二十二話 二日
一月の半ばに、直美が生まれた。
その年の四か月は、もう始まっていた。
夜のうちに、痛みの間隔を計った。教わった数になって、教わった番号にかけた。来てください、と言われた。夜の入口から入った。
そこまでは、教わったとおりだった。
生まれるまでのあいだ、私にできることは何も無かった。何がどの順で来るかは分かっていた。分かったところで、私のすることは無かった。人が動いていて、私は椅子にいた。呼ばれれば立ち、下がってくださいと言われれば下がった。
時計を見た。何度も見た。見ても進みは変わらない。目安の表を毎月開いていたときと同じだった。
この国へ来てから、私は分からないものを調べて片づけてきた。調べれば手が付く。手が付けば数えられる。数えられれば、待つのが少し短くなる。
その日、調べたぶんが効いたのは、着くまでだった。
病院で、私は数えていた。数えられるものが順に出てくる。体重。身長。生まれた時刻。看護の人がそれを読み上げて、紙に書いた。書かれるのを見て、私は初めて息をついた。
息をついてから、自分が何に安心したのかが分かった。数字が出たからではない。書かれたからだ。
絵美は目を閉じていた。私は椅子に座って、書かれた紙のほうを見ていた。抱いてみますか、と言われるまで、そうしていた。
絵美が目を開けて、紙を見ていますね、と言った。
見ています、と私は答えた。それだけで、彼女はまた目を閉じた。
名前は先に決めてあった。こちらの紙に書く綴りを訊かれた。訊かれる前に決めてある。日本の字も決めてある。どちらの国の紙に置いても、同じ音で読める名前にした。
理由は、そのとき口に出さなかった。
その晩、私は椅子で寝た。寝たと言えるほどには寝ていない。三時間おきに人が来て、明かりがつく。明かりがつくたびに、私は時刻を見て、覚えた。覚えたところで、書き留める用の紙は無かった。
二日のあいだに、いくつか教わった。抱き方。飲ませ方。げっぷの出させ方。へその乾かし方。どれも、来た人が一度やって見せて、こちらに一度やらせて、それで終わりだった。
できましたね、と言われた。できてはいなかったと思う。
一度やって見せてもらったものを、その晩から毎日やることになる。秋の教室は、飲ませる量も、呼ぶところの熱も、数で教えてくれた。手のほうは教えていない。数で書けないからだ。私が読んできた紙も、そういう種類のものではなかった。紙は何度でも開ける。人は一度しか見せない。
二日目の昼に、帰ってよいと言われた。
私は聞き返した。
この国へ来た年、私は日に何度も聞き返していた。速いのと、訛りが一人ずつ違うのとで、半分も聞き取れなかった。何年かたって、聞き返すことは減った。減ってからは、ほとんどしていない。
その日の私は、言葉が聞き取れなかったのではない。聞き取れたうえで、もう一度言ってもらった。
同じことだった。今日の午後に帰れます、と言われた。
日本では五日ほど置くのだと、あとで絵美が言った。私はそれを知らなかった。知っていたところで、こちらの日数が変わるわけでもない。
下限が決めてあるのは、入院の日数ではない。保険が持つ分のほうだった。二日ぶんまでは持つ、と決まっている。それより長くは、要ると認められたときだけだ。要ると決めるのは、こちらではない。
持つと決まっている分が、そのまま日数になっていた。
書類が出た。私は数えた。生まれたことを証する紙の申請。名前と生まれた時刻の控え。予防の記録。次にいつ見せに来るかの案内。退院のときに渡される束が一つ。
この国で私が受け取ってきた紙は、どれも私についてのものだった。学校のもの、勤め先のもの、在留のもの。名前の欄には私の名前が入っていて、期限の欄には私の期限が入っていた。
その束には、私の名前がどこにも無かった。
親の欄にはある。だが親の欄というのは、その人が誰かを言うための欄ではない。
束の中に、日本の側の話は入っていない。入るはずもない。三か月のうちに出すものがあることは、前の年から知っていた。日付は、生まれた日に決まる。
その日を、私は封筒に書いた。
車に付ける器具は、十一月に買って、一度付けて、一度外して、もう一度付けてあった。付け方を書いた紙も読んである。病院の人が、外まで来て、それを確かめた。金具の位置を見て、帯の締まりを見て、いいですよ、と言った。
二十秒だった。
私は十一月からその二十秒のために用意していたことになる。用意しすぎだったとは思わない。私はいつもそうやってきたし、そうやってきたから、いまここにいる。
ただ、確かめられたのは器具のほうだった。
私は三日休んだ。
絵美は十二週だった。
家に着いて、部屋に入って、私は上着を脱がずに立っていた。置くところは決めてある。買うものは全部買ってある。紙も揃っている。揃っているのに、次に何をするのかが分からなかった。
この国へ来てから、私はいつも次の日付を持っていた。切れる日があって、その前に出すものがあって、出せば次の日付が来る。持っていない日は一日も無かった。
腕の中にあるものには、日付が無い。
私はしばらく、そのまま立っていた。絵美が座って、こちらを見ていた。座ってください、と言われた。私は座った。
日本へは、絵美が知らせた。何と書いたかは訊いていない。
私のほうは、知らせる先が無かった。
考えれば、一人はいる。年に一度か二度、飯を食う相手だ。番号は出した。かけなかった。忙しい時期だった、と言えば理由になる。
四日目の朝に、私は出勤した。机に着いて、締めの数字を開いた。開いた瞬間に、そちらの側の頭に戻った。戻れることが、少し怖かった。
費用の話は、あとから来た。病院からの紙は一度に来ない。何週間かに分けて、別々の差出人から来る。産んだところ、見た人、使った物、それぞれが別に数えて、別に送ってくる。
保険が持つ分と、こちらが持つ分が、同じ紙の上で二段になっている。私はそれを並べて足した。足せば出る。出た額は、覚悟していたよりは低く、思っていたよりは高かった。
夜に帰って、部屋の電気を落としてから、名前を呼んでみた。
返事は無い。当たり前だ。
この国で人に名前を呼ばれるたび、私は短いほうに切られてきた。名乗れば聞き返され、下の名前になる。あの日から十年、私は自分で先に短いほうを言うようになった。
この子の名前は、どちらの国でも切らなくていい。
それだけは、私が先に決めておけた。
決めておけたのは、それだけだった。
この話の背景について、少しだけ補足します。
この国では、産んだあとの入院が短く、母子ともに何も無ければ二日ほどで帰されます。日本の五日前後とは前提がちがいます。
下限を定めているのは、入院そのものではなく、保険が持つ分のほうです。一九九六年の法で、お産を対象にしている保険は、ふつうのお産なら二日、帝王切開なら四日、そこまでは持たなければならないと決まりました。早く帰るように仕向けることも、あわせて禁じられています。産んだ本人と診ている人が話したうえで早く帰ると決めた場合だけは、それより短くできます。長いほうに下限のような決まりはなく、要ると認められた分だけです。
子が生まれたときの休みは、勤めた長さで分かれます。同じ勤め先に一年以上いれば十二週まで休めて、そのあいだ職は無くなりません。一年に足りない人は、その決まりの外にいます。
ここに書いたのは二〇一〇年ごろの話です。制度はその後も変わっています。
この作品はフィクションです。制度や手続きについては、その当時のものをできるだけ正確に書くようにしていますが、筆者は弁護士でも、移民法の専門家でもありません。制度は年によって変わりますし、同じ制度でも、一人ひとりの事情によって扱いが変わります。ここに書いたことを、ご自身の手続きの判断に使わないでください。実際に手続きが必要な方は、移民弁護士(在留資格の手続きを専門とする弁護士)など、資格のある方に必ずご相談ください。これらの記述について、筆者は責任を負うことができません。




