第2話「許さない協力」
南広場の救護所は、王立劇場から外した幕で作られていた。
青い布には、金の糸でオルドリック王家の紋章が縫われている。昨日まで王家の威厳を示していた布が、今日は泥の上で負傷者を覆い、血に汚れていた。
「水を沸かして! その包帯はまだ使わないで、こちらへ!」
煙とうめき声の中でも、ベアトリスの声はよく通った。
王妃の冠はない。淡い茶色の髪を後ろで乱雑に束ね、灰色の作業着には血の跡がいくつもある。宝石はすべて外し、結婚指輪だけを残していた。
七年前より痩せた。頬の柔らかさは消え、目元には眠れない日々の影がある。
それでも、負傷兵へ水を飲ませる横顔は、アレクシアの記憶にある少女のままだった。
十六歳の春。宮廷へ来たばかりのベアトリス・リンデは、昼の食事会で、夜会でするような深い礼をした。
リンデ家は、国境の川辺に古くから続く家だった。だが領地は戦争のたびに削られ、宮廷の序列では、名前を覚える価値もない家とされていた。
令嬢たちが笑った。
アレクシアは扇を閉じ、一番大きな声で笑った伯爵令嬢へ言った。
『まあ、よほど余裕がおありなのね。ご自分の右手が、さっきから砂糖まみれなのにもお気づきにならないなんて』
笑いの標的が移った。
その夜から、アレクシアはベアトリスへ礼法を教えた。歩き方、視線の置き方、名前を忘れた相手へ気づかれずに尋ねる方法。ベアトリスは覚えが遅かったが、間違いを笑われても、教えた相手を恨まなかった。
『アレクシア様は、怖い方だと思っていました』
『間違いではないわ』
『でも、お優しいところもあるのですね』
『それは間違いよ』
二人で笑ったこともあった。
あのころはまだ、本当に友人だった。
先にアレクシアへ気づいたのは、救護所を守る兵士だった。汚れた金髪と破れた囚人服を見て、剣へ手を伸ばす。
「そのまま」
アレクシアは両手を見せた。
「武器は持っていないわ。持っているように見えるなら、あなたは少し休むべきね」
「アレクシア・エルデンブルク……?」
ざわめきが広がった。
悪女。王妃を虐げた女。戦争の最中にも王家を倒そうと企み、塔へ幽閉された公爵令嬢。
広場の視線が突き刺さる。
ベアトリスが顔を上げた。
二人の間には負傷者の列と、七年分の時間があった。
「どうして、ここに」
声に喜びはない。憎しみも、帳簿に映る悪意もなかった。
ただ警戒している。当然だった。
「塔から逃げてきたの。ごきげんよう、王妃陛下。お忙しそうね」
「いま、その挨拶をするのですか」
「ほかの挨拶を習っていないもの」
ベアトリスの口元が、ほんの少しだけ動いた。笑ったのではない。笑いそうになった自分を止めたのだ。
アレクシアはそれを見なかったことにした。
「北門へ向かうなら止めません」
「あなたは?」
「ここに残ります」
「夫には置いていかれたのに?」
周囲が静まった。
ベアトリスは傷ついた顔をした。だが目を逸らさない。
「陛下は西方軍をまとめるために出られました」
「王都の守備兵を半分引き抜いて?」
「……その判断が正しかったとは言いません」
予想外の答えだった。
昔のベアトリスなら、エドガーを信じると言っただろう。誰かを信じることと、事実を見ることは別だと、この七年で覚えたらしい。
「それでも私は王妃です。ここにいる方々を置いてはいけません」
「そう」
アレクシアは周囲を見た。
水が足りない。薬も足りない。運搬用の荷車は二台。一台は車軸が割れている。南門へ続く大通りにも、火が回り始めていた。
これでは三十分も持たない。
「東の染物組合に大きな荷車が五台あるわ。劇場裏の井戸は濁っているけれど、向かいの浴場には地下貯水槽がある。薬師組合長は北へ逃げたけれど、薬品庫の鍵を愛人に預けている」
救護兵たちがアレクシアを見る。
ベアトリスは眉を寄せた。
「どうして知っているのです」
「嫌われ者は、人の秘密に詳しいのよ」
「その情報の対価は?」
「何も」
「あなたが?」
「失礼ね」
「そう思わせたのは、あなたです」
返す言葉がなかった。
ベアトリスが一歩近づく。作業着の裾が血と泥を吸っている。
「アレクシア様。お願いがあります」
昔と同じ呼び方だった。
アレクシアは胸の内側を爪で引っかかれたように感じた。
「お断りするわ」
「まだ何も言っていません」
「あなたの頼みを聞く義理がないもの」
「ええ。私にも、あなたを信じる理由はありません」
ベアトリスの目に初めて、抑えていた感情が浮かんだ。
「でも、シリルが旧水門地区にいるのです」
アレクシアは息を止めた。
ベアトリスの弟。十歳年下の、静かな子ども。
鎖骨の近くに薄い鱗がある。まぶしい場所では、人間にはない透明な膜が瞳を覆う。幼いころから、壁の向こうを流れる水まで感じ取れた。
ベアトリスがその秘密を話したのは、アレクシア一人だった。
『弟は怪物ではありません』
『当然でしょう』
『誰にも言わないでくださいますか』
『あなたは私を何だと思っているの』
その半年後、アレクシアは秘密を使った。
王家へ魔族の血を入れるつもりか。ベアトリスは弟を隠して王子へ近づいた。そんな噂を、出所がわからない形で広げた。
「彼は家に隠されていたはずでしょう」
「監視が強くなり、王都の旧水門管理所へ移されました。表向きは保護施設ですが、実際には研究官の監視下です」
「戦時中に?」
「魔族の侵入を感知できるかもしれないと」
ベアトリスの声が震えた。
「私が広場を離れれば、救護所はまとまりを失います。兵は王妃が逃げたと思い、市民は争う。けれど、あの子を迎えに出した者は戻りません」
「だから私に?」
「あなたなら、道を作れる」
「弟を危険にした女よ」
「知っています」
「また利用するかもしれない」
「知っています」
ベアトリスは頭を下げなかった。許しを願っているのではない。アレクシアを許すつもりもないのだ。
「それでも、ほかに頼める人がいません」
アレクシアの視界には何も浮かばない。
罠ではない。取引でもない。自分を憎んでいても、弟を救える可能性にすがっている。
それが理解できなかった。
「もし助けたら、私を許す?」
口にしてから、自分の卑しさに気づいた。
ベアトリスは長く黙った。
「許しません」
まっすぐな答えだった。
「シリルを救うことと、あなたがしたことは別です」
胸に痛みが走った。怒りではない。正しい刃で切られた痛みだ。
アレクシアは笑った。
「結構よ。とても結構」
ベアトリスの肩がこわばる。
「勘違いしないで。あなたのためではない。許してもらうためでもないわ」
アレクシアは南東の空を見た。
旧水門地区の方角で、新しい火の手が上がっている。黒い旗が、屋根の向こうでいくつもはためいた。魔王国軍の先遣隊だ。
「私がつけた負債を、私が選んで返しに行く。それだけよ」
「アレクシア様」
「その呼び方はやめなさい。今の私には重すぎるわ」
ベアトリスは泣かなかった。
「では、公爵令嬢」
「王妃陛下」
二人は、かつてと同じ完璧な礼を交わした。
もう友人ではない。味方ですらない。
それでもアレクシアは、ベアトリスから渡された旧水門の鍵を握り、燃える街へ走り出した。




