九話 合っている
ウェイが来なくなった月に、私は自分の書類を出さなければならなかった。
課程が終われば、学生ではなくなる。学生でなくなれば、この国にいてよい理由が消える。消える前に、次の理由を用意しておく。オーピーティーという――課程を終えた者が、学んだ分野に直に関わる仕事に限って、決められた期間だけ働いてよいという許可のことだ。当時は十二か月だった。延長は無い。間に合わなかった場合の救済も無い。
申請は、終わりの九十日前から出せる。私の終わりは五月だったから、二月に出せることになる。ウェイが来なくなったのが、その二月だった。
私は出す前に、自分の紙を全部机に並べた。
三種類ある。大学が出す証明。旅券に貼られた査証。それと、入ってきたときに残された在留の記録だ。三つは同じことを言っているようで、言っていることが少しずつ違う。証明には課程の始まりと終わりの日が入る。査証にあるのは、入れてくれと頼んでよい期間で、いてよい長さではない。在留の記録には日付が書いていない。学生は、在学しているあいだ、と記される。
そのほかに、免除と給付の紙が二年ぶん。成績の記録。学科が出した、私が在籍しているという一枚。
一つずつ読んだ。
名前の綴りを見た。生まれた日を見た。番号を見た。始まりの日と終わりの日を、証明と、学科が出した一枚で突き合わせた。単位の数を、成績の記録と数え合わせた。
一つ、合わなかった。
二年のあいだに一度、私は学期の途中で科目を替えている。その学期だけ、証明に載っている数と、成績の記録の数が違っていた。
違うと分かってから、私はしばらく動けなかった。
替えるときには紙を出す。出したはずだった。出した覚えがある。ウェイにも覚えはあったはずだ。
封筒を全部開けて、一枚ずつ見た。三つ目の底に入っていた。日付も、署名も、そろっていた。数はそれで合った。
合ったあとも、しばらく指が冷たかった。部屋は暖かかった。
合っていた。全部合っていた。
合っていることが、怖かった。
ウェイのも合っていたからだ。私が読んだ。彼の部屋で、二人で並べて読んだ。日付も、署名も、決まりの番号も、全部そろっていた。そろっていて、彼はいなくなった。
私は机の上を見た。同じものが並んでいた。
同じことが自分に起きない理由を、私は探した。
一晩、探した。
窓の外の雪は、十一月から動いていない。三月の終わりまで動かない。この街で三度目の冬だった。椅子の背に上着が掛かっている。一冬で使い終われば高い買い物だ、二冬使えば半分になる、と私は数えたことがある。三冬使った。
私は減らしていない、彼は減らしている。だが減らしてよいと学校が先に言ったのだ。私は前からいる、彼も前からいた。私は毎年同じ人が担当している、彼もそうだったはずだ。はずだ、と私は書いた。書いてから、線を引いて消した。私はそれを知らない。
どれも理由にならなかった。理由にならないというより、どれも同じ種類のものだった。私の側が正しいという話ばかりで、正しさが効くという話が一つも無かった。
明け方に、もう一つ出てきた。
私はさっきから、ウェイの落ち度を探していた。
書類の書き方が甘かったとか、確かめるのが遅かったとか、何か一つでも彼の側に足りないものがあれば、それが理由になる。理由があれば、私はそれをしなければいいだけになる。世界は、まだ順番のあるものになる。
落ち度は無かった。私は自分でその紙を読んでいる。無いと知っていて、探していた。
その晩に私が知ったのは、制度のことではなかった。私が、彼に落ち度があってほしいと思ったということだった。
正しくしていれば大丈夫、というのは、決まりではなかった。私がそう思っていただけだ。決まりのつもりで、私は四年それを握っていた。
次の日から、私は写しを取るようになった。
出すものは、出す前に一枚ずつ写す。控えを封筒に入れて、日付を書く。窓口へ行った日は、行った日と、話した人の役職と、言われたことを紙に書きつける。名前は訊かない。訊いても向こうは名乗らないし、名乗ってもらったところで、次に行けば別の人だ。だから役職を書いた。
これが何かを防ぐとは思っていなかった。ウェイは全部持っていた。持っていて、消えた。
それでもやった。手を動かしているあいだは、待っていることにならないからだ。
申請は二月の終わりに出した。出したあと、控えの封筒に日付を書いて、机の引き出しに入れた。引き出しを開けるたびに、それが見えた。
出してから返事が来るまでのあいだが、いちばん長かった。
審査には数か月かかる。かかるあいだ、私は学生のままだ。学生のままだが、五月に学生でなくなる。返事が五月より前に来る保証は無い。来なければ、私は学生でもなく、働いてよい者でもない期間に入る。その期間に名前があるのかどうかを、私は知らなかった。
免除も給付も、五月で終わる。学生でなくなれば、その代わりに手伝う相手もいなくなる。六月から先の金は、数えれば分かった。数えると、秋までだった。
そのあいだは、国を出ることもできなかった。出れば、出しているものを取り下げたのと同じ扱いになることがある。三月にも四月にも、私はどこへも行かなかった。行く先もなかったので、困ることではなかった。困ることではない、と思うようにしていた。
五月に、課程が終わった。
式には出なかった。行っても、待っている人がいない。その日は部屋にいて、答案の残りを見た。学部の授業の答案だ。最後の一枚まで見て、まとめて出した。それで、私は学生ではなくなった。
六月に、許可が届いた。
働いてよい期間が印字されていた。始まりの日と、終わりの日。数えると十二か月だった。
紙にはまた、一年と印字されていた。
四年前と同じ数字だ。あのときは、一年たてば帰る一年だった。今度のは、一年のうちに見つけなければ帰る一年だった。同じ数字が、逆を指していた。
数字は動いていない。前もそうだった。動くのは、いつも私のほうだ。
この話の仕組みについて、少しだけ補足します。
この許可の期間が理系の分野で延びるのも、期限と就労開始の隙間を埋める救済ができるのも、五年ほどあとのことです。
申請は、まず学校が推薦し、そのうえで国に出します。審査には数か月かかります。出したあとで書類の内容を直すのは難しく、間違えれば出し直しになり、そのぶん期間が削れます。
働ける期間は、許可が下りた日からではなく、あらかじめ指定した日から数え始めます。指定した日が来ても仕事が無ければ、その日から十二か月が減っていきます。
学んだ分野に直に関わること、という条件は、実際にはかなり厳密に見られます。専攻と職務の関係を説明できなければなりません。
ここに書いたのは二〇〇三年ごろの話です。
この作品はフィクションです。制度や手続きについては、その当時のものをできるだけ正確に書くようにしていますが、筆者は弁護士でも、移民法の専門家でもありません。制度は年によって変わりますし、同じ制度でも、一人ひとりの事情によって扱いが変わります。ここに書いたことを、ご自身の手続きの判断に使わないでください。実際に手続きが必要な方は、移民弁護士(在留資格の手続きを専門とする弁護士)など、資格のある方に必ずご相談ください。これらの記述について、筆者は責任を負うことができません。




