せんべいと未来
帰宅すると、ジャスミンはゴーチェに尋ねた。
「ロラン様はどちらに?」
するとゴーチェからは、意外な返答が返ってきた。
「応接間にいらっしゃいます」
「お客様でもお見えなの?」
だがゴーチェは、いえ、とかぶりを振った。
「理由は存じませんが、お一人で応接間でお過ごしです。特に人を通すなとは言われておりませんので、奥様なら部屋に入られても構わないかと」
一人で、一体何をしているのだろう。不思議に思いながら、ジャスミンは応接間へと向かった。
ノックをして名乗ると、室内からは「入って」という返事が返ってきた。おそるおそる入室すれば、ロランは部屋の中央で、一人佇んでいた。その表情は穏やかで、ジャスミンは安堵した。
「お一人で、何をなさっていましたの?」
するとロランは、にっこり微笑んだ。
「妻が不在で寂しいので、描かれた妻と過ごしていた」
そう言ってロランが指すのは、室内に飾られたジャスミンの肖像画だ。あの後ヴィクトルが描いてくれたもので、今はロランの肖像画と並んで壁に掛かっている。
「ロラン様ったら」
何だか、赤くなってしまう。それを隠そうとジャスミンは、持っていた籠を彼に差し出した。
「新作メニューですわ。‘センベイ’という、前世で食べていたものですの。今日は、学校でも教えましたのよ」
するとロランは、思い出したようだった。
「ギョーム殿たちにプレゼントすると言っていた料理か?」
「はい。今日作って、届けてきましたわ」
あの後ジャスミンは、学校に残ってギョームたちに贈るせんべいを作ったのだ。その足で早速、彼らの元を回って届けてきたのである。
そうか、とロランは頷いた。
「どうだった。喜んでいただけたか?」
「はい。特にギョームさんが、大喜びで。オリオール領に留まって正解だった、なんて言っていましたわ」
実はギョームはシャルル三世から、王宮の衛視にとスカウトされていたのだ。その監視能力と調査能力を買われたようである。だが彼は、‘自分は、小さい領域で活動するのが向いている’と言って辞退したのだった。
「そんな風に言っているが、本当は、前世からの知人がいる場所で過ごしたいのであろうな」
ロランは苦笑すると、籠に手を伸ばした。せんべいを一枚手に取り、口に運ぶ。一口咀嚼した途端、彼の顔には笑みが浮かんだ。
「美味だ。味も香りも良い。君の前世には、素晴らしい料理がたくさん存在していたのだな」
「お口に合ってよかったですわ」
確かにつまみ類は豊富だった、とジャスミンは懐かしく振り返った。するとロランは、ポンと手を叩いた。
「そうだ。今度、君のご両親が来られるだろう。その際ヴィクトル殿も呼んで、これを食べさせたらどうだ。彼にとっても懐かしい味だろう」
サロー侯爵夫妻は、娘の肖像画を見に近々やって来るのである。
「いいですわね。そうしますわ」
ロランは頷くと、二枚目のせんべいを口にした。
「何やら、食べ出したら止まらないな……。どうだ、今夜はこれを食べながら、一緒に酒を飲まないか。久々に、ビールを飲もう。合いそうだ」
‘ビールとおせんべいか’
じゅる、と唾液が溜まってくる。ずっと求めていた組み合わせだ。だがジャスミンは、かぶりを振った。
「お供はしますけれど、お酒は遠慮しますわ」
「なぜ」
ロランが、怪訝そうに首をかしげる。ジャスミンは、自分の腹を指さした。
「私はお酒を欲していますけれど、この子は欲していないと思いますの」
ロランのグリーンの瞳が、これ以上できないくらい大きく見開かれた。
「ジャスミン!つまり……」
ジャスミンは、瞳を伏せた。
「言い出すタイミングを見計らっていたのです。二ヶ月だそうですわ」
「そうか……。ああ、それではこんな所で長話をしている場合ではないな。早く部屋に行きなさい。横にならないと」
ロランが、珍しくうろたえ始める。ジャスミンは、クスッと笑った。
「ロラン様ったら。私は、病人ではありませんのよ」
「そうは言っても……。そうだ、これから忙しくなるな。乳母を手配せねば。それからウードに言って、身重の体に良い食事を作らせよう」
ロランが、ジャスミンを労るようにそっと肩を抱いてくれる。ジャスミンは、ふと思った。
‘妊婦向けの食事、か。産まれたら、赤ちゃん用の料理も必要になるわね’
そこで、ジャスミンは思い出した。前世には、ベビーせんべいなるものがあったではないか。
‘今日のおせんべいをアレンジしたら、作れそう!’
途端に、やる気がみなぎってくる。出産までの間は、離乳食の開発に力を入れようとジャスミンは思った。
‘おつまみばかり作る生活からは、卒業よ。これからは、大事な人のためのお料理を作っていくの……!’
愛しい夫のぬくもりを感じながら、ジャスミンは心に誓っていた。
了
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