第8話:長距離ドローン探査と「黒い霧」の観測
十一月中旬の日曜日、夜明け前の徳島キャンパスは、吉野川から吹き上げる冷え込みが濃い霜となって雑草を白く染め上げていた。
しかし、第3境界実験棟の地下二階から防火扉を抜けた異世界の草原には、湿り気を帯びた穏やかな微風が吹いていた。空は白々と明け始め、原生林の梢が朝露を浴びて淡く光っている。
整地されたばかりの平坦地には、先日ロールアウトしたハイブリッド作業ロボット――WR-01が据え付けられていた。
木製フレームの荷台には、長距離探査用の機材が整然と積載されている。大容量リチウムポリマーバッテリーの予備ラック、地球側実験室と直結する光ファイバー通信リール、そして今回の主役である長距離探査用固定翼ドローン「スカウトワン」のカタパルト射出治具だ。WR-01と搭載機器の駆動電力は、すべて自車の大容量バッテリーバンクから供給される。
「陣内、前進中継地点の選定はどうだ」
白長靴に給食キャップ、防塵マスク姿の蓮見が、ノートPCの地形コンソールを覗き込みながら尋ねた。
「あの尾根筋の小高い丘陵だな」
私物の双眼鏡を目に当てていた陣内が、北西に伸びる緩やかな丘を指差した。
「実験棟前から直線距離で約八百メートル。見通しが良く、電波伝播のフレネルゾーンを綺麗に確保できる。あそこまでWR-01を遠隔操作で前進させ、地上アンテナ中継局として据え置くのが最も効率的だ」
「よし。佐伯、WR-01を前進させろ」
「了解です!」
佐伯がゲームパッドを操作すると、四輪のラグタイヤが赤土を力強く噛み、WR-01がカタパルトと機材を背負って進み始めた。地上に敷設された光ファイバーケーブルが、リールからスルスルと滑らかに繰り出されていく。
丘陵の頂点に到着したWR-01は、排土板を地面に食い込ませて車体を水平に固定し、背面の伸縮マストを油圧シリンダーのように伸ばして無指向性アンテナを立ち上げた。
「中継局の展開完了。電波強度、最大。光ファイバー有線リンク、レイテンシ零点五ミリ秒以下で極めて安定してます」
実験棟前の木製作業台に陣取った三橋が、キーボードを叩いて通信系の健全性を確認した。
カタパルトの上に載せられたのは、翼幅千六百ミリの全翼型ドローン「スカウトワン」だ。機首には三軸ジンバル付きの四十倍光学ズームカメラとマルチスペクトルカメラ、下部には大気サンプリングポッドとレーザー高度計(LiDAR)が収められている。
「スカウトワン、プリフライトチェック完了。自律飛行モード、スタンバイ」
「射出角、十五度。……撃て」
蓮見の号令で、佐伯がコンソールのスイッチを跳ね上げた。
バシュッ! という高圧エアの破裂音とともに、スカウトワンがカタパルトのレールを一気に加速して宙に飛び出した。
ブラシレスモーターがキィィィンと甲高い風切り音を立て、二枚のカーボンプロペラが空気を切り裂く。滑らかな放物線を描いて上昇した機体は、瞬時に水平飛行へと遷移し、朝焼けの空へとグングンと高度を上げていった。
「巡航高度、三百メートルに到達。対地速度、時速六十五キロ。ウェイポイント巡航に入ります」
三橋の正面にある大型モニターに、ドローンの機首カメラが捉えた広大なパノラマ映像がリアルタイムで映し出された。
息を呑むような光景だった。
眼下に広がるのは、どこまでも波打つ緑の草原と、針葉樹と広葉樹が複雑に入り交じった鬱蒼たる原生林だ。蛇行する銀色の河川が幾筋も大地を走り、朝の斜光を浴びてキラキラと反射している。
「……信じられない広さだな」
非番で合流していた橘が、腕を組んで画面を凝視した。
「もう境界から十キロ以上飛んでるぞ。人工物らしきものが何一つ見当たらない。道路も、電柱も、煙の上がる集落も、開墾された畑すら一切ない。完全な手つかずの自然だ」
「今回の高高度走査では、大型の熱源反応は確認できないな」
陣内がサーモグラフィの画面を指差した。
「林冠の下を走査しているが、解像度内で捉えられるのは鳥類や小動物と思われる微小な温度変化だけだ。……佐伯、高度を五百メートルまで上げろ。観測半径を限界まで延伸する」
「了解、上昇角十度!」
スカウトワンはさらに高度を稼ぎ、観測半径二十キロメートルの外縁部へと機首を向けた。
その時だった。
「……ん? 先生、北東方向の水平線、なんかおかしくないですか?」
ズームカメラを操作していた佐伯が、画面の一角を指差した。
どこまでも続く深い原生林の彼方、地平線と青空の境界線上に、奇妙な「陰影」が浮かび上がっていた。
「望遠に切り替えろ。コントラスト補正をかけろ」
「はい!」
光学四十倍ズームが作動し、映像がブレを抑えながら急速に拡大される。
そこに映し出されたのは、気象学の常識を根底から覆す光景だった。
地平線の一端からもう一端まで、大地を東西に両断するようにして、巨大な「黒い霧の帯」が横たわっていた。
それは単なる雨雲や霧ではなかった。
太陽の光を完全に吸い込み、乱反射すら許さない、底なしの暗黒。煙突の煙のように立ち上るのではなく、まるで分厚い黒いベルベットのカーテンを天から地へと垂らしたかのように、垂直な壁となって大地に根を張っている。
上端は現在の観測高度からでは確認できない。少なくとも周辺に浮かぶ通常の積雲や層雲よりはるか上空まで、黒い壁が垂直にそびえ立っていた。
「……何だ、あれは」橘が掠れた声で呟いた。「山火事の煙か? 火山灰の噴煙柱か?」
「違う」蓮見が即座に否定した。
「熱源反応を見ろ。赤外線カメラの温度分布はどうなっている」
三橋が赤外線画像を重ね合わせた。
「……異常です。通常の火山灰や燃焼煙なら周囲より高温を示すはずですが、あの黒い壁の手前だけ、急激に熱放射が消失しています。温度差による対流の乱れすらありません。ただ、冷え切った暗黒が壁になって居座っています」
「スカウトワンを前進させろ。霧の境界線から五百メートル手前まで接近させ、大気サンプリングと電磁場計測をかける」
「了解! 接近シーケンスに入ります!」
ドローンが黒い霧の帯に向かって直進する。
距離が縮まるにつれ、その威容が画面全体を圧迫するように覆い尽くしていった。
黒い霧の表面は、生き物のように微細にうごめいていた。だが、風に流される様子はない。境界線から手前わずか数十メートルの位置まで緑の樹海が青々と生い茂っているにもかかわらず、その黒い幕の向こう側は、光がまったく透過せず、完全な闇の中に沈んでいた。
「境界まで残り一キロ……八百……五百メートル!」
佐伯が叫んだ瞬間だった。
ビビビビビッ! と実験室のコンソールからけたたましい警報音が鳴り響いた。
「テレメトリに激しいノイズ発生! 対気速度計の指示値がハンチングしてます!」
「地磁気センサー、スピン! ジャイロのドリフト角が急激に発散しています!」
三橋がモニターを押さえて叫ぶ。
画面の中のフライトインジケーターが激しく明滅し、スカウトワンの姿勢制御ログが波打つように乱れ始めた。
カメラ映像には、目に見えない強烈な電磁ノイズが白い砂嵐となって幾重にも走り、機首がまるで目に見えない乱気流の壁に弾き返されたかのように、不自然な揺らぎを繰り返している。
「大気センサーの吸気ポッドを開放! 大気成分を引け!」蓮見が指示を飛ばす。
「吸引ポンプ作動……ダメです、質量分析計のイオン化室で放電が起きてます! 空間の電荷勾配が異常に高すぎます!」
「空間自体が途切れているのか!?」橘が身を乗り出す。
「いや……レーザー高度計のパルスは反射して戻ってきている!」
蓮見はモニターの数値を凝視した。
「光線が物理的な壁で遮断されているわけではない。空間そのものが急激に閉じて消失しているのではない。……向こう側に『空間』は続いている」
「じゃあ、なんで計器があんなに狂うんです!?」佐伯が悲鳴を上げる。
「原因はまだ分からん。だが、あの付近では電磁、慣性、光学系の複数センサーが同時に破綻している」
蓮見は冷徹に画面を見据えた。
「単なる乱気流や気象ノイズで片付けられる現象ではない。空間の電磁場ポテンシャル、大気の誘電率……何らかの環境条件が根本から急変している『未知の不連続帯』だ。スカウトワンのセンサーは、その境界条件の激変による過渡応答ショックを拾っている」
「先生、これ以上近づけるとジャイロが完全に死にます! 失速します!」
「緊急反転! エレボン最大、フルスロットルで離脱!」
佐伯がスティックを限界まで倒した。
全翼機の主翼後縁のエレボンが跳ね上がり、スカウトワンは深いバンク角を切りながら、黒い霧の目前で間一髪の急旋回を敢行した。
反転し、霧から一キロメートル離脱した瞬間、テレメトリの激しいノイズは嘘のようにピタリと収まり、姿勢制御インジケーターが再び安定した緑色へと復帰した。
「……ふぅぅぅっ……!」
佐伯が全身の力を抜いてパイプ椅子の背もたれに倒れ込んだ。
「あ、危なかった……あと十秒遅かったら制御不能で墜落してましたよ……」
「だが、貴重なデータは取れた」
三橋がモニターのログを保存しながら、息を弾ませた。
「黒い霧の帯は、観測できた範囲だけでも東西に四十キロメートル以上にわたって伸びています。境界に近づくほど広帯域の電磁ノイズが急増し、レーザー距離計と姿勢計の残差に同期した、周期的な揺らぎが記録されています」
「あれがただ東西に帯状に伸びているだけなのか、それともこちら側の領域を大きく取り囲んでいるのかは、この走査データだけでは判断がつらんな」
陣内が腕を組み、険しい表情でモニターを見つめた。
「ああ。まずは形状の計測からだ」
蓮見は眼鏡を外し、疲れたように目頭を揉んだ。
「この空間の外縁なのか、あるいは内部を横断する局所的な異常帯なのか、それすら現時点では未確定だ。だが、あの不連続帯の正体を突き止めない限り、われわれの探査半径はこの草原と原生林の範囲に縛られ続ける」
「現在の装備――木製台車や簡易なドローンじゃ、あの境界帯に不用意に突っ込んだら電子機器が全滅するな」
橘が腕を組み、神妙な顔つきで頷いた。
「風雨を遮り、通信と電源を安定させ、あの霧の動態を常時監視できる拠点を現地に組むのが先だな」
「その通りだ」
蓮見は力強く頷いた。
「現地木材と鉄骨モジュールを組み合わせ、この扉の直前に本格的な『異世界側研究棟』を建設する。腰を据えて、あの黒い壁の正体を暴くための前進基地を築くぞ」
スカウトワンが夕暮れの空を滑空し、WR-01の待つ丘陵のカタパルトへと無事に戻ってきた。
遥か地平線の彼方、夕陽の光を吸い込んでそびえ立つ漆黒の壁は、静まり返った異世界の大地を見下ろすように、不気味な沈黙を保ち続けていた。科学者たちの戦いは、自然の開拓から、未知なる空間の「外縁」との対峙へと、確実に歩を進めていた。




