第11話「悪魔は嘘をつけない」
セヴランの仕事場は、書庫ではなかった。
書庫の奥、使われなくなった物置に机を押し込んだだけの部屋だった。窓はなく、壁の一面を古い契約書が埋めている。
「上級悪魔は、もっと立派な部屋にいるのでしょうね」
「はい。第一書庫には窓が三つ、暖炉もございます」
セヴランは正直に答えた。
「悔しくないの?」
「非常に悔しいです」
また即答した。
アレクシアは椅子へ座り、机に積まれた婚姻契約の草案をめくった。
「悪魔は嘘が得意だと聞いていたけれど」
「上級悪魔は、真実の一部だけを話す技術に長けています。私は契約魔法の欠陥で、誤解させる目的の省略もできません」
「それで、出世できない」
「はい。交渉相手へ不利な点まで説明してしまいますので」
嘘をつけないことが欠陥とされる。
いかにも、この国らしい。
「では、あなたに頼むわ。私と魔王の契約を監査なさい」
「すでに担当書記がおります」
「あれは血冠の部下でしょう。私に不利な穴を見つけても、塞がない」
「おそらく、そのとおりです」
「あなたは?」
「誰に不利でも、見つければ報告します」
「私に不利でも?」
「もちろんです」
セヴランの周りに黒い文字はない。
「採用するわ」
「何にでしょう」
「私の法務官」
セヴランは抱えていた紙を落とした。
「お断りします」
今度はアレクシアが驚く番だった。
「理由は?」
「あなたには、まだ配下を任命する法的権限がありません。また私は王宮書庫の所属で、血冠の許可なく異動できません」
「婚姻契約へ任命権を入れる予定よ」
「契約が成立してから、改めてお申しつけください」
「融通が利かないのね」
「よく言われます」
腹は立つ。だが、悪くない。
アレクシアは草案を彼へ押しつけた。
「では、任命ではなく個人的な相談。私にだけ有利な抜け穴を作りなさい」
セヴランが固まった。
「たとえば、私の配下が罪を犯しても、魔王妃の命令だったと言えば裁けない条項。あるいは、私が人間国へ情報を流しても外交提案と主張できる条項」
「作れません」
「誰にも気づかれないとしても?」
「気づかれないように書くことはできます。しかし、作れません」
「私の機嫌を損ねるわよ」
「はい」
セヴランは青ざめている。それでも、視線をそらさなかった。
「あなたが今後大きな権力を持つなら、抜け穴はいつか誰かの命を奪います。私はそれを理解したうえで作ることになる。契約魔法が許しません」
「魔法が禁じなければ作る?」
「……作るかもしれません。私は勇敢ではありませんので」
立派な答えを飾らないところが、気に入った。
「合格」
「何がでしょう」
「あなたを試したのよ」
「試すために違法な命令を出す方へ仕えることには、重大な不安があります」
「その不安も契約へ書いておきなさい」
セヴランは困り果てた顔をした。
「口頭ではなく?」
「ええ。私があとで『試しただけだから命令ではない』と言い逃れないように」
セヴランは新しい紙へ、アレクシアが違法な抜け穴を要求したこと、自分が拒否したこと、拒否を理由とする処分を禁じることまで書いた。
「署名をお願いします」
「本当に容赦がないのね」
「あなたが命じました」
アレクシアは署名した。自分に不利な記録を、自分の手で最初に残す。胸の奥がわずかに落ち着かなかった。
その日の午後、二人は草案を一行ずつ確認した。
財産の分離。居館の不可侵。配下の指揮権。外交提案。公開裁判。同意の定期確認。婚姻解消後の安全な帰国。
「魔王が私の同意なく、記憶や精神へ干渉しないという条項も必要よ」
「すでに入っています。ただし、治療行為まで禁じる表現でしたので修正しました」
「あなた、本当に優秀ね」
「初めて言われました」
声は平坦だったが、折れた角の根元がわずかに赤くなった。
日が暮れるころ、セヴランの手が止まった。
「問題があります」
「新しい?」
「古いものです」
彼は棚の最下段から、黒ずんだ契約集を引き出した。
「建国から百年後、王統争いを防ぐために追加された条項です。『人間族の妃は、王家の財産および官職を分け与える権利を持たない』」
「人間の妃が、過去にもいたの?」
「条項がある以上、想定はされていたのでしょう」
「これが有効なら?」
「あなたは居館を持てても、使用人を自分の配下として任命できません。給与も官職も与えられず、命令権は王宮侍従長を通します」
独立した派閥など作れない。
「血冠は、この条項を知っている?」
「王統法を管理する方です。知らないとは考えにくいです」
黒冠院は、アレクシアの条件を認めたのではない。
認めたように見せて、最初から何も与えないつもりだったのだ。
物置の扉が開いた。
第一書庫の監督官が、二人の書記を連れて立っている。
「セヴラン。婚姻草案は担当外だ。資料を戻し、客人を退出させなさい」
セヴランの顔から血の気が引いた。
「この部屋は王宮書庫です。血冠閣下の管理命令に従っていただきます」
監督官の言葉はアレクシアへ向けられている。しかし、処分されるのはセヴランだ。
「私が無理に入ったことにすれば、あなたは助かる?」とアレクシアは尋ねた。
「おそらく」
「では、そう記録しなさい」
セヴランは唇を結び、それから首を振った。
「できません。あなたは閲覧を求め、私は法務相談として許可しました。責任は私にもあります」
「職を失うかもしれないわよ」
「非常に困ります」
声も手も震えている。それでも、彼は古い契約集を監督官へ渡さなかった。
「王統契約の閲覧規則では、当事者が第三者の監査を求められます。草案の段階でも、提示された条件の確認には適用されます。異議があるなら、書面で停止命令をください」
監督官は命令書を持っていなかった。血冠の名を出せば従うと思って来ただけなのだ。
「明日までに用意する」
「受領後に従います」
扉が強く閉められた。
セヴランは椅子へ座り込み、長く息を吐いた。
「勇敢ではないと言ったでしょう」
「ええ。怖がりながら拒んだところを見ていたわ」
恐れない者より、恐れても条文を離さない者のほうが信用できる。
アレクシアは古い条文を見下ろした。
「いいわ。契約へそのまま載せなさい」
「よろしいのですか」
「隠された刃は怖いけれど、見えている刃なら使い道がある」
セヴランが、初めてわずかに笑った。
「その発言は、法務官として記録しておきます」
署名は明日の朝。停止命令書が届くのも、明日だった。
セヴランは夜のあいだ、机を離れなかった。
翌朝、黒冠院の立会いのもとで婚姻契約が正式に署名された。命令書が書庫へ届いたのは、その一刻あとだった。
期限は七年。財産は分離。居館は不可侵。配下の指揮権と外交提案権は妃に属する。
夜通し削り直された条文が、そのまま国家の文書になった。




