三十話 四日ぶん
二〇一八年の夏の終わりに、私は土曜の学校を調べた。球を打ちに行ったあとだった。渡せるものが一つ出てきて、それが夏だけのものだったので、ほかに何かあるかを見た。
あった。
土曜だけ日本の学校をやるところがある。国語を、日本の教科書で、日本の学年で進める。平日はこちらの学校へ通って、土曜だけそちらへ行く。補習校という。車で四十分だった。
申し込みの用紙を印刷した。日本語で刷ってあった。生まれた日。住んでいる所。前にどこの学校にいたか。下のほうに、家庭で使う言語、という欄があった。
私はそこで止まった。
この国の紙は、たいてい数を訊く。何年いるか。何日働いたか。いくら払ったか。私はそれを埋めるのが得意で、埋められない紙に当たったことがほとんどない。
家庭で使う言語には、数が無い。
日本語、と書けば嘘になる。英語、と書いても嘘になる。両方、と書くと、割合を訊かれている気がした。割合なら、私は測っていない。
結局、日本語、と書いた。書いてから、しばらく見ていた。合っているとも間違っているとも言えない答えを紙に置いたのは、初めてだった。
日本の学校は四月に始まって、三月に終わる。こちらの学校は九月に始まって、六月に終わる。二つはずれている。直美が入れるのは向こうの年の途中からで、九月からの分になった。教科書は一年で一冊を終えるので、四月から七月までに済んだところは、済んだことになっている。
初めの土曜に、私が連れて行った。朝の九時から一時までだ。
建物は借りている。平日は地元の学校が使っていて、土曜だけ空く。壁に貼ってあるものは、こちらのものではない。土曜の朝にこちらの紙を貼り足して、昼過ぎに剥がして帰る。
廊下に親がいた。子を入れてから、帰る親と、帰らない親がいる。帰らない親のための部屋が一つあって、そこに何人か座っていた。
初めの日、私は帰った。四十分かけて戻って、二時間して、また四十分かけて行った。二度目からは、待つほうにした。家にいられる二時間のために、一時間二十分、車に乗っている。
待つ部屋には、母親が多かった。四時間、そこにいる。手を動かしている人もいるし、話している人もいる。順番で、受付や行事の手伝いが回ってくる。私にも回ってきた。
その部屋で、私は同じ話を何度も聞いた。三年でこの街を出る。五年で出る。戻れば向こうの同じ学年に入る。だから遅れられない。
遅れられない家の子は、遅れなかった。
私は割り算をした。日本の学校は週に五日ある。ここは土曜の一日だ。使う本は同じ一冊で、同じ一年で終える。
差の四日ぶんは、家にある。
家に四日ぶんを置ける家と、置けない家がある。それだけのことだった。
置ける家の母親は、働いていない。働けない紙で来ているのか、働かないことにしているのかは、私には分からない。訊いたこともない。人の紙のことは、私には何一つ言えない。
言えないので、数のほうを見た。数のほうは、どの家でも同じだった。五日と、一日と、その差だ。
宿題は毎週出た。一週間ぶんに割ってある。月曜から金曜まで、日に一枚ずつやれば終わる形になっていた。読むところがあって、書くところがある。読むところには、直美の読めない字が混ざる。混ざったところで止まるので、そこは誰かが読む。
平日の晩にそれをやる時間がある家と、無い家がある。
うちは、あるときと無いときがあった。
絵美は月のうち何日か出ている。私は九時から机に着く。それより前なら空いている。空いている晩は、やった。やらなかった晩の分は次の週に残り、残った分は、その次の週にも残った。
十月に、こちらの学校で教室を見る日があった。私は行った。三年前は、月を数えてから行った。その年は、数えなかった。壁のところで、親の一人に話しかけられた。
日本の、あれ。お好きでしょう、と言われた。
どれですか、と私は訊いた。
名前は出てこなかった。出てこないまま、好きでしょう、のほうだけが残った。娘が見ます、と私は言った。
直美はそういうものを見る。友達が見ているからだ。こちらの言葉に吹き替えたものを見る。訊けば話す。話は長い。
同じ晩に、別の親に声をかけられた。名前のことだった。紙に並んでいるのを見て、日本のかもしれないと思ったのだという。合っていますか、と訊かれた。
合っています、と私は答えた。
ダニエルといった。子が直美と同じ組にいる。日本にいたのだという。英語を教えていた。三年いて、十年ほど前に戻った。大きくない街だったと言った。
そう言ってからも、彼は日本語にしなかった。こちらの言葉のままだった。次に訊かれたのは、いつからこちらにいるか、だった。
何が好きか、ではなかった。
十九年です、と私は答えた。
そのあいだに一度も、とは訊かれなかった。訊かれたのは、最後に行ったのはいつか、だった。二〇〇四年です、と私は言った。
じゃあ、けっこう変わってますよ、と彼は言った。日本を出たのが私よりあとなので、事実として、そのとおりだった。
いくつか名前を出された。私の知らないものが混ざっていた。混ざったところで、私は止まった。止まったところを、彼は埋めなかった。埋めずに、次の話へ行った。
また行きたいんです、と彼は言った。
いいですね、と私は言った。
それで、話は次へ行った。帰りの車で、私はその言い方を一度思い出した。思い出しただけだった。
一月が来た。その年も、一月から四月の半ばまでは土曜も仕事がある。前の年までは、その土曜は会社にいた。その年は、朝に連れて行って、待って、連れて帰った。仕事のほうは、夜へ動かした。
二月のある晩に、宿題の読むところで直美が止まった。なんて書いてある、と私は訊いた。
返ってきたのは英語だった。
私は続けた。続けて、その晩の分は終わった。
そのときは、何も思わなかった。
何度目かで、目に入った。私の仕事は、合っている行を見ない。合わない行だけを見る。並びを覚えると、違うところのほうが先に出てくる。
日本語で訊いて、英語で返ってくる。それが、違う行だった。
いつからか、を私は調べた。控えを出した。その年の紙は全部ある。日付も入っている。
どこにも書いていなかった。
書いていないのは、書くところが無いからだ。日付が要る出来事ではない。窓口も無い。言われたことも無い。誰も何も言っていない。
初めの一度がいつだったのかは、分からない。分からないまま、二度目からは分かるようになっていた。
絵美にも同じことが起きていた。一度だけ、そうですね、と言った。
二月に、次の年の用紙が来た。四月からの分だ。三月の半ばまでに出す、と書いてあった。私は控えの束と同じ引き出しに入れた。
三月の最後の土曜に、その年が終わった。教科書を持って帰ってきた。一冊ぜんぶ済んだ形になっている。済んでいないのは、家にある分だ。
二十五回ほどあって、休んだのは一度だけだった。雪で、学校のほうが閉まった日だ。
行った回数なら書ける。書けるが、それだけだった。
三月の半ばは、その前に過ぎていた。用紙は引き出しにあった。
この国へ来てから、私は期限のある紙を出さなかったことがない。十九年、出すものは出してきた。要らなくなった紙まで作って、日付を書いて、封筒に入れて取ってある。いちばん役に立たなかった紙が、いちばん厚い束の中にある。
出さない、と決めた晩は無い。決めた覚えが無い。
期限のほうが、先に過ぎた。
四月の第二土曜に、絵美が一度だけ訊いた。あれ、出しましたか、と。
出していません、と私は言った。
そうですか、と彼女は言った。それきりだった。
五月になって、私は球を打ちに直美を連れて行った。十月の終わりから行っていない。持ち方は忘れていた。教え直すと、三度目で当たった。前の年より遠くへ行った。
いまのだ、と私は言った。
いまのだ、と直美も言った。
英語だった。
その日は、あと十度ほど当たった。
この作品はフィクションです。制度や手続きについては、その当時のものをできるだけ正確に書くようにしていますが、筆者は弁護士でも、移民法の専門家でもありません。制度は年によって変わりますし、同じ制度でも、一人ひとりの事情によって扱いが変わります。ここに書いたことを、ご自身の手続きの判断に使わないでください。実際に手続きが必要な方は、移民弁護士(在留資格の手続きを専門とする弁護士)など、資格のある方に必ずご相談ください。これらの記述について、筆者は責任を負うことができません。




