方に決まったことが、もう辻にある。
「見ものだね。あさっては、姫様の日だし」
「姫様の日、というのは」
「二日目だよ。姫様は、祭りの二日目の生まれだ。帳簿に無いから、町の者が口で覚えてるのさ」
二日目。
コルネリアが、列の客に証文を渡してから、こちらへ言った。
「祭りの三日は、誰も書きませぬ。お生まれの日も、その日には書かれませんでした。王の家の帳簿には、明けてから、祭りの二日目、とだけ書かれたそうでございます。日付の無いお生まれで」
後ろで、レイフの足が、少し動いた。日付の無い側の男だ。
書かない日に、生まれた人。
言ったことがみな風になる三日の、真ん中の日だ。その日に、あの人は一つ歳を取る。
写しを数える手が、止まっていた。コルネリアが、何も言わずに、次の束をこちらへ押した。
明日は、顔合わせだ。
その次の日が、二日目になる。




