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雪解けを待つ街で  作者: 一之瀬 樹
第二章 いったん帰る
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六話 半年ぶん

 春の学期は五月の初めに終わった。


 試験が済むと、寮は日ごとに静かになった。廊下に段ボールが出て、次の日にはなくなっている。掃除の人が入って、扉が開け放たれる。開いた部屋はどれも同じ形で、机が二つとベッドが二つあり、マットレスのほかは何も載っていない。着いた日の私の部屋も、この形だった。


 着いて九か月がたっていた。紙に印字された一年のうち、残りは三か月ほどになった。


 ある晩、私は机に紙を一枚置いて、真ん中に線を引いた。左に、持っているもの。右に、要るもの。


 左の列は短かった。日本の大学の二年半。この国での一年。帰りの航空券の分と、少しの金。そして、あと三か月の紙。


 右の列は、窓口で聞いたことをそのまま書いた。学位。学位を出す課程。課程に入るための金。


 外から来た学生の、一年ぶんの数字は覚えていた。私はその横に、日本で五年かけて貯めた額を書いた。並べるまでもなかった。五年のほうが小さかった。私が五年で作ったものは、この国の一年に足りない。線を引いて、その行を消した。


 大学院の行は、しばらく残っていた。教えたり手伝ったりする代わりに授業料が免除され、暮らす分が出る。金のない留学生が学位を取るのは、たいていその道だと言われた。金の出るほうから数えれば、そこが入り口だった。


 入り口には学士が要る。


 学士をこの国で取るには、学部の授業料が要る。私は消したばかりの行に戻った。


 輪になっていた。どこから入っても、同じところに出る。私は同じ二行を三度なぞって、それが閉じていることを確かめた。


 輪の外に、出口が一つあった。


 日本の大学に戻れば、残っているのは半年だ。私は三年目の途中で出てきていて、こちらで取った分のいくらかは向こうで認められる。足りない分を秋からの半年で埋めれば、卒業は三月になる。その半年ぶんの授業料は、私に払える額だった。額を知っているからだ。二年半、払ってきた。


 それに、日本でなら、私は働ける。


 この国で私が働けるのは校内で、学期のあいだは週に二十時間までだ。日本にその枠はない。何時間でも働いていい。誰も止めない。


 私の顔を見て仕事をより分けてきた国が、稼ぐことだけは、いくらでも許していた。


 私が持っている二年半は、この国では何にもならない。日本でだけ、半年ぶんの意味がある。


 紙の上で、線は一つの方向を指していた。それは、私がいちばん戻りたくない場所だった。


 残るためには、帰るしかない。


 帰れば戻れなくなるのではないか。そう思って、私は表をもう一度出した。


 条件に当たる者は、次の資格に移る前に、母国に二年戻らなければならない。当たっていれば、帰った日から二年が始まる。半年で卒業しても、そのあと一年半、私はどこへも動けない。この算術は、初めから成り立たない。


 私は当たらない。窓口で、三十秒もかからずにそう言われた。


 あのとき私は、恐れていた壁が無かった、と思った。無かったから、この出口がある。


 書き終えてから、私はしばらくその紙を見ていた。字は私の字で、数は私が置いた数で、順番も私が並べたものだった。それでも、こんな結論を出すつもりで書き始めたのではなかった。紙を裏返して、電気を消した。


 それから何日か、私は決めなかった。


 決めない、というのは何もしないことではない。私は毎朝、その紙をもう一度表に返した。数のどこかが間違っていることを期待していたのだと思う。数は間違っていなかった。二度、順番を入れ替えて計算し直した。同じところに出た。


 帰れば、戻れる保証はどこにもなかった。大学院に受かるかどうかは私が決めることではないし、受かったとして、金の出る口が空いているかどうかはまた別の話だ。帰るというのは、いま座っている席を返して、まだ無いものに賭けることだった。日本を出たときと同じことを、今度は帰る側からもう一度やる。


 私はもう一度賭けられるのだろうか、と考えた。


 アブディが部屋を出たのは、その週の終わりだった。


 夏のあいだ実家に戻る。段ボールを二つ運ぶのを手伝って、駐車場まで行った。車で二十分のところだ。彼の帰る先は二十分で、私の帰る先は一日かかる。


 彼は車の窓から手を上げて、行った。


 私は何も言わなかった。言うことがなかったのではない。言えば、それは決めたということになる。決める前に口に出せば、口のほうが先に決めてしまう。


 部屋に戻って、私は誰に言うのだろうと思った。数えてみた。日本に、知らせる相手はいない。親戚は葬式に来て、それきりだった。私に付いていた後見人は、家庭裁判所が事務的に選んだ人で、顔を数回見ただけだ。それも私が二十歳になったときに終わっている。向こうの大学へは、秋から戻ると伝えることになる。伝える先は事務で、伝えるのは事実だ。決断ではない。向こうにとっては予定どおりの届け出になる。


 数え終わって、ゼロだった。


 九か月前、この街に着いた日にも同じことを数えた。あのときと同じ数だった。九か月かけて、私はこの数を動かしていなかった。


 それから、もう一つ気づいた。私が決めたことは、どの紙にも残らない。八月に帰るのは初めから決まっていたことで、私はそのとおりに帰る。書類は発生しない。誰かの机の上で、私の名前の横の欄が変わることもない。変わったのは、帰ったあとに何をするかだけで、それを書く欄はどこにもなかった。


 この国に来てから、私は自分の暮らしが紙でできていることを知った。期間があり、印字があり、欄がある。その紙のどれ一枚も、これを受け取らない。


 いちばん大きいものが、いちばん軽い。


 次の晩、私は言い方を変えてみた。帰りたくない、と私はずっと思っていた。二度目の冬を数えたときからそうだった。けれどその言い方は、私を何もしなくていい側に置く。帰りたくないのは、帰る先に何があるかを私が知っているからで、そこには私の意思が要らない。


 戻ってきたい、と言い直してみた。


 主語が動いた。私が欲しいものになった。


 私はそれを、口に出さずに一度、頭の中で最後まで言った。言い終わるまでに、何度か止まった。何かを欲しいと自分に言うことに、私は慣れていなかった。取れるものを取り、回ってきたものを受け、回ってこないものは、そういうものだと思ってきた。欲しいと言うのは、回ってこないかもしれないものに手を伸ばすことだ。伸ばした手は、見える。


 それでも言い終わった。誰も聞いていなかった。


 鞄に何を入れて帰るかを、私はその夜から考えはじめた。上着があった。八十九ドル九十九セント。この街で買ったいちばん高いものだ。日本の冬にあれは要らない。重いし、かさばるし、鞄はもともと二つしかない。売れば、いくらかにはなる。


 置いていくか、持って帰るか。


 置いていけば荷物は軽くなる。持って帰れば、あれは日本の押し入れで一冬なにもせずに眠っていて、それから、もう一度この街に来ることになる。


 私は持って帰るほうにした。


 あの上着は、まだ一冬しか使っていない。


 あの上着を買った日の夜、雪が降った。夜中に目が覚めて、椅子の背に掛けたそれを見ながら、私は数えた。一冬で使い終われば高い買い物だ、二冬使えば半分になる。そして、どちらになるのかを決めるのは私ではない、と思った。


 決めるのは、私だった。

 この話の背景について、少しだけ補足します。


 一九九九年から二〇〇〇年ごろ、米国の州立大学で、外国から来た学部の学生が払う授業料は、年に一万五千ドルから二万ドル前後でした。その州に住む学生の額とは別に定められていて、三倍前後になることが多かった。連邦の学生ローンは外国籍の学生には出ません。民間のローンは、米国の市民か永住者の連帯保証人を求めます。


 日本の大学の学年は四月に始まり、米国の大学の学年は八月の終わりに始まります。一年の交換留学に出る学生が日本の学年の途中で発ち、翌年の秋に後期から戻ることになるのは、この二つの暦がずれているからです。留学先で取った単位を一定数まで卒業に算入できる仕組みは当時からありましたが、上限は大学ごとに違いました。


 ここに書いたのは二〇〇〇年ごろの話です。


 この作品はフィクションです。制度や手続きについては、その当時のものをできるだけ正確に書くようにしていますが、筆者は弁護士でも、移民法の専門家でもありません。制度は年によって変わりますし、同じ制度でも、一人ひとりの事情によって扱いが変わります。ここに書いたことを、ご自身の手続きの判断に使わないでください。実際に手続きが必要な方は、移民弁護士(在留資格の手続きを専門とする弁護士)など、資格のある方に必ずご相談ください。これらの記述について、筆者は責任を負うことができません。

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