第9話「妃の値段」
黒冠院の会議室には、玉座がなかった。
円形の机を囲む六つの椅子。その一つに魔王が座り、残る五つを黒冠院が占めている。
この国では、王も一票にすぎない。
アレクシアの椅子だけは、円の外へ置かれていた。
「人間の令嬢を、妃候補として院へ出すとは」
最初に口を開いたのは《血冠》だった。魔王の叔父で、王統と官職を握る大公。王家の分家に生まれた悪魔族で、赤黒い角と、血の色をした礼服をまとっている。
「和平使節の約束を破って連れてきたのです。まずは帰国させ、外交上の非礼をわびるべきでしょう」
「せっかく手元にある交渉材料を、そのまま返す必要はあるまい」
砦冠が口を挟んだ。
「客人として保護し、人間国との交渉に使えばよい」
「陛下がお側へ置きたいだけなら、私的な問題として処理できます」
帳冠が続ける。
「しかし、妃となれば王統と国政に関わります。同じ話ではありません」
「帰国、交渉材料、陛下の個人的な客人。ずいぶん意見が分かれているのね」
アレクシアが返すと、血冠は初めて彼女を見た。
「発言は許可しておりません」
「私の婚姻を話し合っているのでしょう。本人の許可もなく決める国が、よく人間を野蛮と呼べたものね」
軍服姿の《剣冠》が鼻を鳴らす。名門オーガ族の老将で、座っていても肩の位置がほかの者より高い。
「口だけは勇ましい」
その隣で《砦冠》が笑った。国境軍と鉱山を握る名門リザードマン族の男。首筋には、高い魔力を示す竜の鱗が浮かんでいる。彼からは、いくつもの黒い線が人間国の国境へ伸びている。
――和平を長引かせ、軍需品の価格を上げる。
――人間の娘が死ねば、報復を理由に予算を増やす。
わかりやすい男だった。
反対側には、青い衣装の若い女が座っている。《帳冠》。上級スパイダー族の公女で、宮廷儀礼と情報を支配し、かつて魔王の妃候補だった。
彼女の微笑みからは、何も読めない。
最後に、白い角を冠のように持つ老女がいた。《古冠》。銀狼族の旧名門から王家へ嫁いだ先代魔王妃で、黒冠院の議長であり、魔王の祖母でもある。白銀の耳は年齢を感じさせないほど鋭く立っていた。
「令嬢」
古冠が静かに呼んだ。
「あなたは、なぜここにいるのです」
「誘拐されたからです」
「では、帰国を望みますか」
「条件が整わなければ」
五人の視線が集まる。
アレクシアは用意された椅子を自分で動かし、円卓の空いている場所へ置いた。
「魔王陛下は、私の力を和平政策に使いたい。あなた方は、人間へ王統の権限を渡したくない。そして私は、期限も権利もないまま外国へ閉じ込められるつもりはない」
アレクシアは五人を順に見た。
「ですから、この婚姻は恋愛でも服従でもなく、七年間の国家契約にします」
「なぜ七年だ」
剣冠が問う。
「和平は一度の会談では作れません。国境交易を再開し、軍事衝突を減らし、その成果を両国へ定着させる。そのための期間です。七年で成果がなければ、婚姻を解消して私を帰国させる」
魔王は口を挟まなかった。
「成果とは何だ」
剣冠が問う。
「会談の回数か。署名した紙の枚数か。国境では昨年だけで、停戦違反により二十三人死んだ」
飾りのない数字だった。この老人にとって和平は美しい理念ではなく、自分が命じて埋葬した兵の数なのだ。
「両国軍の越境回数、死傷者、交易路の閉鎖日数を毎年公開します。数字が減らなければ成果とは呼びません」
「人間国が数字を隠せば?」
「魔王国側の記録だけでも出す。自国に不利な数字を先に出せない者が、敵国へ公開を求めても従わせられません」
剣冠は賛成しなかった。ただ、鼻で笑うのはやめた。
「第一に、私個人の財産を魔王家の財産と分けること。第二に、独立した居館と、その中の使用人を選ぶ権利。第三に、私の配下を魔王軍へ自動的に編入しないこと」
血冠の指が机を叩く。
「人間が、我が国内に私兵を持つと?」
「陛下が人質から戻られた年、私は分家の継承順位を下げてまで、この方を次代の王へ推しました」
血冠は魔王を見ずに言った。
「人間の宮廷で育った王へ、さらに人間の妃と人間の配下を与える。王統を二度、同じ危険へさらせと?」
政治上の反対だけではない。自分が守り、王へ押し上げた甥を、再び人間国に奪われると考えている。
「私を働かせたいのは魔王陛下です。置物の妃なら、私は必要ない。和平を実現する役目を求めるなら、命令を実行する者が必要です」
「働くとは、何をする」
「人間国との交易と外交の提案。国境で戦争を望む者たちの調査。そして、陛下が望む和平を、願望ではなく政策へ変えること」
「そのために、妃という地位が必要なのですか」
帳冠が扇の向こうから尋ねた。
「わたくしの一族は、王妃が担う儀礼、外交、宮廷管理を何代も引き受けてきました。わたくし自身も、陛下の妃候補として育てられた。外から来た方が契約一枚で同じ席へ座るなら、これまで積み重ねた役目をどう扱います」
嫉妬ではなかった。王妃になれなかった女の恨みでもない。帳冠にとって婚姻は、一族が国へ提供してきた仕事の名前なのだ。
「私を選ぶために、あなたの仕事を無価値にする必要はありません」
「では、わたくしを妃にして、あなたを外交官にすればよろしいのでは?」
「魔王陛下があなたを望み、あなたも望むなら」
帳冠の扇が、わずかに止まった。
「私は、誰かが長く待った褒美として夫を譲る立場ではないわ。あなたも、王妃になれなければ価値が消える仕事を受け入れてはいけないのではなくて?」
「初対面の方に、一族の生き方まで査定されたくはありません」
「それは失礼しました。私も同じことをされている最中だったものですから」
帳冠は初めて、作った微笑みではない表情を見せた。怒りとも、面白がっているとも取れる目だった。
魔王以外の顔に、初めてはっきりとした反応が現れた。
血冠は不快そうに眉を寄せ、砦冠は値踏みするように目を細める。剣冠は、ようやくアレクシアを交渉相手として見た。
「第四に、外交提案権。第五に、私と配下が罪を問われた場合、公開の裁判を受ける権利。魔王の私刑も、黒冠院の密命も認めません」
砦冠が笑う。
「ずいぶんと自分を高く売る。お前に、それだけの価値があるのか」
「ないと思うなら、帰しなさい」
アレクシアは魔王を見た。
「あなたは私が必要だと言った。値をつけるのは私で、払うのはあなたよ」
「認める」
「陛下」
血冠が低く呼んだ。
「ただし、一つ加える」
魔王は続けた。
「七年の間に戦争回避への成果がなければ、婚姻は解消できる。アレクシアが望めば帰国させる」
「望めば、では弱いかと存じます」
円卓の後ろから、細い声がした。
書記たちの末席に、角の片方を折られた悪魔がいる。黒い法衣は裾が擦り切れ、抱えた書類の山に顔が半分隠れていた。
「名は」
古冠が問う。
「契約書庫、第三保管室付きのセヴランです」
「何が弱いのです」
「婚姻の継続を望むかどうか、その確認者が魔王陛下だけでは、令嬢が拒絶しても『望んでいないとは聞いていない』と解釈できます。定期的な意思確認と、第三者へ提出できる同意撤回書が必要です」
「陛下がそのような卑劣な解釈をすると?」
血冠の声に怒気が混じる。
「しないと断言すれば、私は嘘をつくことになります」
セヴランは震えながら答えた。
「権力者が卑劣ではないことと、卑劣になれない契約を作ることは別です」
アレクシアは彼を見た。
黒い文字はない。
保身さえ見えない。ただ、契約の不備を放置することを恐れている。
「その条項を入れなさい」
魔王が命じた。
会議は日没まで続いた。
血冠は最後まで婚姻そのものに反対した。剣冠は軍事情報へ触れさせないことを条件に棄権。砦冠と帳冠は賛成へ回った。
砦冠は、人間の娘が七年で失敗すれば侵攻論を強められると考えている。帳冠は、魔王の独断を期限と条文で縛れるなら、拒絶するより管理しやすいと判断した。
異なる思惑が、同じ賛成票になった。その意図は帳簿へはっきりと記されていた。
古冠は長く沈黙したあと、議長票を賛成へ入れた。王の私情として放置するより、国家契約として院の監督下へ置くことを選んだのだ。
「制度へ入るなら、制度によって裁かれなさい」
「望むところです」
「陛下もです」
古冠は孫へ向き直った。
「この婚姻が失敗したとき、若い人間に惑わされたと申し開くことは認めません。連れてきた責任も、彼女へ権限を与えた責任も、王として記録されます」
「承知している」
「いま承知していることを、七年後にも証明なさい」
婚姻契約は、二日後に正式署名することとなった。
会議の終わりに、帳冠が祝杯を用意させた。
「まだ祝いと呼ぶには早いでしょう」
「だからこそです。決裂しなかったことだけでも、今夜は祝いましょう」
銀の杯が六つ並ぶ。
侍女長が深紅の酒を注いでいく。
アレクシアの杯へ瓶が傾いた瞬間、黒い文字があふれ出した。
――香料で毒の匂いを隠す。
――人間の身体なら、三口で心臓が止まる。
――杯は清掃係に洗わせ、証拠を消す。
アレクシアは、注がれた酒を見下ろした。
それから何も知らない顔で、杯へ手を伸ばした。




