↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
2/48

第2話「許さない協力」

 南広場の救護所は、王立劇場から外した幕で作られていた。


 青い布には、金の糸でオルドリック王家の紋章が縫われている。昨日まで王家の威厳を示していた布が、今日は泥の上で負傷者を覆い、血に汚れていた。


「水を沸かして! その包帯はまだ使わないで、こちらへ!」


 煙とうめき声の中でも、ベアトリスの声はよく通った。


 王妃の冠はない。淡い茶色の髪を後ろで乱雑に束ね、灰色の作業着には血の跡がいくつもある。宝石はすべて外し、結婚指輪だけを残していた。


 七年前より痩せた。頬の柔らかさは消え、目元には眠れない日々の影がある。


 それでも、負傷兵へ水を飲ませる横顔は、アレクシアの記憶にある少女のままだった。


 十六歳の春。宮廷へ来たばかりのベアトリス・リンデは、昼の食事会で、夜会でするような深い礼をした。


 リンデ家は、国境の川辺に古くから続く家だった。だが領地は戦争のたびに削られ、宮廷の序列では、名前を覚える価値もない家とされていた。


 令嬢たちが笑った。


 アレクシアは扇を閉じ、一番大きな声で笑った伯爵令嬢へ言った。


『まあ、よほど余裕がおありなのね。ご自分の右手が、さっきから砂糖まみれなのにもお気づきにならないなんて』


 笑いの標的が移った。


 その夜から、アレクシアはベアトリスへ礼法を教えた。歩き方、視線の置き方、名前を忘れた相手へ気づかれずに尋ねる方法。ベアトリスは覚えが遅かったが、間違いを笑われても、教えた相手を恨まなかった。


『アレクシア様は、怖い方だと思っていました』


『間違いではないわ』


『でも、お優しいところもあるのですね』


『それは間違いよ』


 二人で笑ったこともあった。


 あのころはまだ、本当に友人だった。


 先にアレクシアへ気づいたのは、救護所を守る兵士だった。汚れた金髪と破れた囚人服を見て、剣へ手を伸ばす。


「そのまま」


 アレクシアは両手を見せた。


「武器は持っていないわ。持っているように見えるなら、あなたは少し休むべきね」


「アレクシア・エルデンブルク……?」


 ざわめきが広がった。


 悪女。王妃を虐げた女。戦争の最中にも王家を倒そうと企み、塔へ幽閉された公爵令嬢。


 広場の視線が突き刺さる。


 ベアトリスが顔を上げた。


 二人の間には負傷者の列と、七年分の時間があった。


「どうして、ここに」


 声に喜びはない。憎しみも、帳簿に映る悪意もなかった。


 ただ警戒している。当然だった。


「塔から逃げてきたの。ごきげんよう、王妃陛下。お忙しそうね」


「いま、その挨拶をするのですか」


「ほかの挨拶を習っていないもの」


 ベアトリスの口元が、ほんの少しだけ動いた。笑ったのではない。笑いそうになった自分を止めたのだ。


 アレクシアはそれを見なかったことにした。


「北門へ向かうなら止めません」


「あなたは?」


「ここに残ります」


「夫には置いていかれたのに?」


 周囲が静まった。


 ベアトリスは傷ついた顔をした。だが目を逸らさない。


「陛下は西方軍をまとめるために出られました」


「王都の守備兵を半分引き抜いて?」


「……その判断が正しかったとは言いません」


 予想外の答えだった。


 昔のベアトリスなら、エドガーを信じると言っただろう。誰かを信じることと、事実を見ることは別だと、この七年で覚えたらしい。


「それでも私は王妃です。ここにいる方々を置いてはいけません」


「そう」


 アレクシアは周囲を見た。


 水が足りない。薬も足りない。運搬用の荷車は二台。一台は車軸が割れている。南門へ続く大通りにも、火が回り始めていた。


 これでは三十分も持たない。


「東の染物組合に大きな荷車が五台あるわ。劇場裏の井戸は濁っているけれど、向かいの浴場には地下貯水槽がある。薬師組合長は北へ逃げたけれど、薬品庫の鍵を愛人に預けている」


 救護兵たちがアレクシアを見る。


 ベアトリスは眉を寄せた。


「どうして知っているのです」


「嫌われ者は、人の秘密に詳しいのよ」


「その情報の対価は?」


「何も」


「あなたが?」


「失礼ね」


「そう思わせたのは、あなたです」


 返す言葉がなかった。


 ベアトリスが一歩近づく。作業着の裾が血と泥を吸っている。


「アレクシア様。お願いがあります」


 昔と同じ呼び方だった。


 アレクシアは胸の内側を爪で引っかかれたように感じた。


「お断りするわ」


「まだ何も言っていません」


「あなたの頼みを聞く義理がないもの」


「ええ。私にも、あなたを信じる理由はありません」


 ベアトリスの目に初めて、抑えていた感情が浮かんだ。


「でも、シリルが旧水門地区にいるのです」


 アレクシアは息を止めた。


 ベアトリスの弟。十歳年下の、静かな子ども。


 鎖骨の近くに薄い鱗がある。まぶしい場所では、人間にはない透明な膜が瞳を覆う。幼いころから、壁の向こうを流れる水まで感じ取れた。


 ベアトリスがその秘密を話したのは、アレクシア一人だった。


『弟は怪物ではありません』


『当然でしょう』


『誰にも言わないでくださいますか』


『あなたは私を何だと思っているの』


 その半年後、アレクシアは秘密を使った。


 王家へ魔族の血を入れるつもりか。ベアトリスは弟を隠して王子へ近づいた。そんな噂を、出所がわからない形で広げた。


「彼は家に隠されていたはずでしょう」


「監視が強くなり、王都の旧水門管理所へ移されました。表向きは保護施設ですが、実際には研究官の監視下です」


「戦時中に?」


「魔族の侵入を感知できるかもしれないと」


 ベアトリスの声が震えた。


「私が広場を離れれば、救護所はまとまりを失います。兵は王妃が逃げたと思い、市民は争う。けれど、あの子を迎えに出した者は戻りません」


「だから私に?」


「あなたなら、道を作れる」


「弟を危険にした女よ」


「知っています」


「また利用するかもしれない」


「知っています」


 ベアトリスは頭を下げなかった。許しを願っているのではない。アレクシアを許すつもりもないのだ。


「それでも、ほかに頼める人がいません」


 アレクシアの視界には何も浮かばない。


 罠ではない。取引でもない。自分を憎んでいても、弟を救える可能性にすがっている。


 それが理解できなかった。


「もし助けたら、私を許す?」


 口にしてから、自分の卑しさに気づいた。


 ベアトリスは長く黙った。


「許しません」


 まっすぐな答えだった。


「シリルを救うことと、あなたがしたことは別です」


 胸に痛みが走った。怒りではない。正しい刃で切られた痛みだ。


 アレクシアは笑った。


「結構よ。とても結構」


 ベアトリスの肩がこわばる。


「勘違いしないで。あなたのためではない。許してもらうためでもないわ」


 アレクシアは南東の空を見た。


 旧水門地区の方角で、新しい火の手が上がっている。黒い旗が、屋根の向こうでいくつもはためいた。魔王国軍の先遣隊だ。


「私がつけた負債を、私が選んで返しに行く。それだけよ」


「アレクシア様」


「その呼び方はやめなさい。今の私には重すぎるわ」


 ベアトリスは泣かなかった。


「では、公爵令嬢」


「王妃陛下」


 二人は、かつてと同じ完璧な礼を交わした。


 もう友人ではない。味方ですらない。


 それでもアレクシアは、ベアトリスから渡された旧水門の鍵を握り、燃える街へ走り出した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。