第7話「日没までの客人」
魔王国の馬車は、見た目に反して乗り心地がよかった。
車輪が石を踏むたび、座席の下で何かが淡く光る。揺れが消え、窓辺の銀飾りだけが小さく鳴った。
アレクシアは、その仕組みに感心している場合ではなかった。
「中立地帯での話し合いは、今日の日没まで。それが王家の許可した範囲です」
向かいに座る魔族の使者へ、三度目の確認をする。
「承知しております」
こめかみに小さな角を持つ男は、三度とも同じ答えを返した。
名はラウム。魔王の外務書記官だという。言葉は丁寧で、黒い文字も出ていない。
少なくとも彼は、アレクシアを中立地帯へ案内するつもりでいる。
公爵家を出るまでには、ひと騒ぎあった。
父は最後まで反対した。母は着替えも整っていない娘を外国の使節へ渡せないと主張し、マルタは旅行用の衣装箱を三つも用意しようとした。
アレクシアはすべて断った。
正式な和平使節を公爵邸で追い返せば、公爵家が両国の交渉を妨害したことになる。王家に疑われるだけならまだいい。主戦派に、和平を壊す口実まで与えてしまう。
「話を聞くだけです。日没までに戻らなければ、王城へ知らせてください」
そう言い残し、マルタと護衛二人だけを連れて馬車へ乗った。
本当は、魔王からの伝言が気になっていた。
――今度は、遅れない。
死ぬ直前に聞いた言葉と、まったく同じだった。
彼が七年前の記憶を持っている。それだけは間違いない。
けれど、どこまで覚えているのか。なぜ彼との最後の会話だけ、自分の記憶から抜け落ちているのか。
確かめなければならない。
馬車は昼過ぎ、人間国と魔王国の間にある中立地帯へ入った。
戦争で放棄された古い関所を、両国が会談所として使っている。白い石の建物にはどちらの旗もなく、門の左右に両国の兵が立っていた。
人間国の騎士が通行許可証を確かめる。
「公爵令嬢は日没までに帰国される。それで間違いないな」
「現在の命令では、そのとおりです」
ラウムの返事に、アレクシアは目を細めた。
「現在の?」
「国境で開封する追加命令がございます。私も内容は知らされておりません」
人間国の騎士が顔をしかめた。
「そのような話は聞いていない」
「ですから、ここで確認いたします」
ラウムは馬車を降り、護衛隊長から黒い筒を受け取った。筒の封には、双頭の獣と王冠が刻まれている。
魔王の印だった。
封を切ったラウムが、文面を追う。
彼の顔から、見る間に血の気が引いた。
「どうしたの」
「……命令が変更されました」
「行き先は?」
ラウムは一度目を閉じ、それから答えた。
「魔王都です」
人間国の護衛二人が剣へ手を伸ばす。
同時に、魔王国側の護衛が馬車を囲んだ。
殺気はない。しかし、通すつもりもなかった。
「話が違う!」
父からつけられた騎士が叫ぶ。
「私も、いま初めて知りました」
ラウムの声は苦かった。
「新たな命令は、公爵令嬢を魔王都まで無事にお連れすること。同行者はここから帰すこと。拒まれた場合も、令嬢の安全を最優先することです」
「それを誘拐というのよ」
アレクシアが言うと、ラウムは否定しなかった。
マルタがアレクシアの腕へしがみつく。
「お嬢様、お逃げください」
逃げ道を探す。
正面には人間国の騎士が六人。魔王国側は十二人。関所の北には森があり、南には浅い川がある。馬を奪えれば戻れる距離だ。
そのとき、黒い文字が現れた。
魔王国の護衛隊長から、アレクシアの胸へ細い線が伸びている。
――国境で騒げば、事故に見せかけて殺す。
列の後ろにいる弓兵からも。
――森へ逃げれば射る。責任は人間国の護衛へ負わせる。
さらに、人間国側の若い騎士から、別の黒い線が伸びた。
――令嬢が死ねば、魔族の裏切りを王子へ報告できる。
三者は仲間ではない。別々の思惑が、同じ死を望んでいる。
ここで逃げれば、最も喜ぶ者たちに望みどおりの結果を与える。
「マルタ」
「はい」
「あなたは戻りなさい」
「できません!」
「戻って、お父様へ伝えて。私は生きている。魔王本人から事情を聞くまでは、軍も、私に従う貴族たちも動かしてはならない、と」
アレクシアは声を落とした。
「それから、あの若い騎士を公爵邸へ入れないで。私の死を待っているわ」
マルタの顔が強張る。
「なぜ、そのようなことが」
「説明はあとよ。私の侍女でしょう。泣くより先に働きなさい」
叱られたマルタは唇を噛み、やがて深く頭を下げた。
「必ず、お迎えに参ります」
「ええ。その前に私が帰るかもしれないけれど」
アレクシアはラウムへ向き直った。
「魔王都へ行きます。ただし、私が同意したのは話を聞くことだけ。人質になった覚えはないと、あなたが証人になりなさい」
「承知しました」
ラウムは胸へ手を当てた。
「命令を知らなかったことを、帰国後の言い訳にはしません。追加命令を開いた場所と時刻、同行者を帰した経緯は、私の名で両国へ残します」
「当然よ」
アレクシアは彼の手元を見た。
「陛下の命令だったというなら、あなたの証言だけで終わらせないで」
「それと、そちらの護衛隊長を替えて」
魔王国の護衛隊長の眉が動く。
「理由をお聞きしても?」
「私が逃げたとき、殺してよいと考えているから」
「証拠は」
「ないわ。だから処罰しろとは言っていない。私の護衛から外しなさいと言ったの」
ラウムは隊長を見た。
隊長は怒りを隠したが、黒い文字は消えない。
「副隊長。ここから指揮を引き継げ」
ラウムが命じた。
隊長は異議を唱えず、列の最後へ下がった。
馬車が国境を越える。
景色は急に変わらなかった。同じ空、同じ森、同じ春の風。人間の国と魔族の国を分ける線など、地面には引かれていない。
それでも、もう引き返せない。
夕方、ラウムが一通の書状を見せた。
「人間国の王城へ、すでに同じものが送られています」
魔王の署名がある。
――アレクシア・エルデンブルク嬢は、両国の和平に必要な客人として魔王国が保護する。その身に関する責任は、すべて魔王が負う。
丁寧な言葉で書かれているが、意味は明らかだった。
「エドガーは、私が魔族に奪われた哀れな婚約者だと思うでしょうね」
「婚約解消が予定されているとは、陛下もご存じです」
「だからこそよ。彼は自分が捨てるのと、他人に奪われるのを同じだとは考えないもの」
日が沈むころ、魔王都が見えた。
黒い岩山を削って築かれた城。その上空を、翼を持つ魔族が旋回している。城門から王宮までの道には兵が並び、誰一人として人間の客人を歓迎していなかった。
最上段の広間で、黒い王冠をつけた少年が待っていた。
七年後より若い顔。同じ灰銀の瞳。
アレクシアが礼をする前に、彼は玉座から降りた。
「よく来た、レクシィ」
「連れてこさせた、の間違いでしょう」
「そうだ」
魔王は言い訳をしなかった。
そして、居並ぶ家臣たちの前で告げた。
「アレクシア。お前が私の妃になれ」




