第4話「反逆者の帳簿」
アレクシアは敵兵の前へ両手を上げて出た。
「降伏するわ」
黒い鎧の兵たちは、あまりにも素直な獲物を前に戸惑った。
先頭の角ある兵が槍を向ける。
「名を言え、人間」
「アレクシア・エルデンブルク。公爵家の娘で、前王太子の元婚約者。あなた方の将軍にとって、殺すより使い道のある人質よ」
半分は嘘で、半分は事実だった。
公爵家がまだ残っていれば、人質になる。王家から切り捨てられた身でも、敵国は細かな事情を知らない。
兵の背後に浮かぶ黒い線は、魔王軍の本陣の西側へ続いていた。
反逆将軍に会わなければならない。
その先のことは考えていなかった。
「縛れ」
両手を縄で縛られ、アレクシアは燃える王都を歩かされた。
逃げる市民から荷物を奪う兵がいる。一方で、けがをした人間の子を抱え、安全な路地へ運ぶ魔族兵もいた。略奪を止める隊と、自分から火を放つ隊が、同じ軍旗の下で別の命令に従っている。
軍の規律が乱れているのではない。
命令を出す者が二人いるのだ。
魔王の命令と、反逆将軍の命令。
王城前の広場には、軍の仮設陣地が作られていた。中央の大きな軍用テントだけが、勝利を祝うように赤いかがり火で照らされている。
アレクシアは中へ押し込まれた。
将軍は人間の王座からはがした金箔のかけらを、指先で転がしていた。
大柄な魔族だった。額から伸びる二本の角に金の輪をはめ、深い赤の外套をまとっている。机には王都の地図と、封を開けられた命令書が並んでいた。
彼の周囲には、黒い文字が濃すぎるほど浮かんでいた。
――略奪禁止令を破棄。
――王都守備隊へ降伏を求める手紙を届けた兵を殺した。
――火印、地印、水印を守る部隊へ偽の命令を送り、現魔王を裏切らせる。
――人間王都での虐殺を現魔王の責任にし、黒冠院へ退位を要求する。
――魔王を退位させたあと、自分が代わりに国を動かす。
これほどわかりやすい悪意は久しぶりだった。
アレクシアは少し安心した。
善人より、こういう男のほうが扱いやすい。
「人間の公爵令嬢だそうだな」
「将軍閣下にお会いできて光栄ですわ」
「命乞いに来たか」
「取引に」
将軍は笑った。
「国も婚約者も失った女が、何を差し出す」
「あなたがまだ手に入れていないもの」
「ほう」
「魔王の首」
テントの空気が変わった。
周囲の副官たちが武器へ手をかける。将軍だけが動かない。
黒い文字が一行増えた。
――人間の女を利用し、魔王暗殺を正当化する。
食いついた。
「続けろ」
「魔王は王城へ入るのでしょう? この国を征服した王として、王座へ座るために。私は王城の抜け道を知っています。あなたの兵を入れられる」
「なぜ魔王を殺したい」
「私の国を滅ぼしたから」
これは事実だ。
将軍には嘘と事実の区別がつかない。ただ、自分に都合のよい説明を真実と思いたがっている。
「案内させろ」
将軍が副官へ命じた。
「その前に、一つ確認を」
「何だ」
「あなたは本当に、魔王を殺せる立場にいるの?」
アレクシアは机の上の命令書へ目を落とした。
「王の命令をまねた手紙は立派です。でも、封に使った印が違う」
将軍の眉が動く。
「人間に何がわかる」
「わかるわ。あなた方が奪った王家の書庫で、外交文書を何年も扱ってきたもの。魔王の印は、頭が二つある獣。けれど、この封の印には右の牙がない。急いで複製した者が、古い形を使ったのでしょう」
副官の一人が命令書を見る。
「それに、略奪している兵の肩印は黒い糸が三本。負傷者を助けている正規軍は銀の糸が二本。あなたは自分の兵だけに別の命令を出した」
「黙れ」
「そして北方要塞の《剣印》、中央穀倉の《地印》、王都炉の《火印》へ離反命令を送った。国の土地と住民を王家へつなぎ止める礎を、三つとも王から切り離すためよ。魔王国を守るためではない。国を滅亡寸前へ追い込み、魔王を廃位させるために」
「黙れ!」
将軍が立ち上がった。
アレクシアはテントの外へ届くよう声を張った。
「聞きなさい、魔王軍の兵士たち! あなた方の将軍は王命を偽造した! 人間国を征服したあと、三つの国家印を奪い、あなた方の魔王を殺すつもりよ!」
将軍の拳が頬へ飛んだ。
地面へ倒れ、口の中に血の味が広がる。
「人間の女一人のたわごとを、誰が信じる」
「あなたが、いま証明したでしょう」
アレクシアは血を吐き、笑った。
「本当に無実なら、私を殴る前に命令書を調べさせればよかった」
テントの外が騒がしい。
正規兵と私兵が言い争っている。将軍の副官たちも互いの顔を見ていた。
悪意の帳簿は証拠にならない。
だが、悪人がどの証拠を恐れるかは教えてくれる。
将軍が剣を抜いた。
「殺せば、ますます疑われますわよ」
「ならば疑う者も全員殺す」
そう言ってしまえる男だから、反逆は成功しない。
けれど、失敗するまでに大勢が死ぬ。
「将軍! 北方隊が命令を拒否しました!」
伝令兵がテントへ飛び込んだ。
「源流神殿からも返答がありません! 正規軍がこちらへ――」
将軍の剣が光った。
伝令の声が途切れる。
アレクシアの脇腹へ、冷たいものが入った。
一瞬遅れて、焼けるような痛みが弾けた。
剣が引き抜かれる。膝から力が抜けた。
「お前さえ来なければ」
将軍の顔が歪んでいる。
「人間の悪女ごときが、余計な真似を」
「悪女だから……わかったのよ」
アレクシアは傷を押さえた。指の間から血があふれる。
「善人には、あなたのような者の考えは……難しすぎるでしょうから」
テントの外で、重い衝撃音がした。
かがり火が一斉に消える。
夜より濃い闇が、陣地を覆った。
兵たちが次々とひざまずく音が広がった。
「陛下……」
誰かが震える声で言った。
テントの入口に、黒い王冠をつけた青年が立っていた。
二十五歳ほどの青年だった。漆黒の髪、灰銀の瞳。黒い外套の胸元は血に濡れ、左腕は動いていなかった。
若い。
それなのに、その目には一人の人生では抱えきれないほどの疲れがあった。
「反逆の疑いにより、軍の指揮権を取り上げる」
魔王の声は静かだった。
将軍が剣を構える。
「人間の女の言葉を信じるのですか!」
「いや」
魔王は机の命令書を見た。
「私の印を粗末に偽造した、お前の油断を信じる」
将軍が踏み込んだ。
黒い光が一度走った。
次の瞬間、将軍の剣と角が地へ落ちていた。
魔王は剣を返し、その胸を貫いた。
「何度も同じ欲に負けてやるほど、私は気が長くない」
その言葉の意味を聞く余裕はなかった。
アレクシアの身体から、急速に熱が失われていく。
魔王が剣を捨て、彼女の前にひざをついた。
灰銀の瞳が大きく見開かれる。
「遅かった」
彼は、敵国の悪女を見る顔をしていなかった。
「また、遅かったのか」
震える指がアレクシアの頬に触れる。
その触れ方を、彼女は知っている気がした。
「……誰?」
魔王は答えず、とうに誰も呼ばなくなった幼い名を口にした。
「レクシィ」
アレクシアの時間が止まった。




