【第三部 鎖が解けるまで】第08話 二度と
エルドは、役所の机で、ディルクの差し出した封を受け取った。
市の日の昼だ。開けた窓から、塩と干し魚の匂いが入ってくる。封は葦の紙で、青い蝋に、葦の穂が五本押してあった。
「若様。南の文です。今朝、詰所に着いていました」
ディルクは、それだけ言って戸口へ下がった。市のたびに、訊く前に答えてくれる人だ。今日は、その答えが文になって来た。
南へ四枚を出してから、四十日あまりになる。
封を切ると、目は下から入った。これは、もう直らない。
いちばん下に、名がある。メリディアの王の名代 リヴィア。
その上に、もう一行あった。名と同じ手で書いてある。
——長い文は、二度と書くな。
二度、読んだ。三度目は、紙を見なくても言えた。
それから、上へ戻った。書記の揃った字が、四行ある。
——アルデンの北の家、エルド=ファーレン殿。
——十一人のことは、読んだ。町の恐れが解けたら、解けたと書いて寄越せ。
——次に橋を渡す者の数は、祭りが明けた卓で決める。十一人の夏のことを、それまでに書いて寄越せ。
——先の文は、用件の写しを綴りに綴じた。文は、四枚とも証文蔵に納めた。
四行目で、目が先へ行かなくなった。
用件の写しを、綴りに綴じた。写しを取ったのは、書記だろう。書記が、あの文を読んだのだ。
文は、四枚とも蔵に納めた、とある。用件を書いた一枚目まで、蔵へ入れたということだ。
一枚目に何を書いたかは、覚えている。用件のあとに、六行の初めの行を写した。蔵で読んだとおりに、一字も違えずにだ。
あの蔵は、戸の前に名簿があった。王の家の人と、証文に名のある者しか入れない。そういう所で読ませてもらった行を、書記のいる机へ書いて送った。障りのあることは書かないつもりです、と書いた、その同じ紙にだ。
リヴィアは、書記の手から、四枚とも取り上げるほかなかったのだろう。
穴を探して、見つけたつもりでいた。惚れた、という語さえ書かなければいい、と。残って困るのはあんたじゃない、とマグダは訳まで言ってくれていた。その訳のほうを、自分は読まずに通った。
「ファーレン殿」
コンラートが、机の向こうからこちらを見ていた。手控えは、閉じたままだ。
「悪い報せでございますか」
「いいえ。私の落ち度です。書いてはならないものを、書いて送りました」
「……取り返しのつくことで、ございますか」
「向こうで、蔵に納めてくれたそうです。片づけてくれたのは、名代です」
コンラートは、それ以上は訊かなかった。聞いたことは書く人が、今日は聞かずにいてくれる。
紙を持って、戸口の脇へ行った。
「レイフ。下の二行を、見てください」
レイフは、紙を受け取って読んだ。一字ずつ、ゆっくりとだ。
「長い文は、とあります」
「はい。二度と書くな、と」
「短い文のことは、書いてありません」
言われるまで、そこは見ていなかった。
「……穴を探すな、とマグダに言われました」
「探していません。書いてあるとおりに読みました」
それは、そうだ。この男は、言葉どおりにしか読まない。
短い文なら、という先は、考えないことにした。いまは、まだだ。
長い文は、二度と書かない。それは、決めた。書けば残る国へ、言いたいことを紙で送ったのが、そもそもの間違いだ。言いたいことは、残らない形で言う。口で言うには、そこへ行くほかない。
机へ戻って、三行目をもう一度読んだ。
十一人の夏のことを、それまでに書いて寄越せ。
寄越せ、とある。祭りが明けた卓で、次に橋を渡す者の数が決まる。その卓に紙が一枚届くのと、畑を起こした当人が立つのとでは、違うはずだ。川べりでは、北へ行けば誓わされると言い合っている。見た者の口は、紙では運べない。
「代官殿。祭りが明けた卓へ、十一人の夏の数を届けます。私が、自分で運びます。テオを連れていきます」
コンラートは、今度は手控えを開いた。
「お発ちは、いつでございますか」
「五日あとです。その前に、上の湯へ上がってきます。戻りは、初雪の前になります」
「八十日あまりのお留守でございますな」
「はい。回りますか」
「帳簿の上では、回ります」
細かい字が、三行並んだ。
「刈り入れの割りは、畑の者と私で決められます。山の見張りには、東の槍が十人おります。帳簿に載らぬもののほうは——」
灰色の目が、戸口へ行った。
「町の者と南の者のあいだは、俺が見ます」
ディルクが、太い声で言った。
「お留守のあいだに何かあれば、あったとおりにお話しします」
「お願いします」
コンラートは、ペンを置いた。
「一つ、申し上げます。お留守のあいだの手間賃は、お出しできません。お手伝いの無い日に、役所は払えませんので」
「はい。朝のぶんは、向こうで稼ぎます。去年も、そうしました」
「承りました」
「それから、代官殿の任は、初冬で明けます。その先のことを、戻ってから話させてください」
コンラートは、すぐには手控えに書かなかった。
「……それは、どの帳簿にも、まだ行がございません」
「戻ったら、行を作ります」
遅い礼が、返ってきた。
◇
二日あとの昼すぎに、上の湯の宿へ着いた。
沢沿いの道を上がりきると、帳場の腰掛けから、マグダがこちらを見ていた。夏の終わりの山は、湯気のほかに、切ったばかりの薪の匂いがする。
「ちび。あんた、書いたね」
荷も下ろさないうちに、言われた。
「……はい」
「何枚だい」
「四枚です」
マグダは、しばらく沢のほうを見ていた。
「書きません、と言ったろ。あたしの目を見て」
「惚れた、とは一字も書いていません」
「ほう」
「書いていない、とは書きました」
「……それを、書いたって言うんだよ」
言い返せなかった。戸の内から、足音が出てくる。
セシルだった。濡れた金の髪を布で拭きながら、こちらを見て、真顔で頭を下げた。白い制服を着ていない。麻の上衣だけのこの人は、いつもより少し小さく見えた。
「セシル。丘から、用があって来たのですか」
「いいえ、エルドどの。用は、ありません。休みに来ました」
セシルは、少し胸を張った。
「目の下が黒かったんでね。三日、何もさせてない」
マグダが言った。
「三日目で、落ち着かなくなってきました」
「それを、休みって言うんだよ」
◇
その晩、客が寝床へ引き上げてから、炉端に四人が残った。
返事の紙を、マグダに渡した。マグダは、上の四行をひと息に読んで、下の一行で目を止めた。
「これは、あの女の手かい」
「はい。名と同じ手です。上の四行は、書記の字です」
マグダは、その一行を長いこと見ていた。何か見て取ったらしい。見て取って、言わない。この人がそうするときの間を、自分は少し覚えた。
「怒ってる、とは書いてないね」
「書いてありません。蔵に納めた、とあります」
「拾えるようになったじゃないか。こぼれ物を」
褒められた気は、しなかった。
「悔やんでいます。あの人の国で、あの人が困るものを送りました」
「悔やむのは、道々やんな。行くんだろ」
顔に、出ていたようだ。
「行きます。用は、あります。人に見せられる用です」
「止めないよ。文より、ましだ」
セシルが、膝の上で帳面を開いた。休みに来ても、帳面は持ってきている。
「発つのは、いつですか」
「三日あとです」
「南の祭りの初日まで、あと四十日です」
戸口の脇から、レイフが言った。数えている男が、ここにいた。
「三日あとに発てば、歩く日数を引いて、余りは四日です。王都と川べりで、一日ずつ使えます」
セシルは、炭で数を書きつけた。止める気は、この人にも無いらしい。
「卓は、祭りが明けてからだろ」
マグダが言った。
「初日に間に合わせる訳は、何だい」
「……顔合わせが、祭りにあります」
「見に行くのかい」
「分かりません。向こうで決めます」
マグダは、鼻を鳴らした。
「その顔のまま、人の顔合わせの席に座るんじゃないよ。全部出てる」
言い返せることが、無かった。
炉の薪が、一つはぜた。言うなら、いまだ。
「マグダ。秋の入りには、私は道の上にいます」
「それが、どうしたんだい」
「決めない年は、私が決めます。去年、橋の手前で、来年は椀を四つ並べな、と言われました。今年は、ここに四人います」
マグダは、何も言わない。
「決めました。今夜です」
「二十日も早いよ」
「早いぶんには、祝いは減りません」
マグダは、鼻から短く息を抜いた。それから、奥の棚を顎で示した。
椀を並べたのは、セシルだった。
四つ。縁の欠けた所を同じ向きにそろえて、匙を右に置く。休みに来た人の手つきには、見えない。汁は、村から上がってきた鍋のものだ。卵は、マグダの椀にだけ落とした。
レイフは、戸口の脇を離れて、四つ目の椀の前に座った。座ると、炉端が狭くなる。
「三十二だよ。祝うほどのもんじゃない」
「おめでとうございます」
セシルが、真顔で言った。
「白いの。あんたは、一杯までだ」
「一口で、結構です」
その一口で、セシルの頬は赤くなった。赤い顔のまま、こちらを向く。
「エルドどの。口上には、聞く者の名が要りました」
「はい」
「文にも、要るのだと思います。誰が読むのかを、書く前に決めておくのです。四枚の文は、それを決めずに書かれました」
「……そのとおりです」
「一口で、それかい」
マグダが、声を立てて笑った。
「一杯飲ませたら、ちびの文を端から直しはじめるよ」
「直しません。あれは、蔵に納まったそうですので」
セシルは、大真面目に答えた。レイフの肩が、揺れている。自分も、笑っていた。四枚ぶんの悔いは、まだ腹の底にある。それでも、笑えた。
火の脇で、レイフが五冊目を開いた。炭が動く。覗くと、四角い字が二行あった。
——マグダさんの日。今年は、主が決めた。椀が四つ。
——騎士様は、一口で赤くなった。
◇
三日あとの朝、町の南の口に立った。
テオが、荷を背負って待っていた。川べりを出てきたときと同じ道を、今度は逆に歩く。コンラートとディルクが、道の脇にいる。街道の両側で、麦の穂が色づきはじめていた。
「エルド様」
レイフが、半歩うしろから言った。
「用は、何ですか」
この男は、行き先と用を、発つ前に訊く。
「十一人の夏の数を、祭りが明けた卓へ届けます。それから、言いたいことを、口で言いに行きます」
「言いたいこと、というのは」
「向こうで言います。紙には、もう書きません」
「はい」
レイフは、荷を揺すり上げた。
「歩いて、三十三日です」




