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第3話「悪意の避難路」

 善意だけで人は動かない。


 少なくとも、王都が燃えている日には。


「荷車を貸してくださる?」


 東の染物組合長は、作業場の扉を半分だけ開けたまま、アレクシアをにらんだ。


「馬は避難に出しました。車だけあっても動きませんよ」


 背後の倉庫から、馬が鼻を鳴らす音がした。


 アレクシアの視界に黒い文字が浮かぶ。


 ――組合の馬は六頭。そのうち四頭を自分の馬だと偽っている。


 ――染料の樽の下に、銀貨と持ち込みを禁じられた品を隠している。


 ――南門混乱後、荷を捨てた市民から通行料を取る予定。


「そう。では、奥で鳴いたのは組合長のお子さまかしら」


「何を――」


「青染料の第三倉庫に銀貨を隠すのはおすすめしないわ。火が回れば樽が割れて、床下の帳簿まで青く染まるもの」


 組合長の顔色が変わった。


「荷車五台、馬四頭。御者もつけて。救護所へ届けたら、あなたの倉庫については黙っていてあげる」


「強盗だ」


「ええ。訴える裁判所が残ったら、ぜひ」


 アレクシアは微笑んだ。


「ただし、荷車のうち一台はあなたの家族に使わせる。私が市民を通す道へ合流すれば、南門まで護衛付きよ。悪くない取引でしょう?」


 全部を奪えば恨みが残る。相手が一番守りたいものを残してやれば、脅しも取引に見える。


 組合長は唇を噛み、倉庫を振り返った。


「……四台だ。五台目は車軸が弱い」


「修理職人をつけるなら許すわ」


「あんたは悪魔だ」


「今日だけは魔族と間違えないでちょうだい」


 荷車を用意するまで、十五分。


 次にアレクシアは浴場の地下貯水槽を開けさせ、逃げた薬師組合長の愛人から薬品庫の鍵を受け取った。どちらも頼み込んではいない。横領、不倫、脱税。平和な日なら人を破滅させる秘密が、今日だけは水と薬に変わる。


 人の悪意そのものに、使い道は決まっていない。


 選ぶのは、それを見る人間だ。


 問題は道だった。


 南広場から旧水門地区へ続く大通りは火にふさがれ、脇道には避難民があふれている。守備兵は東門へ向かう軍を優先し、市民を道端へ押し戻していた。


「軍令だ! 道を空けろ!」


 隊長が馬上から怒鳴る。二十人ほどの兵が、泣く子どもを抱えた母親まで盾で押した。


 その周囲に、いくつもの黒い文字が浮かんでいた。


 ――戦線へ着く前に、隊から離脱する。


 ――武器を捨て、避難民に紛れる。


 ――混乱の責任を副官に負わせる。


 隊長は国を守るために急いでいるのではない。逃げやすい場所まで、部下を自分の護衛として使うつもりだ。


「隊長」


 アレクシアは馬の前へ立った。


「どけ、女!」


「第三守備隊は東門へ向かう命令を受けたのね?」


「そうだ。軍令を妨害する者は斬るぞ」


「おかしいわね。東門は夜明けに落ちたと、北塔から見えたけれど」


 兵たちがざわめく。


 隊長の右手が剣へ動いた。


「偽情報を――」


「あなた、隊を連れたまま南の倉庫街へ向かい、そこで軍服を脱ぐつもりでしょう。私ならその先の革工房は選ばないわ。工房主はすでに逃げていて、着替えは残っていないもの」


「黙れ!」


 剣が抜かれるより早く、アレクシアは声を張った。


「第三守備隊の皆さん! 隊長は東門へ行かない! あなた方を脱走の盾に使い、最後は軍令違反の責任を押しつけるつもりよ!」


 兵士たちの視線が馬上へ集まる。


 悪意の帳簿は、アレクシアにしか見えない。


 証拠はない。


 だから、相手自身に証拠を出させる。


「嘘だと思うなら、隊長が馬の鞍に下げた袋を調べなさい。軍の命令書ではなく、着替えと食料、それに部下全員の名を書いた違反報告書が入っているわ」


 副官が隊長を見る。


 隊長は剣をアレクシアへ向けず、鞍の袋をかばった。


 それで十分だった。


 兵たちが馬を取り囲む。怒鳴り声が上がり、隊長が引きずり下ろされた。


 アレクシアは副官へ言った。


「東門は落ちた。南広場には負傷者がいる。あなた方が避難路を守れば、王妃陛下の名で任務として記録させるわ」


「あなたに、その権限が?」


「ないわ」


「は?」


「でも、王妃陛下は広場にいる。確認したければ、一緒に来なさい」


 副官は一瞬、あっけに取られた。


 やがて笑った。疲れ切った、短い笑いだった。


「正直なのか嘘つきなのか、わからん女だ」


「使える女かどうかだけ考えなさい」


 第三守備隊は進路を変えた。


 こうして荷車、水、薬、護衛が揃った。


 アレクシアは救護所へ戻らず、集めた兵士の一部を連れて旧水門地区へ向かった。ベアトリスには約束どおり荷車を渡した。彼女は理由を聞かず、市民を乗せ始めた。


 旧水門地区は、王都で最も低い場所にある。


 昔は、川から引いた水を街へ配る施設だった。新しい水道ができてからは、倉庫と貧民街に変わっている。異種族の特徴を持つ者を集めた「保護施設」も、古い管理所の一つを使っていた。


 通りへ入った途端、十五歳ほどの少年が飛び出してきた。


「姉上は?」


 シリルだった。


 七年前には幼かった顔が細く伸び、ベアトリスと同じ茶色の髪が頬へ張りついている。首元を布で固く巻き、片目を閉じていた。


「生きているわ。南広場で大勢を救っている」


 シリルはほっとしたあと、アレクシアの顔を見て身をこわばらせた。


「どうして、あなたが」


「ほかに暇な者がいなかったの」


「僕を売った人でしょう」


 守備兵たちが息を呑んだ。


 アレクシアは否定しなかった。


「ええ」


 シリルの瞳を透明な膜が覆った。涙を守るように一度閉じ、すぐに消える。


「では、なぜ助けに来たのです」


「それを説明している時間が惜しいわ。歩ける者を集めなさい」


 管理所にはシリルのほか、老人、子ども、異種族の特徴を疑われた者が二十人ほど残されていた。研究官と警備兵は逃げている。


 正面通りの向こうに、魔王国の黒旗が見えた。


「戻れない」


 副官が言った。


「路地へ先頭の兵が入った。荷車では抜けられん」


 シリルが古い水門へ顔を向けた。


「下を、水が流れています」


「地下水路は閉鎖されているわ」


「閉じているのは上の扉だけです。下の水は生きています」


 少年は壁へ手を当てた。


「三番水門を開けば、管理路へ水が上がる。腰までなら歩けます。南広場の浴場近くへ出るはずです」


 副官が疑わしげに見る。


 アレクシアは旧水門の鍵を取り出した。


「信じるわ」


 シリルが驚いた。


「なぜ」


「あなたが嘘をつく利益がないから」


 本当は違う。


 ベアトリスが弟の感覚を、誰よりも信じていたからだ。


 だが、それを口にする資格はない気がした。


 三番水門を開くと、地下から冷たい風が吹き上がった。管理路へ濁った水が勢いよく流れ込む。兵士が先に立ち、子どもと老人を荷台へ乗せた。


 最後の一人を水路へ入れたとき、アレクシアは振り返った。


 黒旗の兵が路地の入口へ現れている。


 その一団から、細い黒線が空へ伸びていた。


 一本ではない。略奪、放火、捕虜の口封じ。いくつもの企みが束になり、王城の向こうにある魔王軍の本陣へ向かう。


 いや、本陣で終わっていない。


 線はさらに北東へ伸びている。人間国の首都から、魔王国の領土へ。


 そこには、もっと大きな文字があった。


 ――現魔王に敗戦の責任を負わせ、三つの国家印を奪う。


 ――人間国での略奪を禁じた王命を書き換える。


 ――両国の滅亡を利用し、自分が王になる。


「魔王軍の将軍が、魔王へ反逆しようとしている……?」


「何を言っている!」


 副官が叫ぶ。


 アレクシアは地下水路の扉を閉めた。


「皆を南広場へ。シリルをベアトリスのところまで送りなさい」


「あなたは?」


「忘れ物を取りに行くわ」


 シリルが濁流の中から振り返った。


「死にますよ」


「そうかもしれないわね」


「姉上は、あなたに助けてほしいとは言っても、死んでほしいとは言っていない」


 アレクシアは答えられなかった。


 自分を心配する善意には、いつも答え方がわからない。


「あなたのお姉さまに伝えて」


 重い扉へ手をかける。


「借りを一つ返しただけだと」


 扉を閉じ、内側から太い横木をかけた。


 向こうからシリルが叩く音がした。


 アレクシアは一人、魔王軍の待つ地上へ戻った。

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