第1話「悪役令嬢の牢獄」
王都が燃えている。
北の塔の最上階。その小さな窓から、アレクシアは自分の国が滅びるところを見ていた。
雨は三日前にやんだ。それでも空は黒かった。貴族街から上がる煙が雲を作り、夕日の赤をにごらせている。城の塔の向こうで、鐘の塔が崩れた。地面を揺らす音が遅れて届き、窓枠から細かな砂がこぼれた。
「ひどい有様ね」
答える者はいない。
公爵令嬢として生まれ、王太子の婚約者として育ち、悪役として裁かれた女の最期にしては、ずいぶんあっけなかった。
七年前、アレクシアはエドガー王子との婚約を解消された。
理由は単純だ。王子が心を寄せたベアトリスを、アレクシアがいじめたからだ。
飲み物をドレスへこぼさせた。舞踏会の招待状を握り潰した。家柄の低い娘が王妃を狙っているという噂を流した。彼女の弟に異種族の特徴が現れているという、本人から打ち明けられた秘密まで使った。
冤罪ではない。誤解でもない。
アレクシアは、どんな結果を招くか知りながら、すべて自分の意思で行った。
あの夜のことは、七年たってもそのまま思い出せる。
春の舞踏会。人の多い広間を選んだのは、エドガーの側だった。
音楽が止み、王太子が階段の上から証拠を読み上げた。医師への支払い、噂を流した者の証言、握り潰された招待状。ベアトリスは彼の後ろで、顔を上げられずにいた。
「申し開きはあるか」
広間の全員が、アレクシアの否認を待っていた。
誤解だと泣くか、侍女のせいにするか。悪女の最後の悪あがきを見物する顔だった。
アレクシアは扇を閉じ、ゆっくりと膝を折った。
「すべて、わたくしがいたしました」
息を呑む音が広間へ広がった。
「ただ、証拠が一つ足りません。教会へ出した書状は三通です。殿下は二通しか読み上げていない」
「……なぜ、自分から言う」
「殿下が数え落としたものを、わたくしは数えます。それだけの違いですわ」
同情は集まらなかった。集める気もなかった。
その報いとして婚約も名誉も失い、実家から切り離され、この塔へ幽閉された。そしていま、彼女を裁いた王子の国は、魔王国との戦争に敗れようとしている。
「正義は国境を守ってくれなかったようね、エドガー殿下」
戴冠したと聞いても、アレクシアはその呼び方を変えなかった。
呟いた途端、遠くで王城の外壁が砕けた。
笑い声が喉まで上がり、出てこなかった。
城壁の下には兵士だけでなく、厨房の使用人も、馬車の御者も、その子どもたちもいる。王子の無能を笑えば、その人たちの死まで喜ぶことになる。
アレクシアは窓を離れた。
扉の外には看守が一人いる。交代の時間はとうに過ぎていた。廊下を行き来する足音は落ち着きがなく、鍵穴に鍵を差す音が何度もしては止まっている。
「開けなさい」
「命令を受けておりません」
扉越しの返事は早かった。
「では、ここで死ぬつもり?」
「国王陛下が援軍を率いてお戻りになります」
その言葉と同時に、アレクシアの視界へ黒い文字が浮かんだ。
紙も帳面もない空中に、濡れたインクのような文字列が走る。
――囚人用避難証、三枚。売却済み。
――買い手、西階段の会計官、南厩舎の馬丁、厨房副長。
――売却益を持ち、北門から逃亡する予定。
それはアレクシアが幼いころから見てきたものだった。
人が害意を抱き、それを実行するために考えたとき、彼女には悪意が帳簿として見える。誰を踏み台にし、何を得ようとしているのか。ときには、企み同士を結ぶ細い黒線まで。
だが、善意も愚かさも映らない。
だからアレクシアには、ベアトリスが何を考えているのか、最後までわからなかった。
「王子は戻らないわ」
「何を根拠に」
「あなたがそう信じているから、避難証を売ったのではなくて?」
扉の向こうで息が止まった。
「一枚につき金貨二十枚。会計官は妻子と逃げる。馬丁は一人で逃げる。厨房副長は証を妹に渡した。あなたは三人から受け取った金を、右の長靴の底へ隠している」
「……魔女め」
「よく言われたわ」
アレクシアは扉へ歩み寄った。
「この塔の正面階段は、あと三十分もすれば魔族軍に封鎖される。囚人用通路は西の礼拝堂へ抜ける。あなた一人なら北門まで間に合うでしょう。でも、扉を開けなければ――」
爪先で床を一度鳴らす。
「逃亡兵から賄賂を取った看守が、任務を捨てて逃げようとした。そう書いた紙を窓から落とすわ。魔族に拾われなくても、味方の憲兵が拾うかもしれないわね」
「証拠がない」
「あなたの長靴にあるでしょう?」
沈黙ののち、鍵が回った。
扉がわずかに開く。すすで汚れた中年の看守が、震える剣先を向けていた。けれど、その顔には敵意よりも、逃げ道を失う恐怖が浮かんでいる。
「鍵を床へ置きなさい。剣も」
「俺を殺すのか」
「あなたを殺して、誰に案内させるの」
看守は鍵束を置いた。剣は手放さない。
アレクシアはそれ以上を求めなかった。すべてを奪われると思えば、人は抵抗する。自分にはまだ選択肢があると思わせたほうが、よく動く。
「礼拝堂まで案内なさい。そこから先は自由よ」
「公爵令嬢を逃がしたと知られれば――」
「国がなくなるのに、誰があなたを裁くの?」
看守の顔から血の気が引いた。
北塔を降りる途中、二人は誰にも会わなかった。独房の扉だけがいくつも閉ざされている。政治犯、借金を背負った役人、命令に逆らった兵士。中から助けを求める声がした。
アレクシアは足を止めない。
全員を出せば、看守一人では抑えられない。狭い階段で殺し合いになるかもしれない。助けられる保証もない人々のために、自分の命まで危険にさらすほど、彼女は善人ではなかった。
それでも、声は耳に残った。
礼拝堂の隠し扉を抜けると、地下通路には腰まで煙が溜まっていた。看守は咳き込みながら先を急ぐ。
「王子はどこへ逃げたの」
「逃げたのではありません。西方軍を立て直すため、夜明け前に王都を出られた」
黒い文字は出なかった。
看守は本当にそう信じている。
「ベアトリス王妃も?」
「王妃陛下は……」
男は言いよどんだ。
アレクシアは横目で見る。敵意も、隠し事を示す黒い線もない。ただ困惑しているだけだ。
「何?」
「お残りになりました。南広場の救護所に。国王陛下がお連れしようとなさった。でも王妃陛下は、負傷者を置いてはいけないと」
アレクシアは足を止めた。
「彼女が、残った?」
「はい」
胸の奥に、七年前と同じ苛立ちがよみがえった。
ベアトリスはいつもそうだった。
損得を考えない。自分を守る嘘もつかない。相手がアレクシアでも、困っていれば手を差し伸べた。
だから嫌いだった。
その善良さの隣に立つと、自分が何者であるかを見せつけられる気がしたから。
地下通路の出口で、看守は北へ走り去った。
アレクシアは自由になった。
北門へ向かえば、まだ逃げられるかもしれない。公爵家の領地まで辿り着けば、父や生き残った使用人と合流できる可能性もある。
南広場では鐘が鳴っていた。
救護所がまだ無事であることを知らせる、短く三度ずつの鐘だ。その音に重なって、子どもの泣き声と、避難を命じる兵士の怒鳴り声が届く。
「本当に、腹立たしい女」
アレクシアは北へ背を向けた。
七年ぶりに会う、かつての友人のいる方角へ歩き出した。




