第10話「清掃用スライムの証言」
毒が入っている。
そう叫ぶのは簡単だった。
けれど、《悪意の帳簿》に見える文字は、アレクシアにしか見えない。侍女長を捕らえても、知らないと言い張られれば終わる。
この国で最初に得る評判が、証拠もなく使用人を処刑させた人間の女では困る。
アレクシアは杯を持ち上げた。
「魔王国では、客人が先に口をつけるのが礼儀?」
帳冠が微笑む。
「祝いの中心となる方から、という意味です」
「では、私の国の礼儀も一つ。酒を用意した者が、最初の一口をいただくの」
杯を侍女長へ差し出す。
女の顔が固まった。
「恐れ多いことでございます」
「私の杯を断るの?」
侍女長の周りで、黒い文字が激しく揺れる。
――飲めば死ぬ。
――逃げれば家族が殺される。
家族。
彼女の企みではある。だが、その先に別の誰かがいる。
「やめろ」
魔王が言った。
「その杯を置け」
「なぜ?」
「お前は飲むふりをして、私が止めるか試した」
「正解よ」
アレクシアは杯を机へ戻した。
「それと、毒が入っています」
剣冠が立ち上がる。護衛が侍女長を取り囲んだ。
「証拠はございますか」
帳冠が問う。
「いまから探すわ」
「令嬢の勘だけで、宮廷の侍女長を拘束なさると?」
「飲ませれば証明できるでしょうけれど、それでは黒幕が喜ぶだけね」
アレクシアは侍女長の手を見た。
白い手袋。右の親指だけ、薄く黄色に染まっている。
「酒瓶、杯、手袋を別々に保管して。誰にも洗わせないこと」
「すでに清掃係が来ております」
セヴランが床を指した。
机の下から、青灰色の小さな塊が現れた。
水のように透けた身体の中に、糸くずと木の葉が浮いている。手のひらほどのスライムだった。
「それは?」
「清掃用です」
血冠が不快そうに言う。
「知性はありません。床の汚れを食べるだけのものです」
スライムが机の脚へ触れた。
甲高い音が、その身体から流れた。
『人間の身体なら、三滴で足りる』
知らない男の声だった。
部屋が静まり返る。
スライムは、続いて侍女長の声を再生した。
『娘には手を出さないと約束してください』
『仕事が済めばな』
侍女長が膝から崩れた。
「知性がないのではなかった?」
アレクシアが問うと、血冠は答えなかった。
セヴランがおそるおそる近づく。
「清掃スライムは、取り込んだ物質の性質をしばらく保つと聞きます。床の振動も記憶しているのかもしれません」
「この子が、何を知っているか確かめられる?」
「命令を理解できれば」
アレクシアはスライムの前へしゃがんだ。
「あなた、名前はある?」
青灰色の身体が震えた。
『る、る、く』
複数の声をつなぎ合わせたような音だった。
「ルルクね。杯の中身を調べられる?」
ルルクは、ほんの少し後ずさった。
「飲めとは言っていないわ。触れるだけでいい。危険なら断りなさい」
しばらくして、細い身体の一部が伸びた。杯の縁へ触れ、すぐに離れる。
透明だった先端が、黄色く濁った。
ルルクの中から、薬品庫の札を読む声が流れる。
『黄眠草。心臓毒。香料との混合を禁ず』
次に侍女長の手袋へ触れる。同じ黄色が広がった。
最後に酒瓶へ触れたが、色は変わらない。
「毒は瓶ではなく、杯へ直接塗られた」
セヴランが言う。
「手袋に残った毒と、杯の毒が同じものだと証明できます」
「香料は?」
ルルクが床を滑り、侍女長の腰につけた小袋へ近づいた。
甘い花の匂いがした。
毒、手袋、偽装用の香料。物証は揃った。
王宮の清掃長が、蓋のついたガラス容器を持ってきた。
「毒物へ触れた清掃スライムは、検査後に処分します。ほかの床へ毒を広げる危険がありますので」
ルルクの身体が、杯から離れるように縮んだ。
「毒を身体から出す方法は?」
「大量の水を吸わせれば薄まります。ただ、道具一体のために薬品用の洗浄水を使うほどでは」
「本人に聞きなさい」
清掃長が困った顔をした。
「何を、でしょう」
「処分されたいかどうかよ」
アレクシアはルルクの前へ手を置いた。
「身体に残った毒を、水で外へ出せる?」
『だせ、る』
「時間はかかる?」
『かかる』
「では、洗浄水を用意して。検査が必要なら、この子を容器へ入れるのではなく、本人が断れる状態で行いなさい」
「清掃用の道具に、本人など――」
『る、る、く』
いくつもの声をつなぎ、スライムはもう一度自分の名を作った。
清掃長は、それ以上何も言えなかった。
「侍女長を地下牢へ」
剣冠が命じる。
「待ちなさい」
アレクシアは立ち上がった。
「彼女は証人よ。娘を人質に取られている。牢へ入れれば、口を開く前に殺されるわ」
「毒殺を実行した者だ」
「罪がないとは言っていない。裁判まで生かせと言っているの」
侍女長が顔を上げる。
「娘は、北の寄宿学校におります」
「ラウム。保護できる?」
「陛下の命があれば」
「命じる」
魔王が答えた。
「侍女長は客室棟へ移し、王直属の護衛を置く。娘も保護しろ」
侍女長の周りにあった黒い文字が、形を変えた。
――知っていることを話す。
それは善意ではない。娘を守るための取引だ。
だから信用できる。
会議が終わったあと、アレクシアはルルクを探した。
廊下の隅で、汚れた水を吸い込んでいる。
「今日は助かったわ」
『たす、かった』
「褒美は何がいい?」
ルルクは答えず、身体の中でいくつもの音を転がした。
靴音。皿の触れ合う音。料理人の怒鳴り声。
そして、不意に低い男の声が流れた。
『薔薇の砂糖煮を用意しろ。レクシィは酸っぱいものが苦手だ』
魔王の声だった。
彼がアル本人であることは、前の人生で死ぬ直前にわかっている。時間が戻っても、その事実は忘れていない。
それでも、八歳のころに一度話しただけの好みを、彼が覚えていたことには胸がざわついた。
「その声を、どこで聞いたの」
ルルクは厨房へ続く廊下を指すように、身体を伸ばした。
続いて、別の男の声が流れる。
『婚姻契約の草案を、折れ角の書記へ読ませるな。あれは聞かれてもいない欠陥まで話す』
アレクシアは目を細めた。
折れた角。黒冠院の会議で、契約へ同意撤回の条項を求めた下級悪魔。
「セヴランね」
ルルクの身体が上下に揺れた。
『おと、置く、ばしょ』
今までルルクが覚えた音は、掃除が終われば汚れと一緒に捨てられていた。何を覚え、いつ聞いたかを書き残す場所がない。
「あなたの記録を置く棚と、誰へ聞かせてよいかを記す帳面を用意します」
『るるく、きめる?』
「裁判に必要な記録は法に従う。でも、誰かの私的な会話を、面白いからという理由で聞かせる必要はない。迷ったらセヴランへ相談しましょう」
ルルクは身体の中で、折れ角の書記についての声だけをもう一度鳴らした。
「この声を、セヴラン本人へ聞かせていい?」
『いい』
アレクシアは、書庫へ続く廊下を見た。
誰かが読ませたくない契約なら、セヴランにこそ読ませる価値がある。




