三十四話 越さなくていい季節
六月のうちに決めた。その月に決めないと、空いていなかった。開いた分から順に埋まっていく。マリソルが調べて、絵美に言って、絵美が私に言った。
行きますか、とは訊かれた。答えると、この日です、がもう来ていた。
八月に、北へ行った。
車で三時間ほどだ。街を出て、しばらくは同じような道が続く。そのうち家が減って、木が増える。木が増えてからは、ずっと木だった。
途中で車線が減った。減ってから、対向の車も減った。すれ違う車の屋根には、たいてい何か積んである。同じ方向へ行く車のほうが多かった。
この国へ来て二十一年になる。北へ行ったのは、その夏が初めてだった。
夏に休みを取ったことがなかったわけではない。この土地の人が夏にどこへ行くのかを、私は知っていた。知っていて、行く用が無かった。
用が無いところへ行くには、誘われるしかない。
キャビンは借りたものだった。マリソルの側の縁で、前にも使ったことがあるのだという。三家族で割った。割り方は絵美が出して、私は見ただけだ。数字は合っていた。
着いたのは昼過ぎだった。部屋は三つあった。三家族で一つずつ使って、子どもは夜になると一つの部屋に集まった。集まることは誰も決めていない。大人が荷物を置いた順に、そうなった。
建物は湖のほうを向いていて、そちらの側に桟橋が出ていた。板が七枚か八枚、水の上に伸びている。端のところだけ少し傾いていた。
子どもは三人とも、荷物を置く前に走っていった。リアが先で、ソフィアが次で、直美が最後だった。三人とも同じ速さで、順番は入れ替わらなかった。
水は思ったより冷たくなかった。
私は靴を脱いで、桟橋の端に座った。足首まで入れた。北へ来ると水が冷たいのだろうと思っていたが、八月の湖は上のほうがぬるい。下のほうは冷たい。足を深く入れると、境目がある。
トゥーが隣に来て、同じように座った。しばらく何も言わなかった。それから、ここは浅い、と言った。深いところは向こうだ、と指した。
私は、そうですか、と言った。
それだけだった。彼は教えているのではなく、座って、見えるものを言っただけだ。私は、何も足さなかった。
釣りをした。
道具はトゥーの家とマリソルの家のものだ。私は持っていない。持っていないものを借りるとき、私はいつも先に断りの言葉を用意する。用意したものは使わなかった。渡されて、持って、それで終わった。
やり方は分からなかった。分からないので、見ていた。
直美はリアに教わっていた。子どもが子どもに教えるのは速い。言葉が少ないからだ。ここを持って、こう、で済む。私が二年前に、持ち方から教えたときの三分の一もかかっていなかった。
二時間で、三匹釣れた。ウォールアイという魚だ。この湖ではよく釣れるのだという。三匹のうち二匹はリアで、一匹はソフィアだった。
直美は釣れなかった。
釣れないまま、最後まで座っていた。途中で立ちもしなかった。
その日の夕方に、私はそれを思い出そうとした。この子が何かを、釣れないまま二時間やっているところを、私は前に見たことがあっただろうか。
あった。二年前の夏だ。当たらないまま何度も空を切って、そのたびに笑っていた。
同じ子だった。
日が落ちるころに、蚊が出た。街のものより大きい。子どもは気にしていなかった。気にしているのは私だけだった。
日が落ちてから、外で火をたいた。トゥーが組んで、マリソルが紙を入れた。私は薪を運んだ。運ぶのは分かる。
子どもは火の近くに座って、そのうち動かなくなった。大人は少し離れて座った。
誰も、春の話をしなかった。
三月のことも、五月のことも、出なかった。板のことも、音のことも、店のことも出なかった。天気の話をして、水の話をした。
トゥーが一度だけ、秋はどうなると思うか、と訊いた。誰も答えなかった。分からないので、答えようがない。彼もそれ以上は訊かなかった。
私は、話が出るのを待っていたのだと思う。待っていたことに、そのとき気づいた。
出さなかったのは、話せないからではないのだろう。ここに座っている大人は、みなそれぞれの春を持っている。持っているものを並べれば、どれが重いかを比べることになる。比べる場所として、この火は向いていなかった。
だから誰も出さなかった。私も出さなかった。
湖の向こうで、鳥が鳴いた。長く尾を引く声だった。二度鳴いて、それきりだった。マリソルが名前を言った。聞いたことのない名前だった。
この土地の鳥だ、と彼女は言った。夏だけここにいる。
冬はどこへ行くんですか、と私は訊いた。
南、と彼女は言った。それ以上は知らないらしかった。私も、それ以上は訊かなかった。
火が小さくなってから、直美が桟橋のほうから私を呼んだ。
ダッド、と聞こえた。
呼ばれたので、私は返事をした。
立って、行った。何のことはない用だった。虫が入ったから見てほしい、というくらいのことだ。見て、取った。
戻る途中で、私はその音のことを考えた。
考えて、いつからそうなっているのかを思い出そうとして、やめた。前にも同じことをしている。あのときは控えを出して、どこにも書いていないことを確かめた。確かめたところで、初めの一度は出てこなかった。
同じことを二度やる必要はない。
火のところへ戻った。絵美が薪を足していた。
寒くないですか、と訊かれた。八月の夜だが、北はもう冷える。私は、大丈夫です、と答えた。
この街に着いた年、私は冬の越し方を知らなかった。アブディに教わった。一月はこんなものじゃない、と言われた。氷点下二十度という数字を、そのとき初めて聞いた。
越すもの、という言い方も、この土地で覚えた。
越した冬のほうなら、私も持っている。十年前に、渡す相手にそれが要らないことは分かっていた。この子は越していない。越していないものは、越せない。
いま座っているのは、越さなくていい季節のほうだ。
この土地で夏に何をするのかを、私はやっと一度やった。誘われて、割って、運んで、座っただけだ。何も勝ち取っていない。書類も一枚も出していない。
出していないのに、私はここにいる。
火が消えるまで、誰も立たなかった。




