五話 二年
三月の終わりに、地面が出た。
消えたのは、車の通るところが先だった。次が、人の歩くところ。歩道の際に押しやられていた分が最後まで残り、灰色になって、縮んで、ある朝なくなっていた。下から出てきたのは、去年の秋に落ちた葉と、砂だった。葉は色をなくして、地面に貼りついていた。この街の春は、緑より先に去年の秋が出てくる。
着いて七か月がたっていた。紙に印字された一年のうち、残りは五か月ほどだ。
冬のことは、あとで思い出そうとしても順番が出てこない。氷点下二十度という数字は本当だった。外に出て何秒かで、耳も指の先も痛くなる。寒い、より先に、ほっぺが痛い、が来る。息は一日じゅう白かった。鼻毛が凍った。十一月に上着を買った次の週に、私は手袋と帽子も買った。買わずに済ませられる寒さではなかった。
朝は暗いうちに出て、帰るときにはもう暗かった。討論の授業は三十回で終わった。次の十五週が始まって、それも半分を過ぎていた。
冬を越した、という言い方を、この街の人がするのを何度か聞いた。越すものなのだと、そのとき知った。
その週のある夜、私は鞄の底から表を出した。
日本を出る前に、何度も読んだ表だ。在留資格――この国にいてよいと認められる資格のことで、種類があり、種類ごとに、できることと許される長さが違う――の一覧だった。私に出ているのはジェイワンといって、学びと交流のために、決められた期間だけこの国にいることを許す資格だ。交換留学というのは、大学どうしの取り決めで、一年だけ相手校で学ぶ制度で、そのために来た者には、たいていこれが出る。
欄をひとつずつ見ていった。前に読んだときには要らなかった行が、いくつもあった。
その一つで、目が止まった。
この資格で来た者のうち、条件に当たる者は、次の資格に移る前に、母国に二年戻らなければならない。
二年。
条件は三つ書いてあった。政府の金が入っているかどうか。技能の一覧に載っている分野かどうか。医学の課程かどうか。どれも短い文で、どれも私には判定ができなかった。
私の授業料は日本の大学が払っている。それは政府の金なのか。私の専攻は、その一覧に載っているのか。一覧そのものは、どこにあるのか。
読めた。書いてあることは、全部読めた。読めたうえで、自分がどちらなのかが分からなかった。日本を出る前、私はこの表を何度も読んで、分かった気になっていた。分かっていたのは、書いてある文のほうだった。
電気を消してからも、二年という数字が残っていた。
そういう窓口があるらしいことは、去年の十一月から知っていた。調べれば、場所はすぐに分かった。留学生の書類を扱う部屋が、教える建物とは別の建物にある。行かなかったのは、行けば訊くことになるからだ。訊くというのは、残りたいと言うことだった。
四日、行かなかった。
その四日、授業には出た。紙も読んだ。食堂にも行った。はたから見て変わったところは、たぶん何もなかった。ただ、何かを始めるたびに、二年という数字が先に来た。八月に帰って、次に来られるのは二年後になる。二年後にこの街に何が残っているのかを、私は数えられなかった。
三日目に、表をもう一度読んだ。四日目にも読んだ。文字は動かなかった。動かないものを、三度読んだ。
五日目に行った。
廊下に椅子が並んでいて、三人が待っていた。私は四人目に座った。窓の外の木は、まだ黒かった。
順番が来た。私は表の、その行を指した。これに当たるかどうかを知りたい、と言った。声は出た。前の晩に、この一文だけを何度も並べ直していたからだ。
窓口の人は私の書類を出させて、二か所を見た。それから、当たらない、と言った。
当たりません。それだけだった。
私はもう一度訊いた。二度目も、同じ答えだった。
四日、私はそれを抱えていた。終わるのに、三十秒もかからなかった。
礼を言って、立った。立って、座り直した。
では、と私は言った。残るには、何が要りますか。
訊いてから、自分が何を言ったのかが分かった。
窓口の人は驚かなかった。よく訊かれるのだと思う。
まず、この資格では駄目だ、と言われた。学びと交流のための資格で、学位を取るためのものではない。学位の課程に移るなら、別の資格に移らなければならない。移るには、受け入れる課程が先に要る。
私はうなずいた。ここまでは、表を読めば分かることだった。
次に、授業料の話になった。交換留学のあいだ、私は授業料を払っていない。払っているのは日本の大学で、こちらでは払わない。だから私にも手が届いた。学位の課程に移れば、その仕組みは消える。外から来た学生の額は、この州の学生とは別で、一年ぶんの数字を言われた。
私はそれを日本の金に直した。直してから、もう一度ドルで考えた。どちらでも同じだった。残っているのは、帰りの航空券の分と、少しだ。
働けないのか、と私は訊いた。訊いてから、それも読んで知っていたことだと気づいた。学生が働けるのは校内で、学期のあいだは週に二十時間まで。時給を思い出して、二十時間を掛けた。掛け算は、終わる前に答えが出ていた。
最後に、もう一つ道があると言われた。大学院なら、教えたり手伝ったりする代わりに授業料を免除され、暮らす分が出ることがある。金のない留学生が学位を取るのは、たいていその道だと。
それは、いい話に聞こえた。
大学院に入るには学士が要る、と続いた。
私は日本の大学の三年目の途中で来ている。学士は、まだ持っていない。
恐れていた壁は、無かった。
代わりに、三つあった。この資格では学位を取れない。学位の課程には金が要り、その金はない。金の出る道には、私がまだ持っていないものが要る。
どれも、私が悪いのではなかった。誰かが意地悪をしたのでもなかった。ただ並んでいるだけだ。並んでいるものは、怒っても動かない。
寮までの道で、私は三つを順番に数えた。数えても減らなかった。
部屋に戻って、上着を椅子の背に掛けた。冬のあいだ毎日着ていた上着で、袖の内側がもう薄くなっている。二冬目のことは、あの十一月に一度考えたきりだった。考えないようにしていたのではない。考えても、置く場所がなかった。
その夜、背中の奥のほうが冷たかった。部屋は暖かかった。暖房はまだ入っていた。
残りたい、と私は窓口で言ったわけではない。何が要りますか、と訊いただけだ。
訊いた時点で、言ったのと同じだった。
この話の制度について、少しだけ補足します。
学びと交流のために来る人の在留資格には、条件に当たる人だけが負う決まりがあります。いったん母国へ帰って二年住むまでは、永住権にも、企業に雇われて働くための資格にも移れない、というものです。学びのための資格に移ることそのものは妨げられませんが、その手続きも米国の中ではできません。
大学どうしの取り決めで来て、政府の金が入っていない学生は、たいてい当たりません。技能の一覧を定めているのは米国の側です。
やっかいなのは、その判定が書類の上に「当たると思われる」という形で刷られることです。これは仮の判断で、確かめるには別に申請をして、正式な見解を出してもらう必要があります。
ここに書いたのは二〇〇〇年ごろの話です。
この作品はフィクションです。制度や手続きについては、その当時のものをできるだけ正確に書くようにしていますが、筆者は弁護士でも、移民法の専門家でもありません。制度は年によって変わりますし、同じ制度でも、一人ひとりの事情によって扱いが変わります。ここに書いたことを、ご自身の手続きの判断に使わないでください。実際に手続きが必要な方は、移民弁護士(在留資格の手続きを専門とする弁護士)など、資格のある方に必ずご相談ください。これらの記述について、筆者は責任を負うことができません。




