第5話「六度目の魔王」
レクシィ。
その呼び名を知っている者は、もういない。
幼いころのアレクシアは、自分の長い名をうまく発音できなかった。公爵邸へ預けられていた一人の少年だけが、その舌足らずな音を面白がって呼び続けた。
黒い髪と、灰銀の瞳をした少年。
人間国と魔王国の和平を保証するため、身分を隠して送られた人質。
彼は十歳の冬にいなくなった。
帰国の馬車が襲われ、死んだと聞かされた。
「アル……?」
記憶にある偽名を呼ぶと、魔王の目が揺れた。
それだけで答えは十分だった。
「生きていたの」
「ああ」
「なら、どうして」
どうして知らせなかった。
どうして敵国の王になった。
どうして自分の国を滅ぼした。
いくつもの問いが浮かんだが、声にならない。
傷口を押さえる魔王の手からも、血が流れている。彼の胸元を濡らす赤は、返り血だけではなかった。
「陛下、治療を!」
軍用テントの外から駆け込んだ老将が叫ぶ。
「火印が砦冠派に奪われました。地印を守る部隊は魔王陛下を裏切り、水印とも連絡がつきません。三つの印を失いました。このままでは――」
「わかっている」
魔王は短く答えた。
「正規軍を市街地へ回せ。略奪隊を制圧し、人間の避難路を守れ」
「しかし陛下をお運びしなければ」
「私はもう助からない」
老将が言葉を失った。
魔王は黒い外套を開いた。
脇腹から胸へ、深い傷が走っている。将軍と同じように、彼も致命傷を負っていた。傷の周りが紫色に変わり、魔力をむしばむ毒が全身へ広がっている。
「将軍が?」
アレクシアが尋ねた。
「私を王都へ誘い出す前に仕込んだ。五つの国家印のうち三つを失い、王が致命傷を負う。条件はそろった」
残っているのは、源流神殿の《水印》と、王墓の《盟印》だけだった。
「何の条件」
魔王は答える代わりに、頭上の冠へ手を伸ばした。
光をほとんど反さない黒い金属で作られた、細い王冠。その縁には六つのくぼみがあった。四つは空で、残る二つに夜色の宝珠がはまっている。
触れた指先から、低い音が響いた。
鐘ではない。地面のずっと深くで、巨大な何かが目を覚ます音だった。
テントの外にいる者たちが息をのむ。
「全員、下がれ」
「陛下!」
「これは王命だ。生き残り、民を守れ」
老将は歯を食いしばり、拳を胸へ当てた。
「はい」
兵たちがテントから退く。
死者と、死にかけた王と、死にかけた悪女だけが残った。
「《七生の黒冠》」
魔王が言った。
「建国王が、最大六度まで世界をやり直し、七つの生を歩むために残したものだ。国が終わり、魔王も死ぬとき、戴冠した日の朝へ記録を送り返す」
「時間を、戻すの」
「世界をだ」
アレクシアは笑おうとした。血が喉へ入り、咳になった。
「都合のよい話」
「都合がよければ、残りは二つになっていない」
四つの空いたくぼみ。
彼がさきほど口にした言葉を思い出す。
何度も同じ欲に負けてやるほど。
「何回目?」
「この世界が五度目だ」
「四回もやり直して、また国を滅ぼしたの?」
「そうだ」
怒る気力も失うほど、潔い答えだった。
「一度目は人間国を滅ぼし、占領地の反乱で魔王国も壊した。次は譲歩しすぎて侵略された。主戦派を先に処罰した世界では、内戦になった。エドガーを排除し、ベアトリスを保護した世界では、彼女を暗殺され、私の犯行として聖戦を起こされた」
「今回は早く征服した」
「犠牲を減らせると思った」
「結果はこれ」
「ああ」
アレクシアは目を閉じた。
不思議と、憎しみはわかなかった。
目の前の男を責めるより先に、積み重ねられた失敗の重さにめまいがした。
「あなた、統治に向いていないのではなくて?」
「五度目にして、ようやく同じ疑いを持った」
声に、かすかな笑いが混じった。
幼いころの彼も、アレクシアが辛辣なことを言うと、そうやって笑った。
「それで、六度目は?」
「お前を選ぶ」
アレクシアは目を開けた。
「私?」
「私は人間国の王を変え、戦場を変え、条約を変え、敵を殺した。だが魔王国の内側を変えられなかった。和平を望めば、主戦派が私を王の座から下ろす。戦えば人間国を滅ぼし、その血で魔王国も壊れる」
「私に何ができるの」
「反逆将軍の企みを、私より先に見抜いた」
「見えただけよ」
「避難路を作った。敵軍を分裂させた。私の軍で、私の命令を取り戻した」
魔王の手が、アレクシアの血で赤く染まっている。
「お前が王子の恋人へ向けた技術を、今度は私の国を食い潰す者たちへ向けろ」
「ずいぶんな誘い文句ね」
「美しい言葉で誘っても、お前は信じない」
そのとおりだった。
「一つ目の珠で世界を戻す。だが、お前の記憶は戻らない。二つ目を使えば、お前の魂へこの人生を結びつけられる」
「最後の二つを、同時に使うの」
「次はない」
「私が失敗しても?」
「ない」
「途中であなたを裏切っても?」
「ない」
「私が、またベアトリスを傷つけても」
魔王はすぐに答えなかった。
「そのときは私が止める」
優しい慰めではなかった。
アレクシアを善人と信じているわけでもない。彼女が同じ悪事を選ぶ可能性を認めたうえで、それでも使うと言っている。
それが妙に心地よかった。
「シリルは」
アレクシアは尋ねた。
「水路へ逃がした者たちは、生きている?」
「先ほど斥候から報告があった。旧水路から出た避難者は南広場へ着いた。十五歳ほどの少年も、王妃と合流したそうだ。第三守備隊が道を守っている」
アレクシアは、泥だらけのシリルがベアトリスへ抱きしめられる光景を思い浮かべた。
「生きている」
「そう」
それなら、もうよかった。
自分だけが死ぬ結末は、敗北には違いない。けれど、すべてを失ったわけではない。
「次があるなら」
魔王の声が遠くなる。
「私と来るか。今度こそ、二つの国を救うために」
アレクシアは考えた。
父と母。公爵邸で自分に仕え続けた者たち。南広場の市民。許さないと言ったベアトリス。自分を売った人だと言いながら、死んでほしくないと言ったシリル。
そして、死んだと思っていた少年。
幼い二人は、公爵邸の池に木の葉の船を浮かべた。
『いつか、両方の国の船が同じ川を通れるといいね』
『なら、私が王妃になって命令するわ』
『僕も王になって命令する』
『それなら喧嘩にならないわね』
子どもの約束だった。
王妃にはなれなかった。王になった少年も五度失敗した。
それでも、約束が間違いだったことにはならない。
「いいわ」
アレクシアは魔王の手首をつかんだ。
「六度目では、私を利用しなさい」
魔王が息を止める。
「私もあなたを利用する。私に服従を求めないこと。私の国を勝手に滅ぼさないこと。途中で諦めて、格好よく死のうとしないこと」
「契約か」
「口約束よ。正式な条文は次で作らせるわ」
魔王は、今度こそ笑った。
「承知した、レクシィ」
「その名で呼ばないで」
「次では忘れているかもしれない」
「何を?」
問い終える前に、一つ目の宝珠が砕けた。
世界が、裏返る。
炎が城の塔へ戻り、崩れた石が空へ昇る。死者の血が地面から体へ吸い込まれ、倒れた兵が立ち上がる。七年分の雨が空へ帰っていく。
二つ目の宝珠に亀裂が走った。
痛みも、怒りも、ベアトリスの言葉も、シリルの瞳も、アレクシアの魂へ焼きつけられていく。
最後に残ったのは、魔王の灰銀の瞳だった。
「今度は、遅れない」
その声を聞きながら、アレクシアは二十五歳の人生を終えた。




