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雪解けを待つ街で  作者: 一之瀬 樹
第六章 取っておくだけ
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二十三話 さかのぼる

 三か月だった。


 生まれた日を一日目として数える。一月の半ばに生まれたので、終わりは四月の半ばになる。こちらの締めの日と、ほとんど同じ日だった。


 私が暦から消える四か月の、いちばん深いところに落ちている。並べたときに、私は笑わなかった。笑うところではないと思った。


 やることは決まっていた。日本の役所の出先へ、出生の届を出す。そのとき、日本の国籍を留保するという意思表示を一緒にする。書式は取り寄せられる。書くことは分かる。証する紙も、その訳も、揃えられる。


 私はそれを二月のうちに揃えた。揃えてから、過ぎた場合のことを読んだ。


 読まなければよかったとは思わない。読まずに出すほうが、私にはできない。


 過ぎた場合、届は受け付けられない。天災など、届ける側にどうにもならない事情があったときだけが例外になる。忙しかったことは事情に入らない。そこまでは分かる。


 その次の行で、私は止まった。


 過ぎた場合、日本の国籍は、その日から失われるのではない。生まれた日にさかのぼって失われる。私は行を指で押さえて、もう一度読んだ。


 切れるのではない。無かったことになる。


 この国へ来て十年、私は日付を前へ向かって数えてきた。あと何日で切れる。それまでに何を出す。出せば次の日付が来る。切れれば、その日から先が無い。前は残る。私が持っていた一年も、二年も、三年も、どれも切れたあとに残った。残るから、次に繋げた。


 後ろへ走る期限を、私は数え方から知らなかった。


 その晩、私は紙を出して並べてみようとした。書き出せば手が付く。手が付けば数えられる。


 書き出せなかった。


 どこから引けばよいのかが分からない。三か月と一日目の朝に、あの子の一月からの三か月は、どこへ行くのか。生まれたことは残る。生まれた場所も残る。そこにあったはずのものだけが、初めから無かったことになる。私はしばらく、白い紙を見ていた。


 用紙には、留保するかどうかを書くところがある。書けば、あの子は二つの国籍を持つ。書かなければ、一つになる。


 書けばいいのだと、初めは思った。書かないという道は、私には無い。思ってから、もう一つ読んだ。


 二つ持った者は、いつかどちらかを選ぶことになっている。私が読んだ紙には、二十二になるまでに、と書いてあった。私が留保すると書けば、あの子にはその問いが来る。書かなければ、来ない。


 私は用紙をしばらく置いた。与えるのだと思っていた。二つ持たせるというのは、多いほうを渡すことだと思っていた。


 渡すのは選択肢ではない。渡すのは、いつか自分で決めなければならないという用件のほうだった。しかも決めるのは私で、負うのはあの子だ。あの子は生まれて一か月で、この話に一言も持っていない。


 夜中に、絵美が起きてきた。台所の明かりをつけて、こちらを見た。


 まだ出していないんですか、と訊かれた。


 出します、と私は答えた。それから、留保のところで詰まっている、と言った。書けば、あとであの子が選ばされる。書かなければ、選ばずに済む。私が決めることになる、と。


 彼女はしばらく黙っていた。


 取っておくだけです、と彼女は言った。


 使うかどうかは、あの子が決めます。


 それだけ言って、水を飲んで、戻った。


 私は用紙に、留保する、と書いた。


 書いてから、彼女の言い方の順を考えた。取っておくだけです、が先で、あの子が決めます、が後だった。逆ではない。取っておくのは私の仕事で、決めるのはあの子の仕事だ。二つは別のところにある。


 私はそれを、選ぶことだと思って抱え込んでいた。


 二月の終わりに、封筒を出した。窓口は別の州にある。この州を受け持っているのがそこで、行くとなれば車で何時間かかかる。往復で一日だ。


 期限が近い人は、郵送ではなく直接来るようにと書いてあった。私は近くなかった。まだ一か月半ある。


 控えを取って、日付を書いて、追える形で出した。


 五年前、私は同じことをしている。あのときの用紙は婚姻の届で、封をして送って、あちらの窓口に届いた日が婚姻の日になった。私のいない国で、会ったこともない人が判を押した日だ。今度も、効くのは向こうに届いた日のほうだ。


 届いたことは、追う紙で分かる。受け付けられたかどうかは、分からない。


 三月に入っても、何も来なかった。その四か月のただ中で、私は毎日机にいた。数字は合っていく。合わないものがあれば、どこで合わなくなるかを探して、直す。私はそれが上手い。上手いことを、その月は少しも役に立てられなかった。


 四月に入って、私は残りを数えた。半ばまで、あと十日ほどある。もし受け付けられていなければ、その十日で車を出すことになる。往復で一日、書式をもう一度揃えるのに一日。締めの週にそれをやる。


 やれないことはない。やるしかないなら、やる。


 電話をかけた。番号を伝えて、待った。処理をしています、と言われた。


 いつごろになりますか、と訊いた。


 順にやっています、と言われた。それだけだった。


 その返事に、私は文句をつけられなかった。私も同じことを客に言っていた。順にやっています、というのは嘘ではない。


 受話器を置いて、私は書き留めた。日付。窓口。話した人の役職。言われたこと。四つとも埋まった。


 埋まったところで、何も動いていない。


 四月の半ばに、締めが終わった。その週に、あちらから紙が来た。


 届は受け付けられていた。受け付けの日は、二月の終わりになっていた。私が封筒を出した日ではない。あちらに届いた日でもない。あちらが受け取って、それを受け付けた日だ。


 三つとも別の日で、私はそのうちの一つしか、自分で決められなかった。それでも、一日目から数えて三か月の内側にあった。


 私はその紙を、しばらく持っていた。この十年で受け取った紙のうち、いちばん短いものだった。書いてあるのは、受け付けたということだけだ。何が守られたかは書いていない。守られなかった場合にどうなるかも、もちろん書いていない。


 書いていないものが、この紙のほとんど全部だった。


 控えを取って、封筒に入れた。日付は書けた。窓口も、書こうと思えば書けた。


 その封筒に、私はもう一つ書いた。あの子が二十二になる年だ。いま数えて意味のある日ではない。二十年以上先の話で、そのころ私が何を思っているかも分からない。


 それでも、書いておかないと落ち着かなかった。


 落ち着かないというのは、たぶん、そのころにはもう私の番ではないからだ。

 この話の手続きについて、少しだけ補足します。


 この決まりが掛かるのは、外の国で生まれて、その国の国籍も持つ子です。


 あとから取り戻す道もありますが、二十歳より前に、日本に住んで暮らすようになった場合に限られます。


 ここに書いたのは二〇一〇年ごろの話です。制度はその後も変わっています。


 この作品はフィクションです。制度や手続きについては、その当時のものをできるだけ正確に書くようにしていますが、筆者は弁護士でも、移民法の専門家でもありません。制度は年によって変わりますし、同じ制度でも、一人ひとりの事情によって扱いが変わります。ここに書いたことを、ご自身の手続きの判断に使わないでください。実際に手続きが必要な方は、移民弁護士(在留資格の手続きを専門とする弁護士)など、資格のある方に必ずご相談ください。これらの記述について、筆者は責任を負うことができません。

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