第8話「五度滅びた国」
「お断りします」
アレクシアは即答した。
玉座の間に、息をのむ音が広がる。
魔王へ正面から拒絶を返す者は珍しいらしい。まして、連れてこられたばかりの人間の令嬢である。
灰銀の瞳だけが、驚かなかった。
「理由を聞こう」
「誘拐犯との結婚を断るのに、理由が必要?」
「もっともだ」
家臣の何人かが顔をしかめた。
魔王は彼らへ退室を命じた。ラウムと、白髪の老将だけが残る。
「この二人には、未来に大きな危機があることだけを伝えている。詳しい話は知らない」
「あなたは、誰にも話していないのね」
「話せば信じると思うか」
「では、ここから先は二人にも聞かせないで」
魔王はうなずいた。
「ラウム、老師。外で待て」
二人は反論せず、玉座の間を出た。重い扉が閉まり、広間にはアレクシアと魔王だけが残る。
「信じさせるのが王の仕事ではなくて?」
「五度失敗した」
あまりに平然とした答えに、アレクシアは黙った。
魔王は黒い王冠へ触れた。
六つのくぼみは、すべて空だった。
「《七生の黒冠》。国が滅び、魔王が致命傷を負ったとき、戴冠の日へ記録を送り返す秘宝だ。私はこの朝へ五度戻った」
「私が死んだ世界は?」
「その一つだ」
嘘は見えない。
「人間国を征服した世界では、その後の反乱でこちらも滅びた。領土も賠償も譲った世界では、弱腰だと判断した人間軍に侵攻された。主戦派を粛清した世界では、内戦を起こした」
魔王の声には、出来事を読み上げるような冷たさがあった。
「エドガーを殺し、ベアトリスを保護した世界では、彼女を暗殺され、私の犯行として聖戦を起こされた。戦争を短く終わらせようとした世界では、私の将軍が反逆した」
「その将軍に、私は殺されたわ」
「そうだ」
「マルタは?」
魔王の目が止まった。
「私の侍女よ。前の世界では、薬が手に入らず死んだ。ほかの世界では?」
「わからない」
「お父様とお母様は?」
「公爵が軍を率いた記録はある。夫人については残っていない」
「ベアトリスが暗殺された世界で、最後に誰と話したかは?」
「記録にない」
五つの世界を知る男が、アレクシアの身近な者については何も答えられない。
「あなたが覚えているのは、人ではなく結果なのね」
「黒冠が送り返すのは、国家の破滅に関わる記録と、強く残った感情だ。暮らした日々のすべてではない」
「では、五度生きた賢者のような顔をしないで。あなたが知っている未来は、穴だらけよ」
「そのとおりだ」
魔王は反論しなかった。それが謝罪の代わりになるわけではない。だが、自分の記憶を完全な真実として押しつける男ではないことはわかった。
アレクシアは、脇腹を貫いた剣を思い出した。
「黒冠に宝珠がないわ」
「もう戻れない」
その言葉だけは、静かだった。
「私の記憶があるのは、あなたの仕業?」
「黒冠を使った」
黒い文字が、魔王の胸元に一瞬だけ現れた。
――告げない。
その先は読めない。誰を傷つける秘密なのか、何を守るためなのかも。
《悪意の帳簿》は、答えを教えてくれる能力ではない。
「何を隠しているの」
「いま話せば、お前は私の説明ではなく、失った記憶に従って決める」
「私が決めるための情報を、あなたが選ぶのね」
「そうだ」
「最低」
「知っている」
魔王はまばたきもしなかった。
アレクシアは彼の頬を打った。
乾いた音が、広い部屋へ響く。
「これで婚姻の話は終わりです。馬車を用意なさい。帰国します」
「帰すことはできる」
意外な返事だった。
「国境まで護衛もつけよう。だが、戻った先で何をする?」
「あなたには関係ないわ」
「帰すと言いながら、私が帰れない理由を並べるのね」
「帰国を禁じるつもりはない。だが、安全な選択だと偽るつもりもない」
「あなたの隣へ残ることも安全ではないでしょう」
「ああ。黒冠院のうち、少なくとも二席はお前を外交上の人質にしたがっている。一席は、私が命じてもお前を殺す可能性がある」
「それを先に言いなさい」
「いま言った」
昔から、肝心なところで腹の立つ男だった。
「三日後、王家はお前とエドガーの婚約を解消する。お前はベアトリスを憎み、弟の秘密を教会へ流す」
「その命令は今朝、撤回した」
「一つは止められる。次は?」
アレクシアの指が動きを止めた。
「王子がお前ではなく彼女を選ぶたび、お前は自分の価値を奪われたと思う。旧派閥は、もう一度戦えば勝てるとささやく。家族はお前を守るために被害を小さく見せる」
「黙りなさい」
「七年後の結果を知っていても、人は一日で別人にはならない」
「黙れと言っているの!」
怒鳴った声が、自分でも驚くほど震えた。
魔王は、幼いころからそうだった。
アレクシアが最も見たくないものを見つける。そして慰めず、隠さず、目の前へ置く。
「だから私を閉じ込めるの?」
「閉じ込めたくはない。だが、お前の政治技術が必要だ」
「私の意思よりも?」
「二つの国が滅びるよりは軽い」
また、黒い文字が出た。
――彼女に憎まれても、生かす。
偽善ではない。彼は本当に、嫌われることを受け入れている。
それが余計に腹立たしかった。
「五度も失敗して、まだ一人で正解を決めるつもり?」
アレクシアは玉座へ近づいた。
「人間国へ帰れば同じ過ちを繰り返す。ここへ残れば、あなたの都合のいい道具。ずいぶん公平な選択肢を用意してくれたものね」
「ほかに条件があるなら言え」
「まず、妃になることと、ここへ残ることを分けなさい。明日の会議で条件が整わなければ、私は国境へ帰る」
「認める」
「会議までの部屋は、外から鍵をかけないこと。護衛は扉の外。私から家族へ書状を出す」
「認める」
「あなたが不利になる内容でも、検閲しない」
「国家機密を書かなければ」
「ようやく交渉らしくなったわね」
「妃になれと言ったわね」
「言った」
「魔王妃には、何の権限があるの」
魔王はわずかに眉を上げた。
「王統の補佐、宮廷の管理、儀礼上の共同署名。だが黒冠院の承認が必要だ」
「黒冠院?」
「王統、軍、資源、情報、古い盟約を握る五人の院だ。私は王だが、宣戦も講和も、王統に関わる婚姻も一人では決められない」
なるほど。
五度の失敗の理由が、少しだけ見えた。
「つまり、あなたの妃になっても、あなたに従うだけでは国を動かせない」
「そうだ」
「では、私自身の権限が必要ね」
「婚姻を受けるのか」
「まだよ」
アレクシアは、打たれて赤くなった魔王の頬を指した。
「まず、誘拐犯に妃を望む資格があるか査定します」
魔王だけが、かすかに笑った。
「明日、黒冠院を招集する」
「私を品定めするために?」
「お互いに、だ」
扉の外で、重い鐘が五度鳴った。
黒冠院の臨時会議を知らせる鐘だった。




