第9話:異世界側研究棟の建設と快適化BBQ
十一月下旬の三連休、徳島キャンパスの谷あいは、冷たい時雨がアスファルトを濡らしていた。
だが、地下二階の厚壁に穿たれた幅八百五十ミリの防火扉を抜けた先には、初夏の乾いた風が吹き抜け、木漏れ日が作業区画を穏やかに照らし出していた。
整地された平坦地の中央に、無骨な構造物が立ち上がろうとしていた。
カプセル室の防火扉を覆うようにして配置された、間口五メートル、奥行き四メートル、軒高二点八メートルの頑丈なプレハブ型建屋――「異世界側研究棟一号シェルター」である。
「佐伯、そっちの通し柱を垂直に保て。トランシットの下げ振りを見るぞ」
足場用単管パイプの上から指示を飛ばしたのは橘だった。
「はい! 垂直、出てます!」
佐伯が支える主柱は、先日伐採して乾燥させておいた現地の白い広葉樹から挽き割った百二十ミリ角の角材だ。その柱脚と梁の接合部を固めているのは、規格インゴットから削り出された黒皮付きの鋼製アングルブラケットと、高張力M8ボルトの群れだった。
すべての部材は、例によって「WMS-800」規格に準拠している。柱も梁も床パネルも、単体では全幅八百ミリ以下にモジュール化されており、前室のエアシャワーブースを問題なくすり抜けて搬入された。
「橘、屋根パネルの気密施工はどうなっている」
地上から図面を手に声をかけたのは蓮見だ。
「完璧だ。現地材の野地板の上に、地球から持ち込んだ透湿防水シートを敷いて、その上に折板ガルバリウム鋼板を葺いてる。雨仕舞いは万全だぞ。扉の周囲も三重のネオプレンゴムパッキンでシェルターと実験棟の隙間を塞いである。これで雨が降ろうが風が吹こうが、地下室への逆流も、向こうの機器の水濡れも完全に防げる」
橘がインパクトドライバーでボルトを締め上げる小気味よい音が、原生林の縁に響き渡った。
作業の主力としてフル稼働していたのは、改良されたWR-01だった。
前部の排土板を簡易クレーンアームへと換装したWR-01は、自重八十五キロの車体にカウンターウェイトを積み、後部の排土板用シリンダーをアウトリガー代わりに地面へ食い込ませて車体を固定している。数十キロもある現地材の梁や屋根パネルを吊り上げては、指定の位置へとミリ単位で持ち上げていく。
定点マーカーによる位置補正ルーチンが組み込まれたことで、佐伯がジョイスティックで大まかな目標地点を指定するだけで、柱の直前で自動停止し、安定した姿勢を保持したまま資材を所定の吊り位置にピタリと固定し続けた。
「……ロボットの半自律化、めちゃくちゃ助かりますね」
三橋がノートPCでWR-01のステータスログを監視しながら息を吐いた。
「手作業で梁を持ち上げてたら、今頃みんな肩が外れてましたよ」
「道具は使い倒してナンボだ」
陣内が私物の水平器を柱に当て、通りを確認しながら頷いた。
「外周の安全対策も一区切りついた。シェルターの屋根上に三六〇度監視カメラと高感度マイク、それから赤外線フェンスの受光部を設置した。半径百メートル以内の接近物は、すべて地球側の実験室とここのコンソールへ自動警報が飛ぶ」
連休中日の夕暮れ。
床板の敷設と、内壁の断熱ウレタンフォームの施工が完了した。
シェルターの内部には、現地材で組まれた二台の頑丈な観測デスク、地球側から引き込んだ商用百ボルト電源タップとギガビットLANポート、そして機器監視用の折りたたみ式コット(簡易ベッド)が二台、整然と並べられた。
「……完成したな」
蓮見がシェルターの引き戸を閉め、内側からカチリと施錠した。
外の風音がふっと遠のき、静粛な作業空間が生まれた。
「これで、風雨による機器の腐食を恐れることなく、無人センサーによる二十四時間の定点観測とデータの連続蓄積が可能になった。……野宿同然の観測は、今日で終わりだ」
「よっしゃあぁぁ!」
佐伯が木製の床に大の字になって叫んだ。
「屋根がある! 壁がある! 雨が降ってもパソコンが濡れない! 文明の勝利だ!」
「大げさだな、佐伯君は」
三橋が笑いながらも、デスクの上のモニターに長距離ドローンの待機ログを表示させた。
「さて、シェルターの落成祝いだ」
橘が軍手をパンパンと叩き、満足げに笑った。
「徳島キャンパスの夜は真っ暗で食う店もない。だが、俺たちには最高のテラス席がある。――第二回・ワンダバラボ現地快適化BBQを開催するぞ!」
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シェルターの正面に張り出したウッドデッキの上には、この数週間で製作された現地材の成果物がずらりと並んでいた。
気乾比重零点六八の白い木材を組み上げた重厚なアウトドアテーブルとベンチ。
そして焼き台には、現地製の耐火煉瓦を積み、内側にオガ炭を熾した本格的なU字溝型の炉が据えられていた。炉の上には、規格インゴットを鍛造して橘が削り出した、厚さ十二ミリの極厚鉄板が据え付けられている。
「肉を焼く前に、前回の反省を活かすぞ」
橘が取り出したのは、金属製の串を等間隔で固定できる、ステンレスの角パイプで作られた「遠火串焼き治具」だった。
「陣内、これを使え。地面に直接串を刺すと角度の微調整が面倒だったろ。これなら火元からの距離をミリ単位で調整できる」
「気が利くな、橘」
陣内は私物のアウトドアナイフを鞘から抜き、クーラーボックスから取り出した銀色に輝く吉野川水系の天然鮎に素早く刃を入れた。
化粧塩をたっぷりと打った十尾の鮎が、治具に整然とセットされ、炭火の柔らかい輻射熱に晒される。
ジワジワと皮が縮み、余分な水分が滴り落ちて、清流のコケの香りが湯気とともに立ち上っていく。
その隣では、陣内私物の市販戦闘飯盒二型が二連でゴトクに掛けられていた。
白焼きにした鮎の身を出汁、薄口醤油、酒、針生姜とともに炊き込む「鮎飯」の香ばしい匂いが、蓋の隙間から勢いよく吹き出す蒸気とともにウッドデッキを満たしていく。
「佐伯、鉄板を温めろ。阿波尾鶏をいくぞ」
「了解です!」
十分に熱せられた極厚鉄板の上に、大ぶりに切り分けられた阿波尾鶏のもも肉が皮目から一気に押し当てられた。
ジュウウウウゥッ! という凄まじい音とともに、黄金色の澄んだ脂が弾け飛ぶ。
「厚い鉄板は熱容量が大きく、肉を載せても温度が落ちにくいな」蓮見が目を細める。「表面の褐変反応を一気に進めながら、中心まで余分に加熱しすぎずに済む」
「教授、だから飯を食うときに熱力学の解説をするなとあれほど……」
橘が苦笑いしながら、焼き上がった阿波尾鶏をヘラで手際よく切り分けた。
外側はキツネ色を通り越して香ばしい飴色に焼き上がり、噛めばザクッと皮が破れ、中から熱々の肉汁が溢れ出す。
「うまっ……! 鉄板で焼くと、網焼きと全然違いますね!」
三橋がハフハフと口元を押さえながら叫んだ。
「すだちを絞れ、三橋」
スーツのネクタイを緩め、トレンチコートを脱いだ桐生が、半分に割った緑のすだちを手渡した。
「酸味と香味が脂の重さを適度に中和する。官民問わず、現場の兵站にはこのレベルのクオリティが不可欠だ」
「桐生さん、書類の方はどうなってるんですか?」佐伯が鮎の塩焼きにかぶりつきながら尋ねた。
「順調だ」
桐生は書類フォルダーから一枚の決裁文書の写しを取り出し、テーブルの上に置いた。
「学長および安全管理委員長宛ての『極限環境下における閉鎖系物性試験の中間進捗報告』は、先週金曜に正式に受理された。現時点では、定常観測と施設整備については既存研究の延長として継続承認が出ている。ただし、先日の長距離探査で観測した、あの『黒い霧』――あれが単なる局所気象でないことは、報告書を読んだ本部の連中も薄々察し始めている。黒い霧への再接近や未知試料の本格搬入は別問題だ。そこから先は追加の安全審査が必要になる」
「よく切り分けてくれたな」蓮見がグラスを傾けた。
「手続きを整理しただけだ。だが恭介、何か決定的な実物が出れば、既存研究の範囲だけでは扱えなくなる。追加承認と関係部署への正式な説明が必要だ」
「分かっている」
蓮見は手にしたカップを見つめた。
「だからこそ、このシェルターが必要だったんだ。無人観測を高度化し、客観的な数値を固める。向こうの世界を科学的に記述できるだけの論理武装が整うまでは、われわれの手でこの境界を管理し切る」
「蒸らし時間、終了だ」
陣内の静かな声が響いた。
飯盒の蓋が外される。
立ち上る濃密な出汁の湯気。ふっくらと炊き上がった米の上に、丸ごと炊き込まれた黄金色の鮎。
陣内が手早く骨を外し、生姜とすだちの果皮を散らして一気にしゃもじで混ぜ合わせる。
「……いただきます!」
佐伯が茶碗を両手で受け取り、かき込むように口へ運んだ。
「……あぁ、美味い……。底のおこげが、前よりパリパリになってる……!」
「鉄板を噛ませて熱を均等に回したからな」橘が胸を張る。
夜の帳が下りていく。
地球側では冷たい晩秋の雨が降りしきっているはずの時刻、異世界のウッドデッキには、満天の未知の星空が広がっていた。
暖かな炭火の残り火を囲みながら、六人は静かに夜風を浴びていた。
堅牢なシェルターの壁、安定した通信回線、そして足元を固めた作業ロボット。
自分たちの足場は、完全に固まった。
だが、その安らぎの先、遥か数十キロの彼方に横たわる漆黒のカーテンは、星の光すら呑み込みながら、静かに、確実に、その不気味な輪郭を夜の闇の中に浮かび上がらせていた。




