三十三話 同じ一つの言葉
三月に、学校が閉まった。
いつまで、とは書いていなかった。二週間、と初めは書いてあって、そのあと書き直された。書き直された紙のほうには、いつまで、が入っていなかった。
直美は四年生の途中だった。
同じ月に、締めが動いた。
毎年、一月から四月の半ばまでが私の四か月だ。決算と申告の期日が法で決まっているので、動かない。二〇〇四年に事務所へ入ってから、一度も動いたことがない。切られた年も、その四か月は同じ場所にあった。
その年は、七月の半ばまで延びた。
紙が回ってきて、読んで、もう一度読んだ。私はそういうときに二度読む。読み違えたのだと思うからだ。読み違えてはいなかった。
四か月が七か月になった。
仕事が減ったわけではない。前にも同じことがあった。家から入れるようになった年、行ける日が増えて、夜が動いた。仕事は減らず、置き場所が変わっただけだった。今度は、置き場所ではなく長さのほうが変わった。
私はその紙を控えの束に入れた。日付を書いた。窓口は無い。言われたことも無い。
ゴルフ場も閉まった。三月のうちだ。
どのみち、外で打てるのは五月からだ。閉まっているあいだは、もともと打てない季節だった。四月の半ばを過ぎたころに開いた。予約と払いは電話かオンラインでだけ、と書いてあった。
直美の試合は、夏の分がぜんぶ無くなった。紙は来なかった。無くなったことを知らせる紙も来ない。
教わる組も止まった。
私は数えるものが減ったことに、しばらく気づかなかった。数えるのは、届くかどうかが分からないからだ。分からないものが、その春はなかった。全部、まだ分からなかった。
四月に、絵美が店で言われた。
言われた中身は聞かなかった。彼女も言わなかった。帰ってきて、次からは別の店にします、と言った。それだけだった。
私は訊かなかった。訊けば、彼女がもう一度その場に立つことになる。
その週から、買い物は私が行った。理由は言っていない。彼女も訊かなかった。
直美には、何も言わなかった。
言うことがなかったわけではない。しまう場所が要ることを教えることになる、と前に思ったことがある。二〇一七年の秋だ。あのときと同じ理由で、私は黙った。同じ理由を二度使うと、それは理由ではなく癖になる。癖になっているのだと、そのとき分かった。
五月の終わりに、街が動いた。
何が起きたのかは、ここには書かない。名前も書かない。書けるのは、その週に見えたものと、聞こえたものだけだ。
夜に、遠くで音がした。低いところを回る音だ。何日か続いた。
昼のあいだは静かで、静かなことのほうが落ち着かなかった。ふだんなら、この時刻には車の音がする。しなかった。
直美が、あれは何かと訊いた。日本語で訊かれたので、日本語で答えた。何かあったんだ、と私は言った。それ以上は言えなかった。言えることを、私は持っていなかった。
返ってきたのは英語だった。短かった。
店に板が張られた。うちの近くではなく、街のほうだ。板は日ごとに増えて、そのうち数えられなくなった。私は数えようとして、途中でやめた。
直美は家にいた。学校が閉まっているからだ。
絵美は出ていた。売る仕事は、閉まっていても止まらない。止まったのは店のほうで、彼女の相手は店ではない。
私は机にいた。七月の半ばまで延びた分を、毎日並べ直していた。
その週に、アブディから電話があった。
番号は消していない。この国へ来てから、私は番号を一つも消していない。
彼は、飯だ、と言わなかった。
行くか、でもなかった。この人の誘い方は、一つだけだった。一九九九年の寮の部屋で、飯だ、と言われた。二〇〇九年も、二〇一四年も同じだった。行くか、ではない。
その日は、無事か、と訊かれた。
私は、無事です、と答えた。それから、そちらは、と訊いた。
彼は少し黙って、うちのほうは近い、と言った。
近い、というのがどこからどこまでを指すのかを、私は訊かなかった。実家は車で二十分のところにある。それは一九九九年から変わっていない。二十分がどれくらいの近さなのかを、私はその日まで考えたことがなかった。
電話は短かった。用件は無い。用件が無いのに、この人はかけてきた。それは初めてだったと思う。
切ってから、私は台所に立っていた。
一九九九年の八月、寮の一階の食堂で、私は三人ぶんの数を数えようとした。プリヤには四年があり、私には一年があった。アブディのぶんだけ、数えられなかった。彼の紙に何が印字されているのかは、思いつかなかった。
あの晩、私は一つのことに気づいて、それきり考えなかった。三人とも、同じ一つの言葉で呼ばれる。
二十年たって、移民という一語は同じところにある。動いていない。
動いたのは、その一語が三人に何をするかのほうだった。
私は自分の分から数える。いつもそうしている。その春に私が怖かったのは、私と、絵美と、直美の顔だった。店で何かを言われるのは絵美で、次は直美かもしれないと思った。そこまでは数えた。
数えたところで止まった。
止まったところの先に、アブディがいる。二十分のところに実家があって、小さいころからこの街にいる人だ。あの晩、私が数えられなかったほうだ。その人の春を、私は数に入れていない。
訊かなかったからではない。訊く前に、数える順番が私の側から始まっていた。
一度、留守番の電話に飯だとだけ入っていたことがある。かけ直すつもりでいて、かけ直さなかった。あの席には、紙が一枚も無い。日付も、期限も、次に出すものも無い。動かないものは、私の並びから落ちる。
今度は向こうからかかってきた。切れてはいない。
切れていないのに、私はまだ自分の分から数えている。
六月になって、いくつかが開きはじめた。
湖のほうの宿が、順に開くという知らせが回った。全部ではない。一日に開く分と、その次の週に開く分がある。
マリソルから絵美へ、その話が来た。トゥーの側にも同じ話が回っていたのだという。
私のところへは来ない。あの人たちの名前も番号も、私は持っていない。持っているのは絵美のほうだ。
行きますか、と絵美が訊いた。
私は、行きます、と答えた。答えてから、数えはじめた。
数え終わる前に、彼女はもう日にちを言っていた。
この話の背景を、二つ補足します。
一つは、店での一件についてです。二〇二〇年の春、感染症が広がっていくなかで、この国では、アジア系の見た目の人に向かって言葉が投げられる出来事が増えました。病と結びつけて言われることが多かったようです。
向けられる側は、区別されません。どの国から来たのかも、いつ来たのかも、そもそも来ていないのかも関わりません。この国で生まれ、この国の言葉しか持たない人にも、同じように向けられます。見た目でひとまとめにされる、というのはそういうことです。
起きることの多くは短いものです。すれ違いざまの一言、勘定を待つ列での一言、車の窓からの一言。数秒で終わり、相手はそのまま行ってしまいます。届け出るような形になりませんし、あとに残るものもありません。実際にどれだけ起きたのかが数字になりにくいのは、そのためです。
もう一つは、その年の五月の終わりに、この街で起きたことについてです。
ミネアポリスで、一人の黒人男性が、警察官に取り押さえられて亡くなりました。その様子が記録されて広まり、街に、やがて国じゅうに大きな動きが広がります。夜のあいだ外に出ないよう求める指示が出て、店の窓は板で覆われました。
この出来事は、在留資格を巡るものではありません。この国に暮らす黒人の人たちと、警察とのあいだで、長く続いてきたことの一つです。
ただ、移民と切り離せるものでもありません。肌の色を理由に見られる人に、いつ来たのか、来ていないのかは問われないからです。一九九〇年代の初めにこの街へ着いたソマリの人たちは、いまでは子や孫の世代がここで育っています。その人たちは、移民であって、同時に黒人です。どちらか一方として扱われる場面が、それぞれにあります。
人種というものが目に見える形で前に出た季節でもあって、直接の的ではない人たちも、自分と家族がどこに立っているのかを考えることになりました。
ここに書いたのは二〇二〇年ごろの話です。
この作品はフィクションです。制度や手続きについては、その当時のものをできるだけ正確に書くようにしていますが、筆者は弁護士でも、移民法の専門家でもありません。制度は年によって変わりますし、同じ制度でも、一人ひとりの事情によって扱いが変わります。ここに書いたことを、ご自身の手続きの判断に使わないでください。実際に手続きが必要な方は、移民弁護士(在留資格の手続きを専門とする弁護士)など、資格のある方に必ずご相談ください。これらの記述について、筆者は責任を負うことができません。




