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雪解けを待つ街で  作者: 一之瀬 樹
第八章 間に合うようになって
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二十九話 夏だけのもの

 二〇一六年に、仕事のほうが動いた。


 外から中の数字が見られるようになった。引き出しに入れてあった機械を出して、家の机に置いた。入るときは、セキュリティー・キーの窓に出ている六つを打つ。しばらく見ていると、その六つは別の六つに変わる。前の年に渡されて、ずっと持ち歩いていた。


 打つと、会社の机に置いてあるのと同じものが出てきた。


 紙の突き合わせも、画面でやるようになった。二つの表を並べて、合わない行を探す。私はそれを、ずっと紙でやってきた。指で押さえて、順に下りていく。画面では指が使えない。


 速いことは分かった。分かるのと、慣れるのとは別だった。


 日本との会議も、家からできるようになった。向こうの朝は、こちらの夕方だ。時差は冬で十五時間、夏で十四時間ある。夕方に開けば、向こうは翌朝の始まりにいる。


 それで、行ける日が増えた。


 増えたぶん、夜が動いた。六時に出て、七時半に戻って、九時から机に着く。仕事が減ったのではない。置き場所が変わっただけだ。


 九時から始めると、終わりは自分で決めることになる。会社にいたころは、建物の閉まる時刻があった。家には無い。


 絵美も同じ形になっていた。二人とも家にいて、二人とも仕事をしている晩がある。


 その形になって、私は行けない、と言わなくなった。


 一年生の秋に、ホッケーを勧められた。この州ではまず勧められる。子どもの数だけ氷がある。何人かに、別々に言われた。


 値段を訊いて、書き出した。靴。頭にかぶるもの。体に当てるもの。棒。氷を使う代。それから、遠くの試合へ行く分。


 書き出して、順に埋めた。埋まった。


 新しく買った場合の値だった。


 中古を扱う店があると教えられた。行った。子どもの分は、たいてい中古で回っている。体が伸びるので、一年か二年で出る。出たものを次の子が買う。年に一度、親どうしが体育館に持ち寄って交換する日もあるのだという。


 私は紙にもう一列足した。中古の値のほうだ。半分より下になった。


 費用の行は、それで埋まった。


 埋まらなかったのは、下の行だ。氷の時刻だった。


 子どもに回ってくるのは、朝の五時半か、夜の十時からになる。空いているのがそこしかないからで、誰が決めたわけでもない。それが十一月から三月まで続く。うち三か月は、私が机から動けない四か月の中にある。


 その年から、私は夜に家で働けるようになっていた。朝の五時半なら、行ける。


 行ける、と書けた。書けたが、それは私の行だ。直美の行ではない。


 私は数えるのをやめて、絵美に見せた。


 やってみないと分かりませんね、と彼女は言った。


 それで終わった。決まっていないことを、彼女は続けない。


 同じ秋に、別のことも言われた。


 日本人なら、柔道か空手ではないか、と。


 これも一度ではない。何人かに、別々に言われた。


 私はどちらもやったことがない。


 道場の場所も知らないし、何をするところなのかも、人と同じくらいしか知らない。二十一まで日本にいて、そのどちらにも一度も触れていない。


 一度、そう言った。やったことがないんです、と。


 相手は、そうなんですか、と言って、それきりになった。悪いことは何も起きなかった。ただ、次に会ったときも同じことを言われた。


 この国へ来て十七年、私が日本から持ってきたもので人に通じたのは、いつもそういう種類のものだった。私が持っていないもののほうが、私のものとして数えられる。


 直美は結局、サッカーを始めた。友達が何人か、そちらにいた。理由はそれだけだった。


 通年でやれて、要るものが少ない。靴と、脛に当てるものと、その季節の会費だけだ。氷も要らない。


 決めたのは、私の紙にある行ではなかった。


 送りは絵美で、迎えは私になった。夕方の練習は六時半に終わる。私はそこへ行って、家へ帰って、九時から机に着いた。


 一月から四月の半ばも、そうした。


 その四か月に子を迎えに行ったのは、この年が初めてだった。


 初めてなので、しばらくは、行くたびに何かを間違えているような気がした。誰も何も言わない。言われないので、間違えていないのだと分かる。それが分かるまでに、何回かかかった。


 二〇一七年の秋に、試合の脇に立っていた。


 親が何人か、同じところに立っている。話しかけられることもあるし、ないこともある。その日は話しかけられた。


 どの子か、と訊かれた。あれです、と指した。


 それから、その人は直美のほうを見て、どこから来たのか、と訊いた。


 直美は町の名前を言った。この街の西の、ありふれた郊外の名だ。


 その人は、もう一度訊いた。


 直美は同じ町の名前を、もう一度言った。今度は少しゆっくり言った。相手が聞き取れなかったのだと思ったらしい。


 その人は、なるほど、と言って、別の話に移った。


 直美は何も起きていない顔をしていた。実際、その子には何も起きていない。


 この国で、私は何度もそれをやられている。標(しる)されている、という感覚を、私はその都度どこかへしまってきた。しまう場所を、十八年かけて作った。


 この子は、しまわなかった。しまうものが無かったからだ。


 私は何も言わなかった。言えば、しまう場所が要ることを教えることになる。


 二〇一八年の夏に、直美をゴルフに連れて行った。


 この街で外で打てるのは、五月から十月までだ。半年は雪の下にある。夏だけのものだと、初めから決まっている。


 安いほうの場所を選んだ。誰でも入れる。籠を一つ買えば、その分だけ打てる。会員も、紹介も要らない。


 私が打てるのは、日本で五年、球を拾ったからだ。打席には出なかった。人が打つのを毎日見ていれば、形は入る。人のいない時間に、返ってきた球で試したこともある。金を出して身につけたものではない。


 二〇〇四年に日本へ行ったとき、一度だけそこを見に行った。入らなかった。道の向かいから、球を拾う車が動くのを見ただけだ。


 直美に、持ち方から教えた。


 手の置き方。足の幅。どこを見ているか。八歳の手は小さいので、クラブのほうを短く持たせた。


 説明は短くした。長く言っても入らない。日本語で言って、通じないところだけ、こちらの言葉で言い直した。言い直したのは、二つだけだった。


 当たらなかった。何度も空を切って、そのたびに笑っていた。笑うので、私も止めなかった。


 十度目くらいに、当たった。低く、まっすぐ、思ったより遠くへ行った。


 直美はこちらを見た。私は、いまのだ、と言った。


 いまのだ、と直美も言った。日本語だった。


 八年前の秋に、私は紙を書いて、この子に渡せるものが一つも無いことを確かめている。冬の越し方も、この国に着く側のことも、どれも要らないものだった。


 あのとき止まったところに、これがあった。


 この街の冬でもなく、着いてから覚えたものでもない。日本で、球を拾って、金をもらいながら覚えたものだった。


 しかも、夏しか使えない。


 それでも、渡すものだった。

 この話に出てくる、どこから来たのか、という問いについて補足します。


 この国では、初めて会った相手に出身を訊くのは、ごく普通の世間話です。人がよく移り住むので、いまどこに住んでいるか、その前はどこにいたか、という話になりやすい。返ってくるのは町か州の名で、それで話は次へ行きます。


 この国で生まれた子は、生まれたときからこの国の市民です。親がどこの生まれかは関わりません。町の名で答えるのが、そのまま正しい答えになります。


 ただ、訊く側が、この国の人はこういう顔をしている、という像を持っていることがあります。像に合わない相手が町の名を答えると、その正しい答えが、途中までの答えに聞こえる。それで、同じ問いがもう一度出ます。二度目が訊いているのは、住んでいる場所ではなく、先祖がどこの出かのほうです。


 この国の人の背景はもともと一様ではないので、合っていないのは像のほうです。


 受け取り方は、世代でかなり違います。日本から移り住んだ側は、実際に外から来ているので、この問いに答えるものを持っています。気にしない人が多いようです。生まれた側には、それがありません。ここで生まれ、ここで育ち、町の名のほかに答えようがない。その正しい答えを二度目で退けられるので、とても失礼な問いとして受け取られます。


 この作品はフィクションです。制度や手続きについては、その当時のものをできるだけ正確に書くようにしていますが、筆者は弁護士でも、移民法の専門家でもありません。制度は年によって変わりますし、同じ制度でも、一人ひとりの事情によって扱いが変わります。ここに書いたことを、ご自身の手続きの判断に使わないでください。実際に手続きが必要な方は、移民弁護士(在留資格の手続きを専門とする弁護士)など、資格のある方に必ずご相談ください。これらの記述について、筆者は責任を負うことができません。

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