十三話 一時間
十月の半ばに、あの会社の書類がまた私の机に載った。
誰も何も言わなかった。所長が黙って置いていっただけだ。私が三か月半いなかったあいだ、誰かがあれを見ていたはずだが、その人も何も言わなかった。並べ直された紙を見れば、どこまで進んでいるかは分かる。分かるように作ってから、私は出ていったのだった。
十一月に、日本から人が来た。
同じ人だった。田村です、と彼女はまた言った。前に会っていることは、こちらもむこうも知っている。それでも名乗る人だった。
その日は書式の話をした。年に一度だけ合わなくなる何件かを、次からはどう扱うかを決める。私は前に作った紙を出して、続きから始めた。彼女は要る欄と要らない欄をまた一つずつ指した。前と同じ速さだった。
終わってから、彼女が紙を揃えはじめた。夏はどうしていたんですか、と訊かれた。
日本にいました、と私は答えた。彼女は手を止めた。
言ってくれればよかったのに、と彼女は言った。
それだけだった。責めている言い方ではない。ほんとうに、そう思っただけの声だった。
私は何か言おうとした。言うことが無かった。
六週間いた。することは無かった。宿を取って、面接の日を待って、昼に人の少ない道を歩いた。あのあいだ、私は誰にも連絡していない。連絡する相手がいなかったからだと、そのときは思っていた。だが一人だけ、番号を持っている相手がいた。仕事で渡された番号だ。私はそれを一度も使わなかった。
使わなかった理由は、はっきりしている。用が無かったからではない。用が無ければかけてはいけない、と私が決めていたからだ。
いま日本にいます、と言えば、それは用ではない。ただの報告でもない。会えませんか、と言っているのと同じになる。相手が訊いていないことを、自分から言うことになる。
私はそれを、一度もやらずに生きてきた。
訊かれれば答える。だから、いま答えている。訊かれるまで、私は答えなかった。
彼女は鞄から紙を出して、何かを書いた。こちらの番号です、と彼女は言った。会社のではないほうです。
私はそれを受け取った。前に自分の番号を書いて渡したことがある。書きながら手が止まりそうになったのを覚えている。今度は向こうが書いた。書くほうと受け取るほうでは、どちらが軽いかは決まっていない。だが少なくとも、受け取るのは私にもできた。
最初にかけたのは、その次の週だった。時差は十五時間ある。日本のほうが先を歩いていて、こちらの夜がむこうの昼になる。夏のあいだは十四時間だ。こちらが時計を一時間進めているからで、日本にはその仕組みが無い。十月の終わりに戻すので、十一月からは十五時間になる。
私はそれを紙に書いて確かめた。書かなくても分かる計算だが、書いた。書いてあれば、間違えたときにどこで間違えたかが分かる。
こちらの夜の十時が、むこうの昼の一時だった。
国をまたぐ電話は高かった。移民の多い界隈の店で、決まった分だけ話せる番号を売っている。かける前にその番号を押す。分数を使い切れば、途中でも切れる。私はいちばん短いのを買った。籠と同じで、底のあるほうが私には向いていた。
話したのは、初めのうちは仕事の話だった。書式の話。次の締めの話。向こうの親会社が何を見て、何を見ないかの話。私は本題を避けるとき、手続きと数字の話をする癖がある。三十分ほど喋ってから、彼女も同じことをしているのだと分かった。段取りの話をしているあいだは、二人とも何も言わなくて済む。
仕事の話から離れたのがいつだったかは、はっきりしない。ある晩、彼女がこちらの冬のことを訊いた。どのくらい寒いんですか、と。
私はそれなら話せた。
一月と二月は氷点下二十度になる日がある。寒い、より先に、ほっぺが痛い、が来る。鼻毛が凍る。十一月の半ばに降った雪はそのまま消えず、地面の色が見えるようになるのは三月の終わりだ。上着は襟の高いものを買ったほうがいい。手袋と帽子は別に要る。買うなら十月のうちに買っておく。十一月に入ってから買いに行くと、棚の前で急ぐことになる。
そこまで喋って、私は口を閉じた。この国へ来てから、こんなに続けて喋ったことは無い。
この街に着いた年、私は同じことを人に言われた側だった。それはまだ冬ではない、一月はこんなものじゃない、と教えられた。教えられたときの私は、日本から持ってきた薄い上着を着ていた。
この国で私が人に教えられることは、いまのところ二つしかない。球の打ち方と、この街の冬だ。どちらも、金を出して身につけたものではない。
十二月に、時間が足りなくなった。番号を使い切って、途中で切れた。かけ直せば話は続くのだが、私はかけ直さなかった。切れたところで終わりにするほうが、決まりがあるように思えたからだ。翌週、彼女が先にかけてきた。
一月から、私はいなくなった。
繁忙期に入ると、事務所の人間は暦から消える。朝の暗いうちに入って、暗くなってから出る。土曜も出る。かけられる時刻に、私は机にいた。むこうの昼は、こちらの夜の十時だ。十時に私は事務所にいた。
忙しいので、と私は言った。二度言って、三度目からは言わなくなった。忙しいというのは、こちらの都合で伸び縮みするもののように聞こえる。そうではなかった。一月から四月の半ばまでというのは、この土地の雪と同じで、私が何をしても動かない。
毎年これが来ます、と私は電話で言った。来年も、そのあとも、同じ四か月が来ます。
彼女は少し黙ってから、分かりました、と言った。
その黙っていた分を、私はあとで何度か思い出した。長くはない。二秒か、三秒だ。だが私はそのあいだに、言い方を間違えたと思った。毎年これが来ますというのは、こちらの事情を先に置いて、相手に引き受けるかどうかを決めさせる言い方だ。私は自分の側の条件を並べただけで、こちらから差し出せるものを一つも言っていない。
言えるものが無かった、というほうが正しい。
分かりました、というのは、いいですよ、ではない。私はそれを聞き分けられるほうの人間ではなかったが、そのときは分かった。
四月の半ばに、繁忙期が終わった。
外に出ると、雪はとうに消えていた。車の通るところが先に出て、次が人の歩くところで、際に寄せられた分が最後まで残る。その最後の分も無くなっていた。私は四か月、地面がどうなっていくのかを見ていなかった。
その月の初めに、時計が一時間進んでいた。
こちらが進めた分だけ、時差が縮む。十五時間が十四時間になる。日本が近づいたわけではない。動いたのはこちらで、日本は何もしていない。
それでも、こちらの夜の十時が、むこうの昼の正午になった。
その一時間を、私は数えた。この国へ来てから私が数えてきたものは、どれも減っていく数だった。紙に印字された長さ、残りの月、使える分数。増えたのはこれが初めてだった。
一時間ぶん、私は人に何かを渡せる側に回ったことになる。四か月消えたあとで、私が持っていたのはそれだけだった。
この話の時差について、少しだけ補足します。
米国が夏に時計を進める期間は、当時は四月の第一日曜から十月の最終日曜まででした。三月から十一月までという今のやり方に変わるのは、二〇〇七年からです。
当時、携帯電話で国外へかけ放題という契約は、まだ普通ではありませんでした。
ここに書いたのは二〇〇四年から二〇〇五年ごろの話です。




