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雪解けを待つ街で  作者: 一之瀬 樹
第一章 一年の予定で
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三話 ケン

 午後は、部屋にいた。


 机には、朝配られた紙が広げたままになっていた。シラバスという。この十五週で何を読み、いつ何を出し、遅れればどれだけ引かれるのかが、初めの日に全部書いてある紙だ。私はその裏に、次の回に言うことを書いた。


 三つ書いた。声に出して読んでみると、どれも二十秒ほどで言えた。長さは問題ではなかった。二十秒を置く場所が、あの部屋になかった。


 紙を裏返して、また表に戻した。


 着いた翌日から、私は一階の食堂で食べていた。食事の代金は寮費に含まれていて、入口で名前を言えばよかった。腹の減る時刻がまだ日本のままだったので、朝は食べられなかった。昼と夜、人の少ない時間を選んで行った。皿を持って、窓際の、端の席に座る。座るときには、傷のある側が窓を向くようにした。日本の教室でやっていたのと同じことだ。癖というのは、鞄に入れた覚えがなくても付いてくる。


 そのあいだ、私は食堂で誰とも喋らなかった。喋らなくても済んだ。


 夕方の前に、廊下が急に騒がしくなった。


 鍵が回って、扉が開いた。段ボールの箱が先に入ってきて、それを抱えた男が後から続いた。私と同じくらいの背で、私より肩が広かった。彼は部屋を見回し、空いているほうのベッドを見て、箱を床に置いた。それから私を見て、自分の名前を言った。アブディ、と聞こえた。


 私は立って、名字を言った。加藤、と。彼はもう一度言ってくれと言った。私はもう一度言った。彼は少し考えてから、下の名前を訊いた。ケン、と私は答えた。日本にいたあいだ、私はほとんど名字で呼ばれていた。下の名前で呼ばれるのは、家のなかだけのことだった。その家は、もうない。


 ケン、と彼は言った。この国で初めて、私はそう呼ばれた。


 箱は四つあった。運んできたのは彼一人ではなかった。廊下に、母親らしい人と、小さい子が二人いた。母親は頭に布を巻いていて、ダウンタウンですれ違った人たちと同じ巻き方だった。子どもたちは箱の上に座って、部屋を覗き込んでいた。


 母親が私に何か言った。速かった。訛りがあって、半分ほどしか取れなかった。息子をよろしく、というような意味だったと思う。私はうなずいた。うなずきながら、顔の角度を少し変えていた。母親はそれを見て、何も言わなかった。見なかったのではない。見て、それだけだった。


 三十分ほどで、部屋は埋まった。マットレスだけが載っている状態は、それで終わった。寝具も、扇風機も、蓋つきの入れ物に詰めた食べ物も、彼の家族はぜんぶ持ってきていた。母親が子どもたちを連れて帰るとき、アブディは廊下まで出て、しばらく何か話していた。私は部屋にいた。


 三日前、私はこの部屋に一人で入って、マットレスに腰を下ろした。私が着いたことを知っている人間は、この国にも、日本にも、一人もいなかった。そのときは、それがどういうことなのか、まだ量りようがなかった。廊下から母親の声が聞こえているあいだ、私はそれを量った。


 アブディが戻ってきて、飯だ、と言った。行くか、ではなかった。私は立った。


 食堂は、私が三日通った食堂だった。時刻が違うだけで、別の場所のように混んでいた。彼は列に並び、皿に取り、迷わずに奥のテーブルへ行った。私はその後ろを歩いた。


 テーブルには五、六人が座っていた。アブディが私の名前を言った。ケン、と。何人かがこちらを見て、それぞれ自分の名前を言った。私は半分も聞き取れなかった。速かったし、訛りが一人ずつ違った。訛りが一人ずつ違う、ということが、私にはまだ新しかった。日本で聞いてきた英語には、訛りが一種類しかなかった。


 私は空いている椅子に座った。座ってから、傷のある側がどこを向いたかを確かめようとして、やめた。左にはアブディがいて、彼は皿を見ていた。


 テーブルに、朝の教室にいた人がいた。


 四角い机の、向かいの辺に座っていた人だ。三人目に喋った人だった。名前を聞いて、プリヤ、と覚えた。彼女は私を見て、軽く手を挙げた。それだけだった。同じ部屋にいた、という顔ではなかった。覚えていないのだと分かった。七十五分のあいだ、私は同じ部屋にいて、一度も声を出さなかった。声を出さなかった人間のことは、覚えようがない。


 訊かれたのは、どこから来たか、だった。日本から、と答えた。次に、何をしに来たのか、と来た。交換留学だ、と私は答えた。大学どうしが取り決めて、学生を一年だけ交換する制度のことだ。その仕組みを、私は一度で言い終えられなかった。途中で語を探した。探しているあいだ、テーブルは待っていた。朝の部屋なら、そのあいだに次が始まっていた。


 プリヤは四年だと言った。学位を取り終えるまでの長さのことだ。誰も書類の話はしていない。私が勝手に、その四年を書類に置き換えていた。私のには一年と印字されている。彼女のにも、どこかに数字が入っているはずだった。在留資格――この国にいてよいと認められる資格には種類があって、種類ごとに、許される長さが違う。日本を出る前に、私はその一覧を何度も読んだ。読んでいたときには、それは表だった。表の中の一行が、向かいの椅子に座っていた。座っていると、表ではなくなった。


 アブディは、小さいころ家族とこの街に来た。それきり、ここにいる。夏のあいだは家にいたのだという。家は車で二十分ほどのところにある。なぜ私より三日あとになったのかは、聞かないままになった。


 彼の紙に何が印字されているのかは、思いつかなかった。小さいころに来て、それきりここにいる人間に、何年と刷るのだろう。私は知らない。訊くことでもなかった。


 プリヤには四年があり、私には一年があった。アブディのぶんだけ、数えられなかった。三人とも、同じ一つの言葉で呼ばれる。


 話が朝の授業のことになった。プリヤが、今日の討論のどこが面白かったかを言った。それを聞きながら、私は朝から手の中にあるものを、もう一度確かめた。


 同じ言葉を、二人が違う意味で使っていた。一人目と、三人目と。二人は反対のことを言ったのではなく、別のことを言った。だから噛み合わなかった。朝、私が言おうとして言えなかったのは、それだけのことだった。


 私は息を吸った。


 誰も話し始めなかった。


 私は言った。二十秒ほどだったと思う。言い終わると、プリヤは少し黙って、それから、二つの意味を並べて言い直した。私の見方に、彼女は乗らなかった。乗らずに、なぜ乗らないかを言った。それも半分ほどしか聞き取れなかったので、もう一度、と私は言った。彼女はもう一度言った。二度目はゆっくりだった。


 同じことを、朝の部屋では言えなかった。言う中身は同じだった。置く場所だけが、なかった。このテーブルには、それがあった。違いはそれだけで、私の側は何も変わっていない。


 朝の部屋で言えば、三割のうちに入る。このテーブルで言っても、どこにも入らない。私が言えたのは、入らないほうだった。


 部屋に戻ると、アブディはすぐに寝る支度を始めた。明日は朝が早いのだという。彼は扇風機を窓のほうへ向けて電気を消し、私は自分のベッドに入った。


 しばらくして、隣のベッドから、規則正しい息の音が聞こえてきた。


 同じ部屋で人の寝息を聞くのは、ずいぶん久しぶりだった。何年ぶりになるのかは、考えないことにした。


 今日、私はあのテーブルで何回喋っただろうか。


 数えようとして、数えられなかった。数えていなかったからだ。朝の部屋では、一回目から数えていた。十五週、週に二回、三十回のうちの一回目だと、紙を見ながら数えた。テーブルでは数えなかった。数える理由がなかった。何も点にならないからだ。


 点にならない場所でなら、私は喋る。それは、あの四角い机の部屋では、何の役にも立たない。


 それでも、部屋には息の音があった。三日前にはなかったものだ。


 一年。書類にはそう印字されている。指で数えられる数だ。その夜、私はそれを数えなかった。

 この話の背景について、少しだけ補足します。


 学生に「この日までに出よ」という日付は、実はどこにも刷られていません。この時代、学生の在留の記録には、日付ではなく「在学しているあいだ」と記されました。学生でいるあいだ在留でき、学生でなくなった時点で終わる、という決まり方です。とはいえ課程が終われば学生ではなくなるのですから、当人には課程の長さがそのまま期限として働きます。


 難民として来る、という別の道もあります。ソマリアでは一九九一年に中央の政府が崩れ、内戦が続きます。米国は近隣国の難民キャンプから人を受け入れ、ミネソタに最初のソマリの人たちが着いたのは一九九〇年代の初めでした。


 なぜミネソタだったのか。一九七五年以降、東南アジアからの難民のために作られた支援の仕組みがすでにあり、着いてすぐ就ける仕事もありました。そして何より、先に着いた家族の話が伝わって、いったん他の州に落ち着いた人たちが、あとから移ってきました。いまミネソタが全米でいちばん大きなソマリ系の集まりを持っているのは、そのためです。中心はミネアポリスのセダー・リバーサイドで、「リトル・モガディシュ」と呼ばれます。


 難民という立場には、終わりの日付がありません。学生の在留は学生でなくなれば終わり、仕事の資格は勤めが終われば切れます。どちらも終わりが初めから組み込まれていますが、難民はそうではない。一年たてば永住権を申請することになっていて、そこから市民権への道も続いています。


 ここに書いたのは一九九九年ごろの話です。在留資格の扱いも、難民の受け入れも、その後たびたび変わっています。


 この作品はフィクションです。制度や手続きについては、その当時のものをできるだけ正確に書くようにしていますが、筆者は弁護士でも、移民法の専門家でもありません。制度は年によって変わりますし、同じ制度でも、一人ひとりの事情によって扱いが変わります。ここに書いたことを、ご自身の手続きの判断に使わないでください。実際に手続きが必要な方は、移民弁護士(在留資格の手続きを専門とする弁護士)など、資格のある方に必ずご相談ください。これらの記述について、筆者は責任を負うことができません。

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