十一話 三年
事務所は狭かった。机が八つあって、そのうち六つが埋まっていた。座っている人の半分は、この国の生まれではなかった。
みんな、短い名前を持っていた。もとの名前を切ったものか、近い音の別の名前を、呼ばれる用に自分で用意している。相手が言えるようになるまで待つ人はいない。待てば毎回そこで止まるからだ。
私も四年前に短くなった。名字を名乗って、聞き返されて、下の名前になった。一度そうなれば、次からは自分のほうから短いほうを言う。ケンです、と最初に言えば、誰も止まらない。
仕事は帳簿だった。会社から届いた数字を、決まった形に並べ直す。合っているか、合っていないかを見る。合っていなければ、どこで合わなくなったかを探す。学部の答案を見ていたのと、やることは変わらなかった。
周りの人間は、学部から会計をやってきていた。四年やって、その上に何年か積んである。私は経済のほうから入り直して、二年だ。同じ机に座っているが、下に敷いてあるものの厚みが違う。それは仕事の速さに出た。
誰も何も言わなかった。言われないほうが、こたえた。
それでも、私はその部屋にいるのが嫌ではなかった。
半分が外から来た人間で、名前は先に短くしておくもので、書類には期限があるものだった。そういう部屋だった。私はそこで珍しくなかった。
珍しくないというのが、こういうことなのだと、私は二十五で初めて知った。
四月に、事務所が書類を出した。
出すのは私ではない。就労ビザ――エイチワンビーという――は、働く本人ではなく、雇う側が申請するものだ。職のほうが決まった分野の学位を要件にしていること、その人がその分野の学位を持っていること。二つ揃って初めて通る。会計の職と、会計の修士。私の場合、そこは揃っていた。
揃っていても、私は自分では出せない。
紙を書くのは事務所で、金を払うのも事務所で、出す先を決めるのも事務所だ。私がしたのは、頼まれた写しを渡すことと、待つことだけだった。去年の二月に写しを取る癖をつけておいてよかった、と思った。頼まれたものは全部、その日のうちに出せた。
枠の話は、所長から聞いた。この種の資格には年度ごとの数が決まっている。受付は四月に始まる。認められても、働き始められるのは十月からだ。数が埋まれば、そこで受付は終わる。終われば、次は翌年の四月になる。
私の許可は六月に切れる。翌年の四月まで待つということは、そのあいだ働けないということで、働けなければこの国にいる理由が無い。
抽選ではなかった。ただ、入り口に近い者から埋まっていく。事務所は四月の初めに出してくれた。所長は、早いほうがいいからね、とだけ言った。
六月に、認められたという知らせが来た。
十月一日から働いてよい、と書いてあった。
私の許可が切れるのは、その六月だ。
六月から十月までのあいだ、私は働いてよい者ではなかった。学生でもない。当時、この隙間を埋める仕組みは無かった。数年あとに作られるのだが、それは私の年ではない。
学生の資格には、終わったあと国内にいてよい日数が少しだけ付いている。数えると、八月の半ばまでだった。そのあとは、この国にいる理由が一つも無くなる。
出るしかなかった。事務所に言いに行った。所長は紙を見て、それから、席は空けておく、と言った。三か月半だ。三か月半、誰も座らない机が一つあることになる。小さな事務所でそれをするのは、簡単なことではないはずだった。
私は礼を言った。言いながら、言葉が足りない気がしたが、足す言葉を私は持っていなかった。
金の計算は先にした。一月から六月まで働いた分がある。そこから、働けない三か月半と、航空券と、六週間の宿を引く。引くと、残るのはわずかだった。宿を安いほうにして、そのわずかを少し厚くした。
八月に、私は日本へ行った。
行った、という言い方になる。帰った、ではない。帰る先が一つも無かったからだ。実家は事故のあとに売っている。大学のある街の部屋は、三年前に引き払った。荷物は無い。私を待っている人もいない。
宿を取った。自分の国で宿を取るというのが、どういうことなのかを、私はそのとき知った。名前を書いて、鍵を受け取って、部屋に入る。五年前にあの街の寮でやったのと、手順が同じだった。違うのは、言葉が通じることだけだった。言葉が通じるのに、いる理由の説明のほうが難しい。
六週間いた。
することは無かった。書類は揃えてある。面接の日取りは決まっている。それまでは、ただ待つ時間だ。手を動かすものが何も無かった。写しを取るものも無ければ、打つところも無かった。
一度だけ、練習場を見に行った。
入らなかった。道の向かいから、網と、照明の柱と、球を拾う車が動くのを見た。私がやっていたのと同じ動き方をしていた。乗っている人は知らない人だった。五年いた場所で、私を覚えている人がいるかどうかは、確かめなかった。確かめて、いなければ困る。いても困る。
私が金をもらえるようになったのは、あそこで覚えた振り方のせいだ。あの五年のあいだ、誰もそんなことは言わなかったし、私も思わなかった。十五分ほど見て、帰った。
昼に外を歩いた。日本の八月は、こちらより暑くて、湿っていた。人の多いところは避けた。避けなくてもよかったのかもしれない。誰も私を見ていなかった。見ていないのに、私は避けた。それは五年かけて体に入れた歩き方で、こちらへ来てからも消えていなかった。
九月に、東京へ行った。大使館があるからだ。ほかに用は無かった。私の国が私に差し出したのは、査証を受け取りに行く住所だった。
列があった。朝から並んだ。並んでいる人の多くは若かった。学生だろうと思った。私が郵送で済ませた手続きを、この人たちは並んでする。私のころとは、もう違っていた。
窓口に着いて、書類を出した。
訊かれたのは三つだった。どこで働くのか。何をするのか。学位は何か。私は答えた。相手は画面を見て、それから旅券を受け取り、あとで送る、と言った。
それで終わりだった。
列に並んでいた時間のほうが、話していた時間より、ずっと長かった。私はそういう釣り合わなさに、もう慣れていた。四日抱えて三十秒で終わったことが、この国に来てから何度もあった。
旅券は何日かして届いた。開くと、新しい紙が一枚貼ってあった。名前と、日付と、番号。私の五年が、そのうしろに全部積んであるはずだったが、貼ってあるものからは何も見えなかった。
九月の終わりに、私は戻った。
入国の窓口で、指を置いて、写真を撮られた。今年の初めから始まった扱いだ、と並んでいるあいだに聞いた。初めてこの国に入ったとき、私の顔は一度だけ正面から見られて、二分もかからなかった。今度は、顔と指が残った。
十月一日に、私は働き始めた。
その日、事務所の机は空いたままそこにあった。三か月半、誰も座っていなかった。座ると、置いてあった紙の束が私の高さのままだった。
その年の枠は、秋のうちに無くなったと、あとで聞いた。四月の初めに出してもらっていなければ、私は次の四月まで待っていた。待つあいだ働けない者を、事務所が置いておく理由は無い。
正しくしていたから、ここにいるのではない。
打席の隣に人がいて、その人が電話をかけて、事務所が書類を出してくれて、枠がまだ空いていた。四つのうち一つでも欠けていれば、私はいまここにいない。どれも、私が決めたことではなかった。
新しい紙には、三年と印字されていた。
五年前にこの国へ来てから、私が持った紙の数は、どれも何かの長さだった。交換の一年は取り決めの長さ。課程の二年は課程の長さ。そのあとの一年は、課程が終わってからの長さ。どれも、私が何をしているかで決まっていた。
三年は、何の長さでもない。ただ三年と決まっている。
働いてよいと書かれた紙で一年を超えたのも、初めてだった。
三年あれば、と私は考えた。考えて、そこで止めた。三年後に何を考えるかは、三年後の私が決める。
この話の仕組みについて、少しだけ補足します。
米国の修士以上に別枠が設けられるのは、この翌年からです。
国内で在留の資格が続かなければ、いったん国外へ出て、大使館か領事館で査証を受けて入り直すことになります。二〇〇四年七月に、国内で査証を更新する扱いが廃止されました。以後は必ず国外の窓口へ行きます。日本にいる人なら東京です。
この種の査証は、初めは三年で出ます。同じ勤め先で続けるなら、あと三年まで延ばせます。
ここに書いたのは二〇〇四年ごろの話です。
この作品はフィクションです。制度や手続きについては、その当時のものをできるだけ正確に書くようにしていますが、筆者は弁護士でも、移民法の専門家でもありません。制度は年によって変わりますし、同じ制度でも、一人ひとりの事情によって扱いが変わります。ここに書いたことを、ご自身の手続きの判断に使わないでください。実際に手続きが必要な方は、移民弁護士(在留資格の手続きを専門とする弁護士)など、資格のある方に必ずご相談ください。これらの記述について、筆者は責任を負うことができません。




