【第三部 鎖が解けるまで】第09話 王都の茶
エルドは、高台の東の通りを、樫の葉の門へ歩いていた。
北の町を発って、二十日になる。朝の石が、もう冷えていた。秋の入りだ。壁の高い屋敷の並びが、先へ行くほど低くなっていく。
テオは、坂の下の詰所に置いてきた。白い制服の手に紋が並んでいるのを見て、肩を硬くしていたからだ。ここで誓わせる者はおらん、と隊長が言ってくれた。それで、椀のものには手を付けた。
この家には、冬に文で知らせたことがある。今日は、それを口で言いに来た。
門は、両方とも開いていた。家令の老人が、内側に立っている。
「奥様が、お待ちです。北の従士も、中へ」
通されたのは、前と同じ小さな部屋だった。窓のすぐ外の樫が、床に葉の影を落としている。白い髪を結い上げた小柄な人が、椅子に座っていた。母の母だ。脇の小さな机に、木の箱が一つ載っている。蓋に、樫の葉の印があった。
胸から上を傾けて、顔を上げた。
「冬に、文でお知らせしました。今日は、口で申し上げに来ました。北の領を、継ぎました」
膝の上で重ねた手が、少し動いた。
「文は、読みました」
細い、乾いた声だ。
「同じことでも、文で読むのと、口で聞くのとは、別のものですね」
「はい。この夏に、それを覚えました」
祖母は、少しのあいだ、こちらの顔を見ていた。何を覚えたのかは、訊かずにいてくれた。
「お座りなさい。茶を淹れます。今年のものが、きのう届きました」
祖母は、人を呼ばずに、自分で箱の蓋を開けた。
甘い匂いが、部屋に広がった。黒い茶の葉に、干した果実の皮と、白い小さな花が混じっている。
この茶のことは、帳面で読んだ。春と秋に、この家から北の城へ届いていた茶だ。母は、冬じゅうそれを淹れた。北へ届く箱にだけ、よその手が別の葉を混ぜさせていたことも、同じ帳面にある。
この人は、それを知らない。知っているのは、十三年のあいだ、娘に茶を送りつづけたことだけだ。
言わない、と決めた。
湯が注がれて、椀が三つ並んだ。祖母は、一つを自分の前に、一つをこちらに置いた。三つ目を持って、戸口のほうを見る。
「従士にも」
レイフは、戸口の脇から二歩だけ入って、椀を受けた。
「頂戴します」
大きな両手が、椀を包んだ。口へ運ぶ途中で、手が一度だけ止まる。匂いの所でだ。それから、黙って飲んだ。
この男は、この匂いを知っている。
北の城の冬には、自分も飲んでいたそうだ。舌は、何も覚えていない。甘い香りがして、舌の奥には何も残らなかった。
「あの子は、この茶を一箱持って、北へ行きました」
祖母は、自分の椀に手を添えたまま言った。
「北へやるのを、わたしは嫌がりました。冬が半年あって、王都から遠い土地です。それでも、あの子は行きました。文で、呼ばれたのです」
「文、ですか」
「北の若様からの文です。冬ごとに、来ました。三度の冬です」
父のことだ。この人は、会ったころの呼び方で呼ぶ。
「長い文でしたか」
訊いてから、なぜそこを訊いたのかに気づいた。祖母は、首を横に振った。
「短い文でした。天気のこと。川のこと。雪のこと。最後に一行、来てほしい、と。どれも、一枚に収まっていました」
一枚に収まる文が、三度の冬。
「あの子は、行きます、と言いました。二度は言いませんでした」
椀を持つ手の置き場に、困った。父は、一枚で足りた。自分は、一度に四枚書いている。来てほしい、の一行は、その四枚のどこにも無い。あったのは、自分の側に止めるものが無い、という話ばかりだ。
「……あなたは、何枚書いたのです」
顔を上げた。祖母は、こちらを見ている。
「四枚です」
「どなたに」
「南の国の、王の名代にです」
祖母は、驚かなかった。重ねた手の上で、指が一本動いただけだ。
「返事は、来ましたか」
「一行、来ました。長い文は二度と書くな、と」
祖母の口元が、緩んだ。前に見たときより、はっきりと緩んだ。
「返事を書く方なのですね」
「……はい」
「一行でも、返事は返事です。書くと決めて、書かれたのですから」
それから、窓の外の樫へ目をやった。
「わたしは、書きそびれました」
樫の葉の影が、床で揺れた。戸口で、レイフが空の椀を両手に持ったまま、動かずにいる。
「それで、南へ行くのですか」
「公の用があります。紙に書けない用も、一つあります」
「北の若様は、三度の冬、待ちました」
「私は、待てずに歩いています」
「北の家の方にも、いろいろあるのですね」
真顔で言われた。笑ってよいのかどうか決めかねているうちに、祖母のほうが先に、椀へ目を落とした。肩が、ほんの少し揺れていた。
揺れが収まってから、祖母は訊いた。
「北では、どこに住んでいるのです。城は焼けたと聞きました」
「城の下の町です。粉屋の裏に、空いた家がありました。屋根は、レイフが直しました。城は、建て直しません」
「二人で、ですか」
「二人です。朝は、粉の匂いで目が覚めます」
祖母は、うなずいた。それから、戸口のほうを見た。レイフの手の中の椀は、空になっている。
「もう一杯、要りますか」
レイフは、すぐには答えなかった。勧められたものを二度受ける所を、自分はあまり見たことがない。
「……頂戴します」
二杯目も、両手で受けた。今度は、匂いの所で止まらずに、ゆっくり飲んだ。祖母は、それを最後まで見ていた。娘の文に二度出てきた従士を、見ている目だった。
長居は、しなかった。戸口を出るときに、振り向いて言った。
「帰りも、この王都を通ります。初雪の前です」
「茶を、取っておきます。……エルド」
今日は、こちらを見て言ってくれた。
◇
昼を過ぎて、王宮の書き物の部屋に通された。
机の上に、文の山が五つある。ヒルデは、読みかけの一通を右手で置いた。
「お座りなさい、エルド殿。ご用を伺います」
前置きの無い人だ。こちらも、前置きは抜いた。
「明日、南へ発ちます。南の祭りが明けると、次に橋を渡す者の数を決める卓があります。そこへ、十一人の夏の数を届けます。畑に入った一人を、連れています」
「数なら、副使の便で届きます」
揺れない声が言った。
「当主がひと月あまり歩く用とは、わたしには読めません」
「はい。数だけなら、歩きません」
ヒルデの目元が、ほんの少し動いた。その先を、訊く人ではない。訊かなくても、察しは付いたらしい。
「一つだけ、伺います。それは、北を置いて行く用ですか」
「いいえ。置いてよそへ行く気は、ありません。初雪の前に戻ります」
「止めません」
ひと息だった。去年の夏、同じ部屋で、同じ言葉を聞いている。あのときは、その前に一度、声が切れた。
「わたしからも、一つ申し上げます」
ヒルデは、文の山の一つに手を置いた。
「関と商いの取り決めを、来年の夏に結び直します。春から、副使と詰めてきました。橋を渡る者のことも、そこへ載せます。卓は、この王都に置きます」
「南の王都では、ないのですね」
「あなたがご自分の足で行かれるぶんには、誰も止められません。王宮があなたを国の外の卓へお出しすることは、できません。ですから、卓のほうをこちらへ置きます。南からは、正使が来ます」
正使。前にその務めでこの王都へ来たのが誰だったかを、考えてしまう。
「正使は、どなたが」
「南が決めることです」
戸が、鳴った。返事を待たずに、ユリアンが入ってきた。
「叔母上。エルドが来ていると聞きました」
こちらを見て、顔が明るくなる。
「エルド。南へ行くそうですね。私も参ります。あなたのあとについて行くぶんには、足は出ます」
「ユリアン」
ヒルデは、甥のほうを見ずに言った。
「あなたには、東の関の帳簿を検めてきてもらいます。あさって発ちなさい。十日かかります」
「……叔母上。それは、いま決められたのですか」
「春から、決めてあります」
ユリアンは、口を開けて、閉じた。
「……東の関は、橋とは反対の側です」
「そうです」
先に決めている人には、勝てない。ユリアンは、こちらへ向き直って、肩を落とした。
「エルド。帰りに、川べりのことを聞かせてください」
「はい、ユリアン殿。見たとおりに話します」
辞するときに、ヒルデが言った。
「帰りに、卓の数をわたしにも見せてください。残りの数のことで、話があります」
「承りました」
戸が閉まってから、紙の音がした。
◇
六日あとの夕方、関の手前の宿場から、川が見えた。
川風が、水と泥の匂いを運んでくる。橋の向こうの岸に、天幕が並んでいた。前に渡ったときは、赤茶の旗が十二本あった。今年は、旗が一本も無い。天幕は、増えていた。
テオは、荷を下ろさずに、それを見ていた。出てきた所だ。夏の前に、槍を橋に置いて渡ってきた。
「増えてます」
小さな声だった。
「おれが出たときより、ずっと」
天幕のあいだに、夕方の煙が何本も上がっている。三千と少し、と聞いていた数だ。いまは、それより多い。そのうち、北が迎えられたのは、まだ十一人だ。
明日、あの橋を渡る。




