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雪解けを待つ街で  作者: 一之瀬 樹
第四章 順番
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十二話 二つの暦

 繁忙期が終わったのは、四月の半ばだった。


 事務所に入って四か月目だった。


 私が働いてよいのは、まだ学校を出た者に出る許可のほうだった。残りは六月までしかない。次の資格の書類は、四月の初めに事務所が出したところだ。通るかどうかも、通ったとしていつから働けるのかも、その時点では分かっていなかった。


 一月から四月の半ばまでを、この商売では繁忙期という。決算と申告が重なって、人がいちばん要る時期のことだ。私はその四か月を、机から離れずに過ごした。朝の暗いうちに入って、暗くなってから出た。外の色が変わっていくのを、窓のある側に座っている人の背中越しに見た。


 繁忙期のあいだ、そのことは考えなかった。考える時間が無かったというより、考えても動かせるものが一つも無かった。


 終わった週から、事務所の音が変わった。電話が減った。人が昼に外へ出るようになった。


 所長が私を呼んだのは、その次の週だった。


 日本の会社の仕事があるという。


 その会社は日本にあって、こちらに小さな拠点を置いている。売る先がこの街にあるからだ。大きな会社の本社がいくつも集まっている土地なので、そこへ物を納める会社は、近くに人を置くことになる。拠点にいるのは四人ほどだと聞いた。


 帳簿の暦が二つあった。こちらの拠点は十二月で締める。日本の親のほうは三月で締める。ずれていてよいことになっている。小さな拠点に、親と同じ速さで締めるだけの人手が無いからだ。だから十二月で閉じた数字を、三月に間に合う形に入れ直して送る。書式は向こうが決める。期限も向こうが決める。動かない。


 一つの会社に、暦が二つあった。


 所長はその仕事を、日本語ができるだろう、と言って私に渡した。


 日本にいたころ、私は練習場の控室で冊子を読んでいるところを見られて、外から来た客の前に出されたことがある。英語ができるのだろうと当てられたのだった。今度は日本語で、当て方は同じだった。私が会計をどれだけできるかは、どちらのときも量られていない。


 断る理由は無かった。断れる立場でもなかった。


 数字は合わなかった。


 こちらで閉じた売上と、向こうが持っている売上が、いくつかの行で食い違っていた。私は並べ直して、どこで合わなくなるのかを探した。三月をまたぐあたりの何件かで、片方に立っていて、片方に立っていない。額は大きくない。だが合わないものは合わない。


 どこで合わなくなったかは分かった。なぜそうなったかは分からなかった。


 紙の上に残っているのは日付と額だけで、その日に何が起きたかは書いていない。出したのか、届いたのか、相手が中を調べたのか。どれを売上の立った日として数えたかで、期をまたぐ分がずれる。それを知っているのは、帳簿ではなく、売った人間のほうだった。


 五月に、日本から人が来ると聞いた。


 その担当の者をよこす、と向こうから連絡があったのだという。私は少し驚いた。同じところに行き着いた人が、向こうにもいたらしい。所長は、売った人が来るならそのほうが早い、と言った。


 打ち合わせは事務所でやった。奥に一つだけ、扉のある部屋がある。机が長くて、椅子が六つある部屋だ。ふだんは誰も使わない。


 田村です、とその人は言った。


 名字だった。


 加藤です、と私は言った。


 この国で名字を名乗ったのは、着いて四日目の一度きりだ。名乗って、聞き返されて、下の名前になった。一度そうなってからは、自分のほうから短いほうを先に言うようになった。そのほうが誰も止まらない。日本語の席では、短くする必要が無かった。あの日以来だった。


 彼女は書類を出して、私の並べた紙と突き合わせはじめた。


 日本語で話していると、体のほうが先に日本のやり方に戻る。私の椅子は、いつのまにか少し斜めになっていた。直さなかった。直せば、直したことのほうが目につく。


 彼女は顔を上げなかった。紙を見ていた。


 これは三月の頭に出ています、と彼女は言った。先方が受け取ったのは四月です。検収は五月に入ってからでした。


 それで、合わない理由が全部分かった。こちらの拠点は物を出した日で数えていて、日本の親は相手が調べた日で数えていた。ふだんは同じ月のうちに収まるので誰も気づかない。年に一度、締めの月をまたいだ何件かだけが、片方から抜ける。


 私はその何件かを並べて、どちらの数え方で書くのかを訊いた。彼女は、親のほうに合わせます、と言った。それだけだった。理由の説明も、こちらへの詫びもなかった。決める人が決めて、決まったことを短く言った。


 二時間ほどで終わった。


 終わってから、彼女が顔を上げた。加藤さんは、こちらは長いんですか、と訊かれた。


 五年目です、と私は答えた。


 訊かれたことに答えるのは、私にもできる。順番は向こうが作ってくれている。


 私は学生のときに一年だけ、と彼女は言った。別の州でした。一年で帰りました。一年で帰るものだと思っていたので。


 思っていた、と彼女は言った。いまもそう思っているかどうかは、言わなかった。私も訊かなかった。人の書類の中身を、私は見ていない。


 その週にもう一度、打ち合わせがあった。次の年からどういう形で数字を送るかを決める話で、実際に手を動かすのは私になるはずだった。彼女は書式の欄を一つずつ指して、これは要る、これは向こうが見ない、と言った。要らないものを要らないと言える人だった。


 六月の半ばに、私の許可が切れた。


 所長は担当を替えた。替えると言われて、はい、と答えた。それだけで済んだ。理由は所長が知っている。向こうの会社は知らない。私は言わない。この国では、自分の書類のことを人に言わない。言わないというより、言う場面が無い。


 あちらには私から言っておく、と所長は言った。何をどう言うのかは訊かなかった。訊いても、私に決められることではない。


 引き継ぎの紙を作った。どこで合わなくなるのか、どの行を見ればよいのか、次に見る人が読めるように書いた。書きながら、これは私がいちばんうまくできることだと思った。合わなくなった先を探して、紙に書く。それだけなら、誰にも劣らない。


 それを机に置いて、私はいなくなった。


 あの部屋のことを、あとになって何度か考えた。


 日本語で名字を名乗って、何も起きなかった。日本で私の名字を呼んだ人たちは、呼んだあとに必ず何かをした。目の置き場を変えるか、変えないように気をつけるか、どちらかだった。どちらも同じことだ。


 彼女は紙を見ていた。二時間、ほとんど顔を上げなかった。


 それは親切ではない。仕事だったというだけだ。


 だが私がこの国で見つけたもののうち、いちばん楽な席がそれだった。

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