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白い結婚のはずでした。  作者: 九葉(くずは)


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13/13

第13話 白い結婚の終わりに

 銀木犀の匂いで目が覚めた。


 枕元の花瓶に、いつもの白い花。朝露が光っている。摘みたて。


 今はもう知っている。誰が摘んで、誰が活けているのか。


 隣で眠っている人の寝顔を見た。レオンハルト。暗い金の髪が額にかかっている。眉間の皺が消えて、穏やかな顔。この寝顔を最後に見たのは三年前の夜明け前で、あのときは、もう二度と見られないと思っていた。


 左の眉だけ、微かに上がっている。寝ているときの癖だ。わたしの観察がまた始まっている。研究者の性分は、目覚めた瞬間から稼働するらしい。


 一ヶ月が過ぎた。


◇◇◇


 精霊の森が変わった。


 黒ずんでいた霊木が、銀色の輝きを取り戻していく。一日ごとに、目に見えて。枯れかけていた葉が新しい芽を出し、幹の紋様が光を帯び始めている。


 呪いが消えたことで、精霊力の流れが正常に戻ったのだ。ネーヴェとの契約も完全に回復した。森を歩くと、小さな精霊たちの気配があちこちに感じられる。風の中にネーヴェの声が混じる。穏やかな声。「久しぶりに、森がまともに眠れている」と言った。


 森の中を歩きながら、足元の苔を見た。あの紫色の苔。迷子になった日に見つけたもの。採取用の袋を今日は持ってきた。しゃがみ込んで丁寧に採取する。


「また苔か」


 背後からレオンハルトの声。振り返ると、呆れたような、でもどこか柔らかい目で見下ろしている。


「また迷子になるぞ」


「今日は大丈夫です。たぶん」


「たぶん」


「……八割くらいの確率で」


「二割は迷うのか」


「方向音痴は記憶と関係ありませんでした」


 レオンハルトが、小さく笑った。前よりほんの少しだけ、笑い方が上手くなっている。


◇◇◇


 書斎の机の上に、手紙が二通置かれていた。


 一通はディートリヒから。母方の実家、北方の小さな領地で暮らしているらしい。便箋は質素なもので、文字は小さく、几帳面だった。


「兄上と義姉上に、取り返しのつかないことをしました。許しを請うつもりはありません。ただ、事実を伝えたいと思いました。イレーネに協力したのは、兄上の影から抜け出したかったからです。それは言い訳にもなりません」


 封を開けて、読んだ。返事は書かなかった。


 許す気持ちも、許さない気持ちも、まだ整理がつかない。でも、読みはした。それだけで、今は十分だった。


 もう一通は、マルテの友人から届いた噂話だった。イレーネが辺境の小さな研究所にいるという話。弟子は一人もいない。かつての学院の同僚も訪ねてこない。黒ずんだ右手で、それでもまだ術式図を描いているらしい。


 自分が育てたと信じていた「才能」に告発された女は、今、何を思っているのだろう。あの右手で、まだ何を掴もうとしているのだろう。


 分からない。分からなくていいのかもしれない。


◇◇◇


 午後、レオンハルトと一緒に商人たちとの会合に出席した。


 精霊の森の霊木材の取引再開について。森の回復に伴い、霊木材の品質が戻りつつある。商人たちの表情が明るい。


「奥方様がお戻りになって、本当に安心しました」


 年配の商人がそう言った。


「いえ、戻ったというか、ずっとここにいましたので」


「ええ。ええ。でも、今はお顔の色が違います。旦那様もですが」


 レオンハルトの方を見た。彼は窓の外を、いや、今は窓を見ていなかった。わたしの方を見ていた。目が合って、すぐに書類に視線を落としたが。


 耳の先が赤い。


◇◇◇


 夕方。研究室で論文を書いていた。精霊の森の回復過程を記録する研究。三年間の空白を含めて、前例のない資料になるはずだ。


 ペンを置いて、窓の外を見た。夕暮れの空。橙色と紫が混じり合っている。精霊の森の向こうに、星が一つ光り始めていた。


 三年前、この窓から同じ空を見た。あのときは、忘れることを選んだ。今は、覚えている。


 指輪の内側を指でなぞった。ずっと嵌めたまま。最初の文字、三年前のわたしの言葉。「忘れても、戻る」。


 その隣に、新しいインクで刻んだ言葉。


「もう忘れない」


◇◇◇


 夜。同じ寝室のベッドで、レオンハルトが隣にいる。


 あの朝のことを思い出す。物語が始まった朝。見知らぬ腕が腰に回っていて、パニックになったこと。怯えたわたしを見て、レオンハルトが「すまない」と言って腕を解いたこと。


 今はもう怯えない。


「レオンハルト」


「……何だ」


「あなたの腕、重いです」


「……すまない」


 腕を解こうとする。わたしはその腕を掴んだ。


「離さないでください」


 沈黙。レオンハルトの呼吸が変わった。腕に力が戻る。そっと、けれど今度は迷いなく、わたしの腰に回された。


 温かい。背中に伝わる体温。硬い胸板。松脂と革の匂い。知っている匂いだ。


「フィオナ」


「はい」


「……好きだ」


 声が震えていた。三年間言えなかった言葉が、やっと口から出た。不器用で、たった一言で、でもそれで十分だった。


「知っています。花も、紅茶も、日記も、全部」


「……恥ずかしいことを言うな」


「本当のことです」


 身体ごと振り向いた。暗がりの中で、レオンハルトの顔が近い。灰青色の瞳が、月明かりを映している。


 わたしから唇を寄せた。額に。そして、唇に。


 触れるだけの、静かなキス。


 レオンハルトの全身が一瞬硬直して、それからゆっくりとほどけた。深い息を吐いて、額をわたしの額にくっつけた。


「……風が強いな」


「窓、閉まっていますけど」


「……ああ」


◇◇◇


 朝。


 銀木犀の匂いで目が覚めた。


 枕元の花瓶。白い花。朝露。


 隣にレオンハルトがいる。まだ眠っている。左の眉が微かに上がっている。


 この腕が、誰のものか知っている。

 この花を、誰が摘んだか知っている。

 この指輪に、何が刻まれているか知っている。


 わたしはフィオナ・フォン・ヴィントヘルム。精霊契約師で、方向音痴で、研究に没頭すると食事を忘れる。


 そしてこの人の妻だ。


 窓の向こうに、精霊の森が銀色に光っている。霊木の枝が朝日を受けて輝き、小さな精霊たちの気配が風に乗って流れてくる。


 白い結婚は、終わった。


 今日から始まるのは、ただの結婚だ。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!


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― 新着の感想 ―
いつもの理詰めの話も大好きですが、このお話みたいに鎖骨の下が暖かくなるようなお話も大好きです❤️
何だか断罪あったりしたけど綺麗な物語だったな~~~ 読み終わったらフヨフヨとした余韻が⋯ 精霊さんを読んだからかしら?♡
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