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雪解けを待つ街で  作者: 一之瀬 樹
第五章 勝ち取ったつもりで
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十六話 配偶者の欄

 四月の半ばに、三度目の繁忙期が終わった。決算と申告が重なる一月から四月半ばまでの、この商売でいちばん人の要る時期のことだ。


 終わった週に、私は所長に頼んだ。永住権を出してもらえませんか、と言った。期限の無い在留の資格のことだ。これがあれば、勤め先が変わっても、職が無くなっても、この国にいてよい。


 言うまでに一週間かかった。文にして、頭の中で三度通してから行った。行って、二十秒で済んだ。


 所長は、いいよ、と言った。それから、うちは弁護士を抱えていないから、と言った。


 紙を出すのは会社で、探して払うのは私だった。


 二十秒のために、私は三つ用意していた。事務所の側に金がかからないこと。繁忙期に手が要ること。三年で切れる紙のままだと、切れたあとに私を置いておけないこと。どれも使わなかった。


 頼む前にいちばん時間がかかるのは、頼み方のほうだ。頼んだあとは、たいてい短い。


 二十五のときの私なら、そこで詰まっている。弁護士を知らないからではない。誰に訊けばいいのかを知らないからだ。三年前、私はこの国の人がどこで知り合っているかを紙に書き出して、自分に一つも無いことを確かめている。教会。子どもの学校の親どうし。前の勤め先。同じ国から来た者の集まり。同窓の会。


 今度は、訊く先があった。


 一緒に仕事をしたことのある人が何人かいる。よその事務所の人、客の側にいた人。そのうちの二人に訊いて、同じ名前が出た。移民弁護士――在留資格の手続きを専門にする弁護士だ――で、この街で長くやっているのだという。


 私は電話をかけた。かけるのは、私にもできる。


 変わったのは私ではない。持っている数のほうだ。


 五月に、弁護士に会った。


 二人分です、と私は言った。妻も同じようにしたい、と。


 弁護士は、奥さんの勤め先は出さないんですか、と訊いた。


 絵美はもう訊いていた。訊いたのは去年の暮れだという。答えは、出しません、だった。理由は言われなかった。理由の要る話ではない、というのが理由だったのだと思う。米国の側を広げる気が無いのだから、人を一人この国に永住させるために金と手間をかける筋がない。


 なぜ言わなかったのか、とは訊かなかった。訊いたところで、私に出せるものではなかった。


 あとで一度だけ、その話になった。決まっていないことは言いません、と彼女は言った。訊けば出しますか、という問いに、出しません、と返ってきた。それで決まりだから、言うことがもう無い。


 決まったことだけを短く言う。私はその形を、去年の暮れから半年遅れて知ったことになる。


 残る道は一つになった。


 私の申請に、配偶者として乗る。弁護士は、それが普通です、と言った。普通だった。


 その夜、私はその形を紙に書いてみた。


 彼女はエルワンで来ている。会社が自分のところの人を、外の国の拠点へ送るときの資格だ。彼女自身の資格で、彼女はそれで働いている。給料は彼女に出ている。売っているのも彼女だ。


 その彼女が、この国に居続けてよい理由として書けるのは、私の妻である、ということだけだった。


 何を売ったかは要らない。どこに勤めているかも、その紙には要らない。


 欄がそうなっている。


 六月に、日本から電話があった。彼女は台所で受けて、短く答えて、切った。何の話かは訊かなかった。


 切ってから、彼女が言った。親の面倒の話です、と。あなたが見るものでしょう、と言われるのだという。


 昔からそうなのだ、と彼女は言った。子どものころからずっと、一つで通った。進路も、金も、部屋も、順番も。


 あなたはお姉ちゃんだから、妹に譲りなさい。


 母がそう言うのだ、と彼女は言った。理由を作らなくていいんです、と。一つ言えば済むので。


 配偶者だから、と私は思った。


 どちらも彼女が何をできるかを一度も見ていない。前のは家が言い、今度のは決まりが言う。彼女が逃げてきた形と同じ形が、今度は法律の側から来ていた。


 私はそれを口に出さなかった。口に出せば、私が見つけた図になる。彼女はとうに知っている。


 夏に、事務所が募集を出した。私の職の募集だった。


 労働証明という。この国にその職に就ける人がいないことを、会社が確かめて示す手続きのことだ。州の窓口に求人を出し、日曜の新聞に二回、別々の週で載せる。学位の要る職なら、さらに三つ、別の方法でも募る。そのうえで三十日、黙って待つ。最後の一人まで受け切るためだ。


 新聞は事務所に届く。私はそれを開いて、自分の職を読んだ。


 仕事の中身が箇条で並んでいて、要る学位が書いてあって、応募の宛先が事務所になっていた。私が毎日座っている机のことだった。書いたのは弁護士で、確かめたのは所長で、金を出したのは私だ。


 読みながら、私は当てはまるかどうかを自分で確かめていた。確かめる必要は無い。私はもうその席に座っている。


 応募が来た。何人かは、私より若かった。


 落とすのは事務所で、落とした理由を一人ずつ書き残すのも事務所だった。私はその紙を見ていない。見ないほうがいいと弁護士が言った。


 これは、私がその職に向いていることを示す手続きではない。


 二年から三年、と図書館の本には書いてあった。


 四月に頼んで、夏に募集を出して、秋にその一つが通った。ここまでで半年だ。残りが一年半なのか二年半なのかは、誰も言わない。


 言えないのだと弁護士は言った。前の年に出した人がどれだけかかったかは分かる。それが次の年に当てはまるかは分からない。


 私は数えられないものを数えようとして、やめた。やめたと言っても、月に一度は数える。


 その年に私が触れた紙は、二種類だった。


 一つは、私の職を、私の名前を出さずに書いたものだ。要る学位と、要る年数と、できなければならないことが並んでいて、それに当てはまる者がこの国に一人もいないことを、事務所が三十日かけて確かめた。人の書いていない私だった。


 もう一つは、彼女を、彼女の職を出さずに書いたものだ。生まれた日と、生まれた国と、私との続柄。売った額も、勤め先の名も、そこには要らない。仕事の書いていない彼女だった。


 二つを並べて、引き出しに入れた。


 どちらも、通るはずの紙だった。

 この話の手続きについて、少しだけ補足します。


 会社の中の転勤で来た人が、そのまま永住できるわけではありません。永住のための申請は勤め先が改めて出すもので、出す義務はありません。断られれば、その人の側にできることはほとんど残りません。


 ここに書いたのは二〇〇六年ごろの話です。制度はその後も変わっています。


 この作品はフィクションです。制度や手続きについては、その当時のものをできるだけ正確に書くようにしていますが、筆者は弁護士でも、移民法の専門家でもありません。制度は年によって変わりますし、同じ制度でも、一人ひとりの事情によって扱いが変わります。ここに書いたことを、ご自身の手続きの判断に使わないでください。実際に手続きが必要な方は、移民弁護士(在留資格の手続きを専門とする弁護士)など、資格のある方に必ずご相談ください。これらの記述について、筆者は責任を負うことができません。

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