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白い結婚のはずでした。  作者: 九葉(くずは)


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第12話 決別

 王立精霊学院の大講堂は、わたしにとって因縁の場所だった。


 記憶が戻った今、この建物の匂いまで覚えている。石壁に染みついたインクの匂い。高い天井に反響する足音。首席で卒業した日の、緊張と誇らしさ。そしてイレーネの研究室で、自分の論文が他人の名前で出版されているのを見つけた日の、胃の底が抜けるような感覚。


 今日は違う。隣にレオンハルトがいる。背筋の伸びた歩き方。怒りを静かに飲み込んでいる人の姿勢。


 わたしたちの後ろを、ネーヴェが銀色の霧の姿で漂っている。精霊の証言には法的効力がある。精霊は嘘をつけない。それがこの世界のルールだ。


◇◇◇


 大講堂に学院の幹部が集められていた。学院長。副院長。各研究室の主任。


 イレーネも座っている。紫色の衣装を纏い、穏やかな笑みを浮かべて。わたしの顔を見たとき、一瞬だけ笑みが揺れた。すぐに立て直したが、わたしはその一瞬を見逃さなかった。


 そして、イレーネの右手に気づいた。手袋をしている。片手だけ。以前はしていなかった。


「フィオナ。記憶が戻ったのね。良かったわ」


 その声の温度を、今のわたしは正確に測れる。心配の色はない。計算の匂いだけがある。


「イレーネ先生」


 先生、と呼んだ。最後にそう呼ぶことに、意味があった。


「わたしの記憶が戻りました。すべて」


 術式図を広げた。壁一面に張り出した、呪いの三層構造。


 説明は淡々と行った。精霊学者として、事実を事実のまま述べた。呪いの外層。中間層のイレーネ固有の術式パターン。わたしが施した封印。そしてイレーネがなぜこの呪いを仕掛けたのか。


「目的は高位精霊『銀霧のネーヴェ』の強奪です。イレーネ先生はわたしとネーヴェの契約を破壊し、自身が契約し直すつもりだった」


 講堂がざわめいた。イレーネの表情は変わらない。穏やかな微笑み。まだ仮面を保っている。


「精霊の証言を求めます」


 ネーヴェが前に出た。銀色の霧が少女の形を取り、講堂の空気が冷えた。


「この者の言葉は真実です」


 ネーヴェの声が講堂に響いた。


「三年前。この術式を設計したのは、あの女です。わたしの契約者の記憶を奪い、わたしを手に入れようとした」


 精霊の白い目がイレーネを見た。


「そしてもう一つ」


「この者が発表した論文のうち、少なくとも四本は、わたしの契約者フィオナの研究成果です。わたしはその研究の過程を、すべて記憶しています」


 講堂が静まり返った。


 イレーネの笑みが、消えた。


◇◇◇


「……あなたに」


 イレーネの声が変わった。穏やかさが剥がれ落ち、硬く乾いた声が残った。


「あなたには、分からないでしょう」


 右手の手袋を外した。その下の手は、指先から手首にかけて黒く変色していた。精霊力の拒絶反応。高位精霊との契約に失敗した者に残る痕跡。


 講堂にどよめきが走った。


「二十年前、わたしもネーヴェと同格の精霊に契約を申し込んだわ。拒絶された。この手を代償に。以来、わたしの右手では精霊術式が組めない」


 イレーネの目が光っていた。怒りでも憎しみでもない。もっと古い感情。二十年かけて発酵した渇き。


「あなたは天才よ、フィオナ。生まれながらに精霊の声が聞こえる。わたしが片手を失って届かなかった場所に、あなたは最初から立っていた」


「だからといって」


「あなたの才能は、わたしが育てた!」


 声が割れた。仮面が砕ける音がした。


「学院に入ったとき、あなたは才能を持て余していただけの小娘だった。方向も、方法も、わたしが教えたのよ。ネーヴェとの契約だって、わたしが道筋をつけた」


 その通りだった。


 イレーネがわたしに精霊学の道を開いてくれたのは事実だ。あの右手で黒板に術式を描いて見せてくれたこと。夜遅くまで研究室で議論を付き合ってくれたこと。初めて精霊の声を聞いた日に「よくやったわ」と微笑んでくれたこと。全部、覚えている。今は全部。


 だから余計に、苦い。


「先生」


 静かに言った。声は震えなかった。


「先生がわたしに精霊学の基礎を教えてくださったことは事実です。感謝しています」


 イレーネの目がわずかに揺れた。


「けれど、研究の成果を盗むことと、弟子の記憶を奪う呪いを仕掛けることは、指導とは呼びません」


「わたしがいなければ、あなたは」


「ええ。先生がいなければ、わたしは今のわたしではなかった。でも」


 一歩、前に出た。


「先生がいなくても、わたしはわたしです。研究はわたしの手で書いた。契約はわたしの力で結んだ。先生の右手が届かなかった場所に立てたのは、わたしの足で歩いたからです」


 イレーネの顔が歪んだ。黒ずんだ右手が、微かに震えていた。


 学院長が静かに立ち上がった。


「イレーネ・ヴァイス。精霊の証言は法的に有効です。研究不正および精霊契約への妨害行為について、王立精霊学院は以下の処分を通達します」


 主任研究員の地位の剥奪。精霊契約認可権限の永久剥奪。学院からの追放。


 イレーネは何も言わなかった。ただ、黒ずんだ右手を左手で覆い隠すように握った。二十年間、その手で精霊学を教え続けた人の、最後の仕草。


 わたしは目を逸らさなかった。


 恩師を告発することの重さは、消えない。この人がいなければ、わたしは精霊学に出会えなかった。


 けれど。


 記憶を奪われていい理由にはならない。


◇◇◇


 学院を出ると、夕暮れだった。


 馬車に乗る前に、レオンハルトが足を止めた。


「……疲れたか」


「少し」


「そうか」


 沈黙。夕日が学院の塔を橙色に染めている。


「フィオナ」


「はい」


「白い結婚は、今日で終わりだ」


 振り向いた。レオンハルトの顔は夕日の逆光でよく見えない。けれど、声は聞こえた。低くて、震えていて、けれど確かな声。


「改めて。俺の妻になってくれないか」


「もう、なっています」


 思わず言い返してから、自分の言葉に驚いた。


「……ああ」


 レオンハルトの耳が赤くなった。窓の外を見ようとして、馬車の前だから窓がない。仕方なく空を見上げた。


「……今日は、いい天気だな」


「今、天気の話をする場面ではないと思いますが」


「……ああ」


 笑った。わたしが。声を出して。記憶が戻ってから、初めて声を出して笑った。


 レオンハルトが、びっくりしたようにわたしの顔を見た。そして、不器用に口角を上げた。


 夕日が二人の影を長く伸ばしていた。帰り道は、来た道より短く感じた。

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