【第三部 鎖が解けるまで】第07話 一行
リヴィアは、広間の机で、北から戻ったドナートの報せを聞いていた。
夏の盛りの昼だ。開け放した入口から、石の焼ける匂いが入ってくる。ドナートは、旅の埃を払いきらないまま、板を三枚抱えて立っていた。額を拭く布が、もう濡れている。机の両端で、書記が二人、筆を動かしていた。
「十一人を、一人も欠けずに北の町へ届けて参りました。証文は十一枚とも、北の当主が読んでから名を書かれました」
「十一枚とも、読んだか」
「一枚ずつでございます。同じ条だと申し上げても、読まれました」
そういう男だ。それは、口に出さずにおいた。ここで言えば、書かれる。
「帰りに、川べりへ寄りました。十一人のうちの一人が、仲間へ便りを書きましたので。封のまま渡しますと、字の読める者が声に出して読んでおりました」
「何と書いてあった」
「読まずに運びましたので、耳に入った所だけでございます。北のパンは黒くて固い、という所で川べりが笑いました」
川べりの四千百が笑った、という報せを、この夏、初めて聞いた。
机の向こうで、侍従長が咳払いをした。
「副使。顔合わせのことは、北へ伝えたのであろうな」
「は。お伝えいたしました」
ドナートは、板を一枚、表へ返した。
「北の当主は、めでたいことです、と。申されたとおりに、書いてございます」
「結構なことでございますな」
侍従長は、満足そうにうなずいた。若い書記の筆が、いまの一行を書いている。
めでたい、と言ったか。
隣の国の名代に縁談があると聞けば、当主はそう言う。条として、当たり前の挨拶だ。
「それから、北の当主より文を一通お預かりしております」
ドナートは、懐から封を出した。厚い。
「四枚ございます。封は、切っておりません」
春の返事は、四行だった。
「読め」
老いた書記が、封を切った。
用件は、一枚目の半ばで済んだ。畑に六人、道に五人。町の恐れは、まだ解けていない。解けたら解けたと書く、とある。書けぬことを、書けぬと書いてくる。ここまでは、いつもの北の文だった。
——用件は、以上です。
——ここから先は、用件ではありません。
侍従長の白い眉が、上がった。
——殿下に届く文は、殿下おひとりが読まれるのではない、と教わりました。書記の方が読まれて障りのあることは、書かないつもりです。長くなりますので、読まれる書記の方には、先にお詫びします。
老いた書記は、顔を上げずに、自分への詫びを読み上げた。若い書記の筆が、一度だけ遅れた。
——さて。
——去年の秋に、証文蔵で六行を読ませていただきました。
リヴィアは、机の上の手を握った。
——春から、あの六行のことを考えています。考えたことが、六つになりました。行の数と同じなのは、たまたまです。
——一つ。六行のうちに、私を縛る行はありません。初めの行は、こうです。
——アルデンの王と、メリディアの王。二つの王の家は
「そこまでだ」
老いた書記の声が、切れた。止めよと言われた所で、息も継がずに止まる。それが、この書記の作法だ。
「綴じるな。用件の所だけ、写しを取って綴じよ。文は四枚とも、わたしが証文蔵に納める」
「名代殿。六行、と申しますのは」
侍従長が訊いた。
「王の家の古い借りだ。蔵の内のものは、蔵の内で読む。書記の筆に載せるものではない」
筆が、二本とも止まった。いまの言葉を書いてよいのかどうか、決めかねているらしい。
「いまのは、書け」
筆が、動いた。
老いた書記は、四枚を重ね直して、表を伏せて差し出した。二枚目から先には、目を落としていない。読むなと言われたものは、読まぬ。それも、この書記の作法だった。
「返事を書け」
リヴィアは、伏せた四枚の上に手を置いたまま言った。
——アルデンの北の家、エルド=ファーレン殿。
——十一人のことは、読んだ。町の恐れが解けたら、解けたと書いて寄越せ。
——次に橋を渡す者の数は、祭りが明けた卓で決める。十一人の夏のことを、それまでに書いて寄越せ。
——先の文は、用件の写しを綴りに綴じた。文は、四枚とも証文蔵に納めた。
「名は、明日の朝に入れる。朝の使いに持たせよ」
若い書記が、うなずいて書いた。
用件ではありません、と書いて、三枚だ。
あの者は、蔵の内で読んだものを、紙に書いて寄越した。書記のいる机へ。障りのあることは書かないつもりです、と書いた、そのすぐあとでだ。
腹が立った。腹を立てたまま、日の入りまで、川べりへ下ろす麦の数を読んだ。
◇
日が落ちてから、証文蔵の石段を下りた。
ノエミが、覆いのついた灯りを持って、後ろからついてくる。戸の内は、昼と同じに涼しい。乾いた草の匂いに、灯りの油の匂いが混じった。
石の机に、四枚を広げた。ノエミは、灯りを机の端に置いて、戸口まで下がった。
読むのに、灯りの芯を一度切らせるだけの時がかかった。
読み終えて、一枚目へ戻った。
条で書いてあるものには、条で返す。そうしなければ、自分が何に腹を立てているのかが、分からなくなる。
葦の紙を出して、写しはじめた。蔵に納めた文には、書きこめない。写しになら、書ける。名を入れない写しは、証文にならない。この国では、それを紙屑と呼ぶ。紙屑なら、名代の手元にあっても、どの綴りにも載らぬ。
一つ目。六行のうちに、私を縛る行はありません。
余白に、書いた。
——よい。
蔵で、わたしがそう言った。
祖のことを書いた段は、写すうちに、声を立てずに笑っていた。分かりませんが、助かっています、とある。腹は、まだ立っている。
二つ目。求めぬ、と誓ったのは、メリディアの王の家です。よい。
三つ目。招きの証文は、いまも解かれていません。
筆が、少し遅くなった。期限の条を書かずにおいたのは、わたしだ。解く条も、入れていない。そのうえ、この一枚が縛っているのは招いた方だけです、と念まで押してある。書いておくのが筋だと思いました、ときた。
——よい。
四つ目も、よい。橋のことは、去年の門で、王の子の手を見て察している。
行く用がまだ見つかっていない、という行があった。用が見つかれば、来る気でいる。
五つ目で、筆を止めた。
求める。頼む。招く。訊く。四つの語が、帳簿の欄のように並べてある。その下に、こうあった。
——求める、だけは、例を挙げられません。殿下がそれを言われるのを、私は一度も聞いたことがないからです。
当たり前だ。
——違う。求めることと頼むことの別は、わたしの体が確かめたことだ。そなたが説くことではない。
六つ目。ゆえに、仮に私が何かを求めたとしても、六行のどの行にも触れません。
仮に、と付けてある。口では、めでたいことです、と言った男だ。同じ便で、これを寄越した。
——違う。そなたは、わたしの行を読んでおらぬ。求められた者は、どうすればよい。
書いてから、その一行を見た。問いの形になっている。答えを、持っておらぬからだ。
次の段を写していて、筆が紙から浮いた。惚れただの何だのを、紙に書いて南へ送るな、と止められた。ですから、書いていません。その語は、どこにもありません。
「……書いておるではないか」
声に、出ていた。戸口で、ノエミが顔を上げた。何でもない、と手で示した。
帳面の頁の段も、写した。頁の角が丸くなった、とある。開いたのは春から五十五度で、数えたのは従士だ、とも。あの者は、こういう数を偽らぬ。
余白には、何も書かずにおいた。書くことを、探さなかった。
終わりの一行は、短い。写すのに、息一つも要らぬ。
その一行に、いちばん長くかかった。
ノエミが、黙って灯りの油を足した。
◇
夜明け前に、返事は部屋の机に届いていた。
書記の揃った字が、四行。その下に、一行ぶんの空きがあって、名を入れる所が空けてある。名の所だけは、当人が書く。窓は、まだ青い。坂の下で、いちばん早い荷車が鳴っていた。
筆を取って、名の所へ下ろす前に、空きの一行を見た。
秋に、来い。
書こうとしたのは、その一行だ。
筆が、下りなかった。
墨は、含ませてある。指にも、力は入っている。穂先は紙の上にあって、初めの一画のぶんだけ、手が先へ行かない。腕を引くと、引ける。もう一度下ろそうとすると、同じ高さで止まる。
声が切れるのなら、知っている。手も同じだとは、知らなかった。
蔵では、エルドに、来い、と言えた。父上が呼んでおられたからだ。踏み場へは、ノエミをやって呼べた。送るためだった。
今度は、どちらでもない。
手のほうが、先にそれを知っていた。わたしは、あの者に、来てほしいのだ。
務めの形になら、できる。祭りが明けた卓へ、数を持って来い。そう書けば、名代の文になる。
筆を下ろした。同じ高さで、止まった。
夏のことは書いて寄越せ、と、きのう書かせたばかりだ。卓に、あの者は要らぬ。要らぬ者を務めの名で呼んでも、手は、わたしが何のために書くのかを知っている。
筆を、いったん置いた。
止められずとも、書かぬ。名代の名を、わたしの用に使う気は無い。
もう一度、筆を取った。書けることを、書く。
——長い文は、二度と書くな。
筆は、終わりの字まで止まらずに行った。その下に、名を書いた。
書いてから、穴に気づいた。
長い文は、と書いた。短い文のことは、書いておらぬ。塞ぐなら、書記を起こして、四行から書き直させることになる。
そこまでのことではない。そういうことに、した。
◇
朝の膳は、奥の庭に面した小部屋で取る。
向かいで、パウルスがパンを割っていた。
「父上は、今朝は八歩だった。ぼくが数えた」
「そうか。あと三十二歩だな」
「引くのは、ぼくの役だ」
「では、任せる」
パウルスは、割ったパンを口に入れて、こちらの皿を見た。
「姉上。パンを残した」
「……あとで食べる」
「ゆうべは、灯りが遅かった。蔵のほうだ」
見たままを言う子だ。見えた所までしか、言わない。
「姉上は、誰かに怒っているの」
「怒ってはおらぬ」
「怒っている日は、姉上は言葉が短い」
返す言葉を探して、短くならないものが見つからなかった。パウルスは、それ以上は訊かずに、二つ目のパンへ手を伸ばした。
朝の使いは、もう坂を下りたころだ。北までは、二十日かかる。
呼べぬ。
来るかどうかは、あの者が決める。




