七話 読めない紙
二〇〇〇年の八月に、私は日本に帰った。
紙に印字された一年は、その月で切れた。切れる前に出た。切れてから出るのと、切れる前に出るのとでは、あとに残るものが違う。違うということを、私はこの一年で覚えた。
空港から電車を乗り継いで、大学のある街まで戻った。実家はない。家は事故のあとに売っている。戻る先は、前と同じような安い部屋だった。同じ部屋ではない。留守にした一年ぶんの家賃を、私が払えるはずもなかった。
鞄は二つだった。行きと同じ数だ。中身が少し増えていたのは、上着を入れたからだ。八十九ドル九十九セント。日本の八月に、それは箱のように重かった。
押し入れに上げて、そのままにした。日本の冬にあれを着れば、人が見る。
十月に、後期が始まった。窓際の、後ろから二番目に座った。空いていた。一年空けたあいだに誰かの席になっている、ということもなかった。傷のある側が窓を向く。慣れるのに三年かかった座り方は、一年空けても抜けていなかった。
教室の空気だけが、出る前と違っていた。四年の秋には、行き先が決まっている。決まるのはもっと前で、秋にあるのは確かめる手続きのほうだ。戻ったとき、同じ学年の人間は、みなどこへ行くかを持っていた。
私はその列に並ばなかった。日本にいなかったからだ。いたとして、どうなったかの見当はついている。日本にいたころ、私は練習場で球を拾っていた。打席には出ない。客のいる側の仕事は回ってこなかった。誰も理由を言わない。就職の面接というのは、客のいる側に出せるかどうかを見る場だ。
十一月から、私はその練習場に戻った。人が足りないのだと言われた。五年いた場所なので、話は早かった。仕事も同じだった。網の内側を歩いて球を拾う。人の少ない時間帯。打席には出ない。
戻ってから発つまで、私はそこで働いた。あの何分かは、一度も来なかった。
それでよかった。私が要ったのは、あの何分かではなく、時間で払われる金のほうだ。
冬が来た。
寒くなかった。正しく言えば、寒かったのだろうと思う。買った手袋と帽子は鞄の底に入れたままで、一度も出さなかった。息は朝だけ白くて、昼には白くなくなった。耳は痛くならなかった。鼻毛も凍らなかった。
私は物差しのほうを持って帰ってきていた。あの街の一月を知っている人間には、日本の一月は、冬の形をしているだけのものだった。
押し入れの上着は、そのままにした。
出願の締切は冬にあった。向こうの学年は秋に始まるので、その前の冬に出す。私は卒業する前に、卒業する見込みだと書かれた紙を添えて出すことになった。
何の課程に出すのかは、帰る前には決まっていなかった。決めたのは、部屋で数を並べ直したあとだ。
会計にした。
理由は三つあって、どれも金の話だ。会計の修士は、一年で終わる課程が多い。二年のものより、穴が一年ぶん浅い。次に、向こうでは会計士になるのに要る単位が学部の四年ぶんより多く、足りない分を埋めるための課程が初めから用意されている。学部で会計をやっていない者を、そこは初めから見込んでいる。私が埋める科目は、二年ぶんではなく数科目で済む。三つ目に、私の専攻は経済学部で、その数科目がさらに減る。その数科目のぶん、課程は長くなって二年になる。二年の課程なら、そこからさらに長くなる。学部を四年やり直すのとは、桁が違う。
理由ではないものを、一つだけ書いておく。数字は顔を見ない。
試験を二つ受けた。
一つは英語で、二年前に受けたのと同じものだ。読んで、聞いて、書く。もう一つは、経営の課程に入る者が受けるやつで、計算と、読解と、短い作文だった。
どちらにも、話す科目はない。
私はまた、一度も口を開かずに点を取った。その点が、討論のある部屋に入る許可になる。二年前もそうだった。二年前は、それが何を意味するかを知らなかった。今度は知っている。知っていて、同じやり方で通った。ほかに通り道がない。
出すものを並べた。成績の証明。二つの試験の点。願書。それから、推薦だった。
推薦は、人に書いてもらうものだ。三通要ると書いてあった。三人、思いつかなければならない。
私はそれまで、人に何かを頼んだことがほとんどなかった。頼めば断られることがある。断られれば、なぜ断られたのかを考えることになる。考えれば、たいてい同じところに行き着く。だから頼まない。頼まずに済む方法を選んで、私はここまで来ている。
頼まずに済ませる方法は、無かった。
日本の先生に頼んだ。三年、その人の授業に出て、試験で書いていた。名前と、成績と、出席のほかに書けることが私にあるとは、思えなかった。同じことを、もう一人の先生にも頼んだ。
三人目は、向こうで教わった人にした。討論の授業だ。その人が私について書けることも、多くはないはずだった。
三人とも、断られなかった。
書いてもらったものは、封をされて戻ってきた。開けてはいけないことになっている。私はそれを、開けないまま束に入れた。
私の代わりに、私を書いた紙があった。中身を、私は知らない。
この二年、私の暮らしは紙で決まってきた。いてよい長さも、行ける場所も、終わる日も、全部紙に書いてあって、私はそれを何度も読んだ。読めば分かった。分からないのは、いつも自分がどちらに当たるかのほうで、書いてあること自体は読めた。
読めない紙を出すのは、初めてだった。
三月に卒業した。式には出た。人が多く、私は後ろのほうにいた。入ってから出るまで、四年ちょうどだ。そのうちの一年は、日本にいなかった。
同じ月に、向こうから返事が来た。取る、と書いてあった。
紙はもう一枚あった。教えたり手伝ったりする代わりに授業料が免除され、暮らす分が出る。窓口で聞いた、あの道だ。学士を取ったので、私はそこに乗れた。乗れなければ、返事のほうを受けても意味がなかった。
一年ぶんずつだとも書いてあった。来年また出してもらえるかどうかは、来年決まる。
四月からは、働くだけになった。
学びのための資格に移るには、払えることを示さなければならない。示すのは一年ぶんで、二年目の分まで持っている必要はない。免除される分と、出る分と、それでも足りない分がある。渡って、部屋を借りて、始めの何か月かを持たせるところは、自分で持っていることになっている。
その足りない分を、私は日本で作った。作れたのは、ここでは働く時間に上限がないからだ。
余りは無い。
二年目のことは、二年目に考える。楽観ではない。一年ぶんしか作れない人間に、それ以外の順番はない。
夏に、書類が届いた。資格は、エフワンという。学位の課程で学ぶ者に出る在留資格――向こうにいてよいと認められる資格のことだ――で、私が一度目に持っていたものとは別の欄になる。日本を出る前に読んだあの表で、私は欄から欄へ移る道が書いてあったかどうかを覚えていなかった。道はあった。私が通れなかっただけだ。通るのに要るものを、私はこの一年で作った。
査証を取るときに、あの二年の行がもう一度出てきた。前の資格の記録を見て、当たらないことを確かめる。二度目も、短かった。
私が日本で過ごした一年は、あの二年とは関係がない。半年は学位のためで、あとの半年は金のためだった。
八月に、航空券を買った。
二年前も片道だった。あのときは、帰りの分を買えなかったのではなく、買わなかった。一年後の日付を、自分で決めることがどうしてもできなかったからだ。
今度も、帰りの分は買わなかった。
決めたからだ。
この話の背景について、少しだけ補足します。
推薦状の中身を本人が見ないことになっているのは、読める形で出すと、推薦としての重みが落ちるとされているからです。封をしたまま、あるいは書いた人から直接、学校へ渡されます。
経営系の大学院に出願するには、英語の試験のほかに、もう一つ試験があります。計算と読解と短い作文で、経営学の知識は問われません。当時から計算機で受ける方式でした。
ここに書いたのは二〇〇〇年から二〇〇一年ごろの話です。
この作品はフィクションです。制度や手続きについては、その当時のものをできるだけ正確に書くようにしていますが、筆者は弁護士でも、移民法の専門家でもありません。制度は年によって変わりますし、同じ制度でも、一人ひとりの事情によって扱いが変わります。ここに書いたことを、ご自身の手続きの判断に使わないでください。実際に手続きが必要な方は、移民弁護士(在留資格の手続きを専門とする弁護士)など、資格のある方に必ずご相談ください。これらの記述について、筆者は責任を負うことができません。




