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第6話「まだ誰も死んでいない朝」

 目を開けると、寝台の天蓋に春の光が透けていた。


 アレクシアは息を吸った。


 痛くない。


 脇腹へ手を当てる。剣に貫かれたはずの場所には傷も血もなく、薄い寝間着の下には滑らかな肌がある。


 起き上がった途端、長い金髪が肩からこぼれた。


 塔へ幽閉されてから、自分で切った髪。


 ここにはある。


 寝台脇の鏡を掴んだ。


 映った顔から、七年が消えている。頬はまだ痩せておらず、目元に疲労の影もない。十八歳のころの、自信と不満だけで満ちた顔だった。


「本当に……戻ったの」


 窓の外には公爵邸の庭が広がっている。


 燃えていない。


 朝露をまとったバラ。剪定ばさみを手に歩く庭師。厨房の煙突から上がる白い煙。どれも、戦争が始まってから失われたものだった。


 扉が開く。


「お嬢様! どうなさいました?」


 侍女が駆け込んだ。


 マルタ。


 塔へ幽閉されたアレクシアに、最後まで食事を運んだ年配の侍女。王都陥落の半年前、薬が手に入らず病死した。


 いまは頬に血色があり、茶色の髪にも白いものが少ない。


「マルタ」


「はい」


 アレクシアは寝台から降り、彼女の肩を掴んだ。


「生きているのね」


「……はい?」


「どこか痛いところは? 咳は? 胸の苦しさは?」


「ございません。お嬢様こそ、ひどい汗です。怖い夢でも?」


 夢。


 そう呼べれば楽だった。


 けれど、アレクシアはマルタの死に顔を覚えている。燃える王都のにおいも、脇腹を刺し貫いた剣の冷たさも。


 そして、許さないと告げたベアトリスの声も。


 ただし、魔王と交わした最後の会話だけが曇っている。


 黒い王冠。砕けた宝珠。彼が何度も世界を失ったという告白。断片的な記憶はある。けれど、なぜ自分まで戻ったのか、誰がそれを選んだのかを思い出そうとすると、死の痛みと白い光が記憶を塗りつぶしてしまう。


 彼に何かを約束した気がする。


 しかし、何を。


「お父様とお母様は?」


「食堂にいらっしゃいます。旦那様は、今日お城へ行く件について、お嬢様とお話があると」


「お城へ……」


 鏡台の横に、日付札がある。


 七年前。


 婚約解消を王家が正式に審議する、三日前だった。


 アレクシアは椅子へ腰を下ろした。


 このころの自分は、まだ勝てると思っていた。


 ベアトリスを宮廷から追い出せば、エドガーの心も、王妃の座も取り戻せる。そのために、自分へ従う貴族たちへ次の噂を流すよう命じ、シリルの体質を調べる医師まで買収していた。


「机の鍵を」


「ですが、お支度が」


「先に鍵よ」


 マルタが鍵束を渡す。


 アレクシアは机の最下段を開けた。


 押し花のしおりが入っている。


 ベアトリスと友人だったころ、二人で作ったものだ。アレクシアは友情を捨てた日に破いたつもりだったが、半分だけを手元へ残していた。


 その下には、暗号で書かれた命令書がある。


 ――ベアトリスの弟を診察した医師へ接触する。


 ――異種族の特徴が王家へ入る危険を、教会関係者へほのめかす。


 ――出所が公爵家だと悟られないようにする。


 十八歳の自分の筆跡だった。


 黒い文字が、紙の上ではなく自分の指先から浮かんだ気がした。


 アレクシアは命令書を机のろうそくへ近づけた。


「お嬢様?」


「これと同じ印で封をした書状が、昨日までに何通出た?」


「二通ございます。今朝、もう一通を教会へ」


「止めなさい」


 燃える紙を銀の皿へ落とす。


「すべて回収して。受け取った者へは、公爵家の名で命令を撤回したと伝えるの。理由を問われたら、私の気が変わったと言いなさい」


「ですが、それでは相手に弱みを――」


「私が始めたことよ。私が止める」


 マルタが下がろうとしたとき、アレクシアはもう一つ命じた。


「三日後の審議に、私は出ません」


「弁明の機会でございます」


「二度目の弁明は要らないわ。前も、しなかったもの」


 マルタは意味が分からない顔をした。


 アレクシアは机へ紙を置き、自分で書いた。婚約解消に異議を申し立てないこと。王家へ賠償を求めないこと。公爵家の名で撤回を働きかけないこと。


 十八歳の筆跡で、王妃の座を手放す文章を書くのは、思ったより静かな作業だった。


 あの席は、七年後に燃える。


 マルタは戸惑いながらも一礼した。


 部屋を出ようとした彼女を、アレクシアは呼び止める。


「それから医師を呼んで」


「やはりご気分が?」


「あなたの診察よ」


「わたくしは元気です」


「咳が出る前に診せなさい。これは命令」


 マルタは困った顔で笑った。


「かしこまりました」


 一人になると、アレクシアは窓を開けた。


 春の空気が入る。


 七年ある。


 七年後、エドガーは国境の事件を受け、調査を待たずに軍を越境させる。人間軍は罠にはまり、魔王国が侵攻する。王都は陥落する。


 父は領地軍とともに戦死した。母は避難の途中で消息を絶った。マルタは病死し、使用人の多くは散り散りになった。


 それを変えられる。


 エドガーへ未来を話すべきか。


 一瞬だけ考え、すぐ捨てた。


 彼は信じないだろう。信じたとしても、目の前の誰かを救うためなら、国家に必要な手続きを飛ばしてしまう性質は変わらない。


 では、ベアトリスへ?


 アレクシアは半分だけ残った押し花を見る。


 会いに行き、謝罪する。未来を知っていると話し、協力を求める。


 考えるだけなら簡単だった。


 実際に彼女の前へ立つ自分を想像すると、指が冷えた。


 いまのベアトリスは、まだ王妃ではない。アレクシアにいじめられ、弟の噂に怯えながら、それでもエドガーを信じている十八歳の少女だ。


 その彼女へ、七年後に弟を救ったから協力しろと言えるはずがない。


「……臆病ね」


 アレクシアは自嘲した。


 反逆将軍の前へ一人で出るより、ベアトリスへ謝るほうが怖い。


 廊下が騒がしくなった。


 蹄の音が近づいてくる。一頭や二頭ではない。正門の前で止まり、地面を揺らした。


 窓から身を乗り出す。


 公爵邸の門前に、黒い馬車が三台並んでいた。


 車体には、休戦中の使節であることを示す白い布が結ばれている。扉には頭が二つある獣の銀印。その前には、王家の通行許可証を持った人間国の騎士までいた。


 魔王国から来た、正式な和平使節団だ。


 王城での話し合いを終え、帰国する予定だったはずだ。それがなぜ、公爵邸へ来たのか。


 正門で父の怒声がした。


 アレクシアは上着だけを羽織り、階段を駆け下りた。


 玄関広間には公爵夫妻、護衛、使用人が集まっている。父が剣を抜き、母が青ざめた顔でアレクシアを抱き寄せた。


「下がっていなさい」


「お父様」


「魔王の使者だ。王城からまっすぐ国へ戻るはずでは……」


 扉が三度叩かれた。


 護衛が開くと、黒い礼服をまとった使者が一人、敷居の外に立っていた。人間に近い姿だが、こめかみに小さな角がある。


 使者は公爵ではなく、まっすぐアレクシアを見た。


「アレクシア・エルデンブルク公爵令嬢」


「ええ、私よ」


 使者は右手を胸へ当て、深く一礼した。


「魔王陛下の命により、両国の和平に関する特別な話し合いへ、令嬢をお招きに参りました」


「なぜ娘が必要なのだ」


 父が剣を下ろさないまま聞いた。


「申し訳ありません。理由は私にも知らされておりません。令嬢を無事にお連れし、返事は陛下から直接うかがうようにと命じられただけです」


 使者の言葉にも、その周りにも、誰かをだます黒い文字は出ていない。


 少なくとも彼は、自分が理由を知らされていないと信じている。


「魔王から、私への伝言は?」


「一言だけ、お預かりしております」


 使者は顔を上げた。


「――今度は、遅れない」


 父も母も、その意味がわからずアレクシアを見た。


 アレクシアだけが、死ぬ直前に見た灰銀の目を思い出した。あの魔王が、死んだと聞かされていたアル本人であることも忘れてはいない。


 寝間着の裾を握り、笑う。


「和平の話し合いにしては、ずいぶん物騒なお迎えね」


 六度目の世界が、始まった。

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