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不完全な神様は主従の箱庭で白日の夢に微睡む――人として生きて死にたかった、ある少年神の話  作者: 御崎菟翔
第二部

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90. 剥奪の決意

 奏太は、亘にドンと胸の辺りを突き飛ばされた。


 よろめいた奏太の目に映ったのは、玄の剣の切っ先が亘の胸元をかすった瞬間。その拍子に御守りの紐が切れ、ポトリと地面に落ちる。

 

 陽の護りを失った亘に、玄がニヤリと笑った。

 

 亘は一瞬で間合いを詰めた玄にドッと腹を蹴られ、勢いのまま、強い衝撃と共に背を壁に打ち付ける。


「亘ッ!!」


 奏太が声を上げる間もなく、玄が亘の方に手をかざすと、見えない圧に押しつぶされるように亘の顔に苦悶が浮かんだ。内臓を圧迫されているのか、ガハッと、口から血が吐き出されるのが見える。


「やめろ! 玄!!」


 奏太は、思わず、玄のほうに飛び出した。このままでは、本当に亘が殺されてしまうかもしれない。


 しかし、止めようとした勢いは、そのまま玄にいなされ、逆に床にドンと押し倒されてしまった。乱暴に仰向けに引き向けられ、ガッと首を掴まれて強い指の力で締め上げられる。

 

「うぅ゙……グッ……!!」 

「……奏太、様……ッ!!」


 亘の苦しそうな声が遠く聞こえる。

 それを打ち消すように、耳元に玄の唇が寄せられ、生暖かい息とともに、ねっとりとした囁きが落ちた。

 

「やめませんよ。もう、今日で終わりにしましょう。我が君。この手で直接貴方を壊せぬのなら、人に縋り付くその心を、今日、ここで、壊して差し上げます」


 刷り込まれ続けた恐怖に、喉が引きつる。

 

 玄は眷属であるが故に、仮初でも、仕える神である奏太の身体を壊せない。だからこそ、言葉と暴力で、奏太自身に「神への回帰」を選ばせようとしてきた。奏太に痛みと恐怖と罪の意識を、徹底的に刷り込んで。


 二百年飼い慣らされた心は、簡単に玄を拒絶できるほど、強くはなれない。けれど、ここで心を屈すれば、後戻りできなくなる。全てが、終わってしまう。


 奏太は、玄の足元にポトリと落ちたままの御守りに目を向けた。せめて、柊士の——みんなの心に縋りたくて、心を預ける拠り所が欲しくて、首を絞められたまま、必死に手を伸ばす。


 しかし、玄もすぐに気づいたのだろう。伸びた奏太の手を、足でダンッと踏みつけ、グリッと踏みにじった。

 更に、まるで汚らしいものを触るように御守りの紐を指で摘み上げ、奏太の目の前で揺らす。


 ドクンと、嫌な予感がした。


「………ダ、ダメだッ! それは……!」


 咄嗟に動こうとして、首筋にある玄の爪が皮膚に深く食い込む。昏い瞳が、確認するように奏太の瞳を覗き込んだ。


「ああ、瞳の色が、変わりそうですね」

「……い、やだ……、返……せ……!!」


 玄はフッと鼻で笑った。


「貴方を繋ぎ止めるものなら、これは、処分してしまったほうが良いでしょう」

「ダメ、だ……! それ、だけは……!」


 奏太が必死に言えば、玄は奏太の首を掴んでいた手を滑らせて奏太の顎を持ち上げた。


「日向奏太を保ち続けようとするものなど、存在してはならないのです」


 玄はそう言うと、ギュッと御守りを握り込む。黒い炎が手の中に生まれ、御守りが、あっという間に包まれていく。焦げ臭い匂いと共に、ジュジュッと憐れな悲鳴を上げて、その形を見る見るうちに崩していく。


「玄ッ!!」


 奏太が悲鳴を上げたところで、玄はニコリと笑い、パッと手を開いた。


「なんと、脆い」


 手の中からは、黒く粉々になった灰が、見るも無残にパラパラと落ちた。


『お前と生きた者たちの願いが、いつまでも、これとともにあるように。お前と共に生きた多くの者の願いが、これに積み上がり生き続けるように——』


 柊士の、皆の思いが詰まった御守りが……呆気なく、風に吹かれて飛んで消えていく。


「あ、あぁぁあぁあぁぁぁあ!!!」


 必死に耐えていた理性の糸が、プツリと切れる。瞳の金がじわりと滲み、あっという間に黒を蝕み侵食していく。せっかく築かれた日向奏太としての土台が、脆く崩れ去る。


「貴方は、あんなみすぼらしい塵屑に心を囚われていてはいけない。秩序の神よ」


 呼吸すら触れ合う距離で、貪るように金を覗き込む玄の昏い瞳。奏太の瞳に涙が滲み、ポロっと溢れ頬を濡らす。


 痺れたように真っ白になった頭の中に、玄の低く甘やかな声だけが響いた。


「人を捨て、全てを、明け渡すのです」

 

 重ねてきた罪も、科せられた罰も忘れ、失う恐怖も、自分だけが生き残る底冷えのするような寂しさも、胸を締め付ける苦痛も、全てを捨てて、ただ、楽になれという誘惑。


「貴方に必要なのは、ただ一つ。聖なる金の御力だけ」


 玄の細く冷えた指先が、奏太の涙の痕を愛撫するように、ゆるやかに頬をなぞる。これまで一度たりともなかったほどに、優しく。


「我が君、貴方の金の瞳を、俺に——」

  

 (……ああ……、もう、全部…………)


 思考を放棄し、身も心も、このまま全てを委ねてしまおうと、奏太は重い瞼をそっと閉じかける。


 そのときだった。

 

 不意に、キラリと鋭い光を弾く小石のような何かが視界の端に映った。まるで、こちらを見ろと、そう呼ぶように。


 奏太は濡れた金の空虚な瞳のまま、吸い寄せられるように視線を向ける。

 

 そこにあったのは、温かく光る小さな光。けれど、それはあまりに美しく、懐かしいきらめき。おはじきのように平たく、小さな、小さな、ガラス盤。

 

 それは、黒い炎に灼かれ落ちた袋とは対照的に、内に秘められた白い陽の気に護られ傷一つつくことなく残った御守りの中身。


 その白の光が、まるで生きているかのように揺れ、キラリ、キラリと、刻み込まれた文字を照らす。

 

『幸せであれ、奏太』

 

 歪な文字。それは、あの時に聞かされた、柊士の想い。不器用な文字にこめられた『日向奏太』への愛情。

 

『——お前は、悪くない』


 ふと、夢で見た柊士の声が聞こえた気がした。


『お前は、生まれた時から、日向奏太だ。生まれた時のまま生きて、何が悪い』


 まるで、静まり返った奏太の心に波紋を広げるように柊士の言葉が落ちた。

 

 それだけではない。


『奏太様が、笑ってくださるだけで、十分です』


 巽の声。

 更に——


『奏太様に、喜んで欲しかったんです』

 

『奏太様、貴方は、存在していて良いのですよ』

 

『自慢の守り手様だって、三人とも、口を揃えて言うんだよ』

 

『三百年間、私達を護り続けてくれて、ありがとう』


『奏太君が、奏太君として、頑張り続けてくれたから、私達は、こうして暮らしていけてるんだよ』


『貴方がどうなろうと、何があろうと、私の貴方への忠誠が、変わることはありません』


『日向奏太様を、御慕いし続ける心は、ずっと、変わりません』


『奏太様、貴方は、私の光です。金ではなく、貴方自身の持つ白の光に救われたのです』


『秩序の神ではなく、私を私として見てくださった貴方こそが——日向奏太様こそが、私の唯一の主なのですよ』


『貴方のまま帰ってくると、それだけ、約束してください。僕らは、貴方の居場所を護っていますから』

 

 柊士の言葉をきっかけに、まるで、雨を降らせるように、皆からもらったたくさんの言葉が落ちてくる。一つ一つが、まるでキラキラした陽の気のような光を纏い、心の中を満たしていく。


『貴方が、貴方として生きてくださることが、我らの、何よりの望みです。誰が、何と言おうと、貴方は、ここに居ていいのです』


 (……ああ、暖かい)


 自分は、何も、無くしていない。

 

 いくら玄が壊そうとしようとも、喉元を押さえる冷たい指が、鋭い爪が、どれほど自分を否定しようとも、自分は……

 

『——あいつらと、生きたいんだろ?』

   

「……うん。俺は、あいつらと、一緒に生きたい」


 奏太の瞳が、金を押しのけて黒を取り戻し始める。

 神に飲み込まれるのではなく、日向奏太のまま、ここにいられるように。


「『あいつらと』ですか。やはり、全て始末した方が良さそうだ」


 玄の瞳が殺気を帯びて亘に向く。

 しかし、奏太は玄を何処にも行かせないように、自分を掴む玄の手を掴み返した。


「あいつらに、手は出させない」


 低く言う奏太に、玄は嘲笑の声を上げた。


「怯え、震えるばかりの貴方に、何ができるのです? 弱き人間にしがみつき、壊されるばかりの貴方に、何が?」


 玄の言う通りだ。奏太は、ずっと……二百年の長き間、ただ、耐えるだけだった。怯え、震え、抵抗せず、ただ、されるがままに受け入れてきた。罪人は自分で、玄が正しいと思っていたから。


 朱に、玄を処分しても良いと言われても、奏太にはどうしてもできなかった。そうする力はあっても、権利はないと思っていた。


 けれど、たとえそれが正しくても、抗っていいのだと——抗った先に、それでもそこに居ても良いと言ってくれる居場所があると、今は確信が持てる。


 罰を黙って受け入れる必要も、神にならない罪に苛まれる必要も、居場所を失うことに怯える必要も、もう、ない。

 

「……俺は、お前と、袂を分かつ」

「は?」


 地を這うような低く怪訝な声。玄の顔から表情が消える。罰が苛烈さを増す時のサイン。

 

 それを無視して、奏太は震える手で、自分の首に添えられたままの玄の手首に力を込めた。


 迷う必要は、もう、ない。


「……秩序の、神の、名に、おいて……この者に、与えし……」


 奏太の声に、玄がハッと息を呑んだ。更に、奏太の声を喉ごと止めようとするかのように、これでもかというくらいに手に力が籠る。まるで、握り潰されてしまうかのような圧。


「うぅ……ぐ……っ」


 言葉を続けられず、うめき声が漏れる。


「やめろ!! お前ごときに、それをする権利があると思うのか!!」


 地を鳴らす様な怒声。玄の焦りが伝わってくる。ギリギリと首を絞め上げられ、爪が肉を抉り深く食い込む。呼吸が途絶えかける苦痛に涙が勝手に浮かび上がってくる。


 それでも、眷属である玄には、主である奏太の息の根を完全に止めることは許されない。致命傷を与えられぬ制約がある限り、神の意志と言葉を、物理的に完全に止め切ることなどできない。


 奏太は、魂から絞り出すように、玄の手に抗いながら、途切れ途切れに、息とともに何とか声を吐き出す。


「……我が力……を……我が……身に、……還……さん……」


 喉の隙間から漏れ出るように掠れる、声にならないほどに小さな声。それでも、奏太は必死に言葉を紡いだ。

 

 これ以上、自分を殺したくない。罪深くても、隣で生きていいと、皆が言ってくれたから。


「……玄……を、……眷……属、から……放つ……こと、を……ここに……沙汰……す……」


 奏太がそう結んだ時だった。

 玄を掴む手から、金の粒子が迸り、その身体を包み込むように覆い始める。


 いつもは金を見て愉悦に笑う玄の顔が、これ以上ない程に、恐怖に支配された。


「やめろ……! やめろ!!!」


 叫び声が響き渡り、奏太の首を絞める力に更に圧殺せんばかりの力が加わる。けれど、それは金の光が増すとともに次第に弱まっていく。


 秩序の神の力。純粋な金に輝く膨大な量の力が、容赦なく玄の身体から吸い取られ、それが当然のように、真っ直ぐ奏太の身体に還ってくる。


 玄を包んでいた金が次第に薄くなり、奏太に全てが還ると、神々しい光の全ては、何事もなかったかのように消え失せる。目の前にいるのは、憎悪の籠もった目で奏太を睨み殺そうとする、全てを奪われた憐れな妖の姿。


「——返せ! 返せぇえぇぇえ!!」


 玄の叫びが轟く。


 瞬間。まるでバチッと電気が走ったように、もう一度だけ金が散った。


 それは、神の力による拒絶。

 神を裏切り眷属を剥奪された者に、神に近寄る権利はない。地上に生きる者全てに与えられる神の庇護すら失った証。


 弾き飛ばされた玄が、ダンと強く壁に背を打ちつける。ズルリと崩れ落ちた玄は、呆然とした顔で、拒絶を受けた身体を見下ろしていた。


 二百年もの間に膨れ上がり奏太自身を蝕み続けた強大な呪い。抗いようがないと諦めていた支配は、案外呆気なく、終わりを告げた。


 緊張していた息を吐き出すと、身体の力がフッと抜け、奏太はそのまま、床にくたりと身体を横たえた。まるで、玄からの禊が終わったあとのような感覚。たった一人きり、無感情のまま冷え切った身体を癒す、気付けば慣れきってしまった、いつもの修復。


 奏太はそのまま、ゆっくり目を閉じかける。しかし、すぐに自分の身体が、熱くて大きな身体にグイッと強引に抱き起こされた。


「奏太様!」


 それは、いつもは来なかった、助け。

 

 固く冷えた床ではなく、柔らかい熱に包み込まれる感触。血に塗れたままの亘の顔が奏太を覗き込む。自分の身体の事などお構いなしに、ただ、奏太の事だけを心配して。


 奏太は、護衛役の大きな胸に体重を預け、安堵の息を吐き出した。


「……亘……」


 慌ただしく動き出した武官達の声も聞こえてきて、何だか現実に戻ってきたような気がした。ようやく取り戻した、平穏な日常。それに帰れるのだと。


 しかし、そう思った、その瞬間だった。

 

 ピシリと、奏太の腕に一筋の、金の亀裂が走った。

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