二十六話 聞き返さない人
二〇一二年に、直美が喋るようになった。
初めは一つずつだった。そのうち二つ繋がって、夏には短い文になった。
絵美はその年、月のうち何日かこの街にいない。前の年に受けた持ち場がそうなっている。いない晩は、私と直美の二人になった。
二人の晩は、静かではなかった。
喋る相手が私しかいなければ、この子は私に喋る。
二年前の冬、私は返ってこないと分かっている相手に長く話していた。今度は返ってくる。
外は寒いのか、と訊かれた。寒い、と答えた。どれくらい、と訊かれた。
私は数を言った。氷点下二十度という数だ。二歳に言っても仕方がないと思いながら、それしか持っていないので言った。
この子は、さむいね、と言った。数のほうは通っていない。寒いということだけが通って、それで足りていた。
その晩の順番は決まっている。迎えに行って、帰って、食べさせて、風呂に入れて、寝かせる。決めたのは私ではない。預ける先でその日どう過ごしたかに合わせていくと、自然にそうなる。
順番が決まっていると、私は落ち着く。落ち着いた分で、喋る。
喋りはじめてすぐ、一つの形が見えた。家で使う言葉と、預ける先で使う言葉が、別だった。
どちらも使う。混ぜない。
迎えに行くと、部屋の入口でこの子は抱いていた人に何か言う。向こうの言葉だ。短い。相手が返す。それも短い。それから私のほうを向いて、こちらの言葉になる。
切り替わるところに、間が無かった。
一度、間を探して見ていたことがある。息を継ぐところか、目を伏せるところか、どこかに継ぎ目があるはずだと思った。
無かった。
私はそれができたことがない。
この国へ来た年、私は日本語で考え、この国の言葉に直してから口に出していた。直すのに時間がかかった。
時間がかかると、話のほうが先へ行く。行ってしまうと、直したものを出す場所が無くなる。
もっとも、あの教室で入れなかったのは、直すのが遅かったからではない。あの部屋には、日本語なら一拍置く長さが無かった。言うことは持っていて、置く場所が無かった。
何年かで、直す時間は短くなった。無くなってはいない。疲れている日には、いまでも戻る。
二歳の子には、直すところが無かった。
二つ持っている、というのとも違う。部屋が二つあって、部屋ごとに口のほうが変わる。持ち替えているのではない。初めから二つある。その形を、私はしばらく面白がって見ていた。
聞き返すのは、私のほうだった。
二歳や三歳の喋ることは、半分ほどしか音にならない。私はよく聞き返した。この子はもう一度言った。二度目も同じ音のことがあって、そのときは三度目を言った。嫌がらなかった。嫌がられないというのが、私には新しかった。
二〇一三年になって、もう一つ分かった。
この子は、私に聞き返さない。
なに、とは訊く。それは意味のほうだ。もう一度、と言われたことは、一度も無い。
この国へ来て十四年になる。聞き返されなかった相手は、この子が初めてだった。
名乗れば聞き返される。それがこの国での私の音だった。加藤、と言って、もう一度、と返ってくる。返ってくるので、私は先に短いほうを言うようになった。
三歳の子には、そのどちらも起きない。
子どもだからだろうと思った。親の声は、子には初めから聞こえるようにできているのだろう、と。そう思って、私はそこで考えるのをやめた。
その年のどこかで、その日の紙が来なくなった。
小さい子の部屋を出たからだ。上の部屋では、一日の記録を渡さない。渡さなくても、本人が言うからだ。
いつ最後の一枚をもらったのかは、覚えていない。控えも取っていない。取るようなものだと思っていなかった。
あとで引き出しを見たら、初めのころの何枚かだけが入っていた。読まなくなってからのぶんは、一枚も無い。
秋から、この子は物の名を二つ言うようになった。台所で、棚のほうを指した。こちらの言い方で言って、それから、向こうの言い方でもう一度言った。同じものを、二つの音で。言い終えて、私の顔を見た。
どちらでもいい、という顔ではなかった。どちらを使うか、こちらに訊いている顔だった。
私はこちらのほうを言った。この子はうなずいて、そのあとはこちらのほうを使った。
あとで思い返して、順番が逆だと思った。
選んでいるのはこの子のほうだ。私は訊かれて答えただけで、訊いたのは向こうだった。三歳が、二つ持っているものの中から、相手ごとにどちらを出すかを決めている。
私が十四年かけてもできなかったことを、この子は毎日何十回もやっていた。しかも、やっていることに気づいていない。
絵美が戻った週に、その話をした。
二つ言います、と私は言った。指して、二回言って、こちらを見る、と。
いまは両方入ります、と彼女は言った。
それだけだった。彼女は決まっていることしか言わない。
この子が私を呼ぶ言い方は、その二年で二つ変わった。
初めはダダだった。音が二つしかない。喋りはじめの子が最初に出す音で、私を指して言っているのかどうかも、初めは分からなかった。こちらを見てから言うようになって、分かった。呼んでから見るのではない。見てから呼ぶ。誰に言うのかを決めてから口を開く子だった。
次にダディーになった。預ける先で覚えてきたのだと思う。あちらの部屋の言い方だ。
家の中の物を、この子はこちらの言い方で呼ぶ。棚も、水も、外も、混ぜない。
私だけが、向こうの言い方だった。
気にならなかった。呼ばれれば返事をしたし、返事をするときにその音のことを考えたことがない。
この国で、私の呼ばれ方は短くなった。加藤が聞き返されて、下の名前になった。十四年かけて、私は自分の音を削られてきた。削られる前に自分で削るようになったのは、そのほうが早いからだ。
ダダも短い。音は二つで、下の名前と変わらない。
同じ長さのものを、私は片方だけは嫌だと思わなかった。
冬に、この子が熱を出した。
私は数を持っている。四年前の秋に教わった数だ。生まれて何か月かのうちは、これを超えたらすぐに、と言われた。その月齢はとうに過ぎているが、私は数のほうを取ってある。
測った。超えていなかった。
超えていないので、かけなかった。夜中に何度か見に行った。眠っていた。起こさずに戻った。
戻ってから、あの晩のことを思い出した。教室で、線が全部数で引いてあるのを見た晩だ。値が線を越えたら手を挙げる、越えるまでは動かない、線を決めるのは私ではない。その形なら自分にも持てると思った。
持てた。四年使って、一度も超えていない。
超えていないのに、この子について私が持っているものの中でいちばん確かなのは、いまでもその線だった。
二〇一三年に何があったかを、私は仕事の側なら全部言える。控えが残っているからだ。日付も、窓口も、話した人の役職も、言われたことも入っている。
家の側にも、残ってはいる。写真だ。絵美のほうがよく撮る。私も撮る。何百枚あるかは、数えたことがない。
撮れば、日付が勝手に付く。書かなくても付く。付いているのに、私はそれを控えだと思ったことがない。控えは、要るときに開くものだ。写真を開く日は、来ない。
紙のほうは、毎週来る。
その日の紙が来なくなっても、あの入口から出てくるものが無くなったわけではない。迎えに行くと、その日に描いたものを持たされる。絵の具のもの。紙を貼ったもの。手の形を取ったもの。隅に名前が書いてある。書いたのは大人だ。
初めのうちは全部取っておいた。二年で、置く場所が無くなった。
それから、捨てるようになった。この子が寝てから、いくつか残して、あとは畳んで出す。
この国へ来てから、私は紙を捨てたことがない。使わずに終わった延長の書類まで、日付を書いて封筒に入れて、ほかの控えと同じところに置いてある。いちばん役に立たなかった紙が、いちばん厚い束の中にある。
捨てられるようになったのは、この子の描いたものが初めてだった。
どれを残すかを決める手が、私には無い。日付が無い。番号も無い。同じものが二枚あるのかどうかも、見て分からない。
残す分は、いつも、先に手が伸びたほうになった。
この家で私が決めているのは、捨てるほうだけだ。残ったほうは、決めた覚えがない。
この作品はフィクションです。制度や手続きについては、その当時のものをできるだけ正確に書くようにしていますが、筆者は弁護士でも、移民法の専門家でもありません。制度は年によって変わりますし、同じ制度でも、一人ひとりの事情によって扱いが変わります。ここに書いたことを、ご自身の手続きの判断に使わないでください。実際に手続きが必要な方は、移民弁護士(在留資格の手続きを専門とする弁護士)など、資格のある方に必ずご相談ください。これらの記述について、筆者は責任を負うことができません。




