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ワンダバラボの研究日誌 ~大阪空想科学大学 徳島極限環境実験キャンパス 時空構造境界工学研究室~  作者: 五平


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10/12

第10話:異常な生態系「静寂の森」の謎

十二月に入ると、徳島キャンパスの山肌はすっかり葉を落とし、乾いた木枯らしが吉野川の川面を白く波立たせていた。


地上では雪混じりの時雨が降る日も増え、事務棟の職員たちは足元に電気ストーブを引き寄せて縮こまっている。だが、地下二階の食品工場型前室を経て防火扉を抜け、完成したばかりの異世界側研究棟シェルターへ足を踏み入れると、そこには初夏の穏やかな微風と、眩しい緑のパノラマがどこまでも続いていた。


「……先生、平日の定点モニタリングログ、一週間分がまとまりました」


シェルター内の木製観測デスクで、三橋がノートPCのキーボードを叩きながら顔を上げた。


部屋の隅では、地球側から引き込んだ商用電源で小型サーバーラックが静かにファンを回している。屋根上の全方位カメラ、広帯域指向性マイク、赤外線フェンス、そして丘陵の中継局を経由して送られてくる定点データが、二十四時間連続で自動記録されていた。


「大気圧、気温、湿度、日照量。いずれも地球の温帯湿潤気候の初夏モデルと極めて高い相関を示しています。二酸化炭素濃度も約四百ppmで安定。光合成と大気循環は完全に機能しています」


「問題は、生物活動のログだ」


蓮見はパイプ椅子に腰掛け、プリントアウトされた時系列グラフの束をめくった。


「環境がこれほど豊潤であるにもかかわらず、バイオマスの動態データが異常なほど偏っている。佐伯、原生林側のトレイルカメラの回収はどうなっている」


「いま最終ロットのSDカードを吸い上げ終わりました!」


佐伯がカードリーダーを抜き、解析ソフトのウィンドウを大画面モニターに展開した。


「陣内さんの指示で、シェルターから原生林の深部にかけて、半径二キロ圏内の獣道らしきポイント三十箇所に、動体検知式の暗視トレイルカメラを仕掛けて一週間回しました。総撮影枚数、およそ一万四千枚です」


「AI画像分類(YOLO)のフィルタリング結果を出せ」蓮見が命じる。


「はい。被写体抽出の結果ですが……」


佐伯の指先が止まり、眉間に困惑の皺が寄った。


「風による枝揺れや落ち葉の誤検知を除外した実質的な生物検知フレーム数、わずか八十二件です。そのうち七十四件が、体長十センチから二十センチ程度の小型げっ歯類――地球の野ネズミやリスに似た小動物の移動です。残りの八件は、体長三十センチ前後の地上性鳥類と、小型のトカゲ状爬虫類でした」


「……それだけか?」


「それだけです」


佐伯は唾を飲み込み、画面をスクロールした。


「大型の草食動物――地球で言えば鹿、イノシシ、野牛の類。そしてそれを追う肉食獣――狼や大型ネコ科動物の痕跡は、ゼロです。ゼロ件。一枚も写っていません。足跡の自動認識でも、大型獣の接地痕は一箇所も検出されませんでした」


「おかしいですね……」


三橋が原生林のキャノピー(林冠)を見上げるカメラ映像に切り替えた。


「あれだけ広大な原生林があって、下草もこれほど青々と繁茂しているんですよ? 倒木も豊富で、果実や種子をつける樹木も確認されています。地球なら、中型から大型の哺乳類や鳥類が何十種、何千頭とひしめき合っていて当然のバイオマス密度です。なのに、小動物が息を潜めるように少しだけ這い回っているだけなんて……」


「静寂の森、か」


蓮見は顎を擦り、静まり返った森の彼方を見つめた。


「風の音と、木の葉が擦れ合う音、そしてごく稀に小鳥の鳴き声が聞こえるだけだ。夜間になっても、獣の遠吠えも、縄張りを主張する咆哮も、獲物を追う足音すら一切響かない。……過剰なまでの植物の繁茂と、不気味なほどの高次消費者の空白。これは自然な生態系ピラミッドのバランスではない」


---


土曜日の昼前。


週末組の三人が、例によって食品工場型前室で白長靴と給食キャップを身につけ、コロコロ粘着ローラーで互いを清掃してからシェルターへと合流した。


「……なるほどな。トレイルカメラの配置は完璧だったはずだが、大型獣の引っ掛かりがゼロか」


陣内がトレイルカメラの設置図面と等高線マップを見比べながら、腕を組んだ。


「俺もこの数週間、外周の警戒線を張りながら周囲の地形や植生を観察していたが、大型動物特有の獣道――下草が踏み固められた明確なルートや、樹皮についた角研ぎの跡、糞や泥浴びの痕跡を一度も見かけていない。小動物の痕跡はあるが、捕食圧を感じて怯えている様子すら希薄だ」


「水もある、空気もある、餌になる植物も無尽蔵にある」


橘が観測デスクの縁に腰掛け、首を傾げた。


「なのに、なんでデカい動物が一匹もいないんだ? 大型生物が生きられない毒素でも空気中に混ざってるのか? でも、俺たちはこうして普通にマスク一枚で呼吸して、阿波尾鶏を焼いて食ってるぞ」


「大気中の微量成分分析でも、致死性の揮発毒や重金属は検出されていない」


蓮見が答える。


「それに、小型のげっ歯類や鳥類が正常に世代交代し、活動している以上、呼吸器系や代謝系を直接破壊するような環境毒ではない。……問題は、この異常な『空白』が、何を意味しているかだ」


「考えられる仮説はいくつかあるな」


桐生が手元のメモ帳をめくり、論理的に整理した。


「第一に、過去に大型種だけを選択的に死滅させた未知の病原体や絶滅イベントがあった可能性。第二に、幼体の成長や繁殖を阻害する未知の環境因子が存在し、小型種しか世代を繋げない可能性。第三に、あの黒い帯が物理的な移動障壁として機能しており、外部からの大型生物の移入を完全に遮断している可能性。あるいは、周期的かつ極端な環境変動があり、定着できない可能性だ」


「サイズそのものが原因とは限らん」


蓮見が腕を組み、静かに口を開いた。


「生物の体躯の違いは、呼吸量、循環器系の負荷、熱放散、そして要求される代謝エネルギーの桁の違いに直結する。小型生物は局所的な適応マージンが広く、わずかな資源でも生き残れるが、大型生物は安定した広域の生態基盤と、極めてシビアな生理条件を必要とする。大型生物に共通する何らかの生理機構が、この空間の環境条件と決定的に衝突している可能性は否定できん」


「衝突……具体的には何が原因なんですか?」佐伯が尋ねる。


「それはまだ分からん」蓮見は即座に首を横に振った。


「大気中の未同定微量成分なのか、地磁気や電磁気的な環境の違いなのか、それともわれわれの常識外にある未知の物理因子なのか。何かが過剰なのか、それとも何かが致命的に欠乏しているのかすら、現段階のデータでは判別がつかん。だが、もしあの黒い霧を境にして、生物の生理機能に影響を与える環境因子が急変しているのだとすれば、この偏った生態系を説明する重要な候補にはなる」


シェルターの中に、張り詰めた沈黙が落ちた。


換気ダクトの低いファン音と、外の草原を渡る乾いた風のざわめきだけが聞こえる。


誰もいない、美しすぎる静寂の森。


それは豊かな楽園などではなく、何らかの理由によって生命の大型化や定着を静かに拒絶し続けている空間なのかもしれなかった。


「……恭介」橘が重い口を開いた。「そのあたりの因果関係を詰めるには、どうする?」


「まず、境界帯の物理条件を正確に押さえることだ」


蓮見は立ち上がり、モニターに表示された長距離ドローンのフライトマップを指差した。


「長距離探査ドローン『スカウトワン』の電磁シールドを強化する。機体内部の配線にシールドメッシュを巻き、ジャイロと磁気センサーにパーマロイの磁気遮蔽テープを施せ。次は霧に不用意に突入するのではなく、黒い霧の手前一キロメートルを一定高度で横方向に走査(ラテラルスキャン)する。異常量の空間勾配を測定し、あの黒い帯がどのように伸びているのか、形状と電磁的なプロファイルを物理的に割り出すぞ」


「了解です!」


佐伯と三橋が力強く頷いた。


夕暮れの斜光が、研究棟の窓から差し込み、デスクの上に広げられた生態系マップを赤く染め上げていた。


生命の気配が奇妙に欠落した、美しくも不可解な「静寂の森」。


その沈黙の理由を巡る科学者たちの問いに対し、黒い霧の彼方から思いもよらない形で「現実」が飛び込んでくる時は、すぐそこまで迫っていた。


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