二十七話 代わりに来た人
二〇一四年の三月に、直美が熱を出した。
その月の私は、机から動けない。一月から四月の半ばまでは毎年そうで、その年もそうだった。
絵美はこの街にいなかった。持ち場のほうの用で、月のうち何日かは出ている。その週がそうだった。
夕方に、預ける先から電話が来た。
熱があります、と言われた。数を言われた。私が四年半前に教わった数を、超えていた。
迎えに来られますか、と訊かれた。
行きます、と私は答えた。
答えてから、数えはじめた。ここから車で二十五分。いま開いている数字は、今日の終わりまでに閉じる分だ。閉じないまま置いていくと、明日の朝、私が来る前に人が見ることになる。誰が見るかまでは分かっている。何を訊かれるかも分かる。
二十五分と、明日の朝と、訊かれることを並べた。並べれば出る。
出る前に、電話が鳴った。同じところからだった。もう出られました、と言われた。
名前を言われた。
用紙に書いてある名前だった。四年前に絵美が書いた二つのうちの、私の知らないほうだ。連絡がつかないときに代わりに来てもらえる人を二人、と用紙にはそう刷ってあった。
私は用紙を思い出した。欄は二つあって、二つとも絵美が埋めた。私の側は空いたままにしてある。
空いていたところは、その日、一度も使われなかった。使うところが無いからだ。
私は数えている途中だった。
数え終われば、行く、と出たはずだ。二十五分は出せる。明日の朝のことは、明日の朝に片づく。答えは出ていた。出ていたが、私はまだ出し終えていなかった。
その間に、用紙のほうが先に動いた。
私は残りを片づけて、いつもより一時間早く出た。家に着くと、台所に明かりがついていた。
知らない人が、椅子に座っていた。うちの椅子だ。膝に直美がいて、こちらを向いて眠っていた。
その人の足元に、もう一人いた。直美より少し大きい子で、床に座って何か並べていた。
そこで、分かった。
この人は、毎日あそこへ行っている。朝も、夕方も。自分の子を出して、自分の子を迎える。私が四年通っている同じ建物の、同じ時刻に、この人もいた。
だから来られた。呼ばれて出てきたのではない。もともとその時刻に、そこへ行く人だった。
私は四年、同じ廊下に立っていた。並んで待ったこともあるだろう。顔は見ているはずだ。
見ていて、覚えていなかった。
礼を言った。その人は、寝ましたよ、とだけ言った。それから、抱いていた子をこちらへ渡した。
眠っている子は重い。
四年前の春に、私は同じことを逆にやっている。預ける先の部屋の入口で、腕から腕へ移した。
今度は、こちらへ移ってきた。移ってきても、私は何も上手くならない。
それから、その人は自分の子を立たせて、帰り支度をした。何をどうしたかの説明はしなかった。訊けば言っただろうが、私は訊かなかった。
名前は知っている。用紙で見ている。この日まで、その名前と、この人が、繋がっていなかっただけだ。
絵美が戻ったのは二日あとだった。礼は言っておきました、と私が言うと、そうですか、と彼女は言った。
それだけだった。
私はその夜、控えの束を出した。その日のことは、どこにも入らなかった。日付はある。窓口も、あると言えばある。だが、言われたことの欄に入るのは、寝ましたよ、の五文字だけだった。それを書くくらいなら、書かないほうがましだった。
束に戻して、引き出しを閉めた。
その年の秋に、アブディから電話があった。
飯だ、と言った。行くか、ではない。十五年前と同じだった。
行った。
最後に食ったのは二〇〇九年だ。あいだに、留守番の電話に一度入っていた。かけ直すつもりでいて、かけ直さなかった。子が生まれた年にも、番号を出して、かけなかった。
私は数えていた。五年か、六年になる。
彼は数えていなかったと思う。何も訊かれなかったからだ。
どこにいた、とも、なぜ黙っていた、とも言われなかった。座って、頼んで、食った。
子はいるのか、と訊かれた。四つになりました、と答えた。彼は、そうか、と言った。
こちらからも訊いた。向こうも短く答えた。実家の話を少しした。車で二十分のところに、まだあるのだという。
私はうなずいた。その話に返すものを、私は持っていない。持っていないことを、彼は十五年前から知っている。
二時間ほどいて、別れた。
帰りの車で、私は一つだけ確かめた。あの席には、紙が一枚も無かった。日付も、期限も、次に出すものも無い。無いまま、十五年続いている。
続いているのに、五年空いた。
空いたことに、私は五年のあいだ気づいていなかった。気づかせるものが、何も無かったからだ。
二〇一五年の夏に、私は用紙をまた書いた。秋から通う学校のものだ。書くところは、前のものとよく似ていた。生まれた日。かかりつけ。飲めないもの。触れて赤くなるもの。
迎えに来てよい人の欄が、また二つあった。
絵美が二つ埋めた。片方は去年うちの台所にいた人で、もう片方は私の知らない名前だった。
私の側は、また空いたままにした。
書ける名前はある。秋に飯を食った相手だ。番号も控えてある。
書かなかった。書かなかった理由を、私はその場でも考えなかった。
八月の終わりに、通いはじめる前の何日かがあった。預ける先はもう終わっていて、学校はまだ始まっていない。絵美が休みを取って、私も何日か家にいた。八月なので、それはできた。
その何日かのある日、台所で、直美が私を呼んだ。
お父さん、と言った。
私は返事をして、それから、いま何と言ったかを考えた。
喋りはじめはダダで、それからはダディーだった。どちらも向こうの言葉で、私はそれを何とも思っていなかった。
お父さん、は五つの音がある。一つも落ちない。
どこで覚えたのかは訊かなかった。家の中にはその言い方があるので、拾うところはいくらでもある。いつから使うことにしたのかも、たぶん本人が決めたわけではない。
その日から、この子は私をそう呼ぶようになった。
この子の写真なら、何百枚もある。どれにも日付が付いている。付けたのは私ではない。
紙になっているものもある。預ける先には、一年に一度、写真の日がある。人を呼んで、順に撮る。日にちは先に知らされるので、その日はいつもより良い服を着せて出す。
しばらくして、印刷されたものが預ける先に届く。頼んでいない。撮った分が、そのまま来る。迎えに行った日に、名前を言うと、先に出てきた。子より先に紙が出る。順番はそうなっている。
持って帰って、家で選ぶ。残すものを決めて、その分だけ払う。払うのは画面の上で、相手はいない。窓口も、話した人の役職も無い。残さないものは、袋に戻して返す。
この順番を、私は初めの年に二度読んだ。読み違えたのだと思ったからだ。読み違えてはいなかった。
この国で私が通ってきたものは、全部、出してから来る。出して、待って、下りる。下りなければ、来ない。これは、先に来る。手に持ってから、どれを残すかを決めて、残りを返す。
返す分を袋に戻した。同じ日に、同じ布の前で、同じ子を撮ったものだ。残す分との違いは、目の開き方くらいしかない。
それでも決めた。決めなければ、全部払うことになる。
五年ぶんが並んでいる。並べても、背が伸びたことしか分からない。
そのどれも、私が選んで残したものではない。私が決めたのは、返すほうだった。
その日のことは、そのどこにも入らない。台所で呼ばれただけで、撮るところが無かった。
だから、私はその日を書いた。
控えの束ではない。別の紙に、日付だけ書いた。窓口も、役職も、言われたことも書かなかった。書くところが無い。
この国へ来て十六年になる。家のことを紙に書いたのは、それが初めてだった。
この話に出てくる写真の日について、少しだけ補足します。
預ける先や学校が業者を入れて、子どもたちを順に撮る日です。日にちは先に知らされます。撮ったものは印刷されて、預ける先のほうへ届きます。親は迎えのときにそれを受け取って持ち帰り、残すものを選んで払い、残りを返します。頼む前に物のほうが先に来る、という順番です。
いまは、費用と資源を抑えるために、先に画面で写真を見て、そこから注文する形が多くなりました。ただし、これは撮影を請け負う会社によります。会社ごとにやり方が違うので、いまでも印刷されたものが先に届くところもあります。
ここに書いたのは二〇一〇年代の初めごろの話です。やり方はその後も変わっています。
この作品はフィクションです。制度や手続きについては、その当時のものをできるだけ正確に書くようにしていますが、筆者は弁護士でも、移民法の専門家でもありません。制度は年によって変わりますし、同じ制度でも、一人ひとりの事情によって扱いが変わります。ここに書いたことを、ご自身の手続きの判断に使わないでください。実際に手続きが必要な方は、移民弁護士(在留資格の手続きを専門とする弁護士)など、資格のある方に必ずご相談ください。これらの記述について、筆者は責任を負うことができません。




