第43話「もう戻れない王冠」
六日目。
砦冠の息子が源流神殿へ入ったとき、魔王は国境の両軍へ向けて通信を開いた。
シェラの糸だけではない。神殿と王宮を結ぶ、国の正式な回線だった。
古冠は止めなかった。
七日目に廃位される王であっても、隠した事実を自分の口で明かす責任は残っている。
「魔王国のすべての民と、人間国軍に告げる」
魔王は黒冠を手にしていた。
「この王冠に、やり直す力は残っていない」
黒冠が世界を巻き戻せることは、建国以来の言い伝えとして知られていた。
残りが何度あるかを知るのは、黒冠院だけだった。
その数が尽きたという事実が、国中へ流れた。
王宮では泣き出す者がいた。
国境では、次の世界で死者が戻ると信じて戦っていた兵が剣を落とした。
一方で、王が国の切り札を失ったと知り、敵が攻め込むと叫ぶ者もいる。
事実を公開すれば安心が広がるとは限らない。それでも、虚偽の安心に国を預け続けることはできなかった。
「最後の力は六年前に使った。私が失敗しても、この世界は続く。死者は戻らない。焼けた家も、流された畑も元には戻らない」
源流神殿で、その声を聞いた反乱者たちが動きを止めた。
砦冠の息子だけが叫んだ。
「嘘だ! 王はいつでも逃げられると、父の記録にあった!」
アレクシアはフェンとともに神殿の正面へ着いた。
「あなたは、やり直せるから村を焼いたの?」
男は彼女を見た。
「人間の悪妃か。お前も次の世界へ行けばいい。この戦いの結果を王へ教えれば、次はもっと上手く勝てる」
「次などないわ」
「王が隠しているだけだ!」
「隠していたから、王位を失うのよ」
男の顔から、初めて笑みが消えた。
アレクシアは、一回目の痛みを覚えていた。
脇腹へ入った刃。崩れた城壁。逃げていく男の背中。
ここで彼を殺せば、過去の自分が少しだけ報われる気がした。
帳簿が開く。
男の名の横には、焼いた村、売った武器、偽の人質、消した命令が並んでいた。
だが、そこにアレクシア自身の復讐は書かれていない。
「裁判へ連れていきます」
アレクシアは告げた。
「あなたが私を殺したからではありません。今、この世界で行ったことを、この世界で償わせるために」
「私がお前を殺した? 何を言っている」
「あなたが知らなくていい、終わった世界の話よ」
復讐の相手には、自分が何をされたか理解させたかった。
だが、彼に前の世界の罪まで背負わせれば、今の世界の法を自分の記憶で曲げることになる。
砦冠の息子は柱へ火薬を置いた。
「ならば、世界ごと終わらせてやる!」
爆発が起きた。
石の床が割れ、地下水が噴き上がる。
魔王が神殿へ着いたとき、反乱者を追えば男をその場で討てた。
だが、崩れた水路の先には集落があった。
魔王は剣を捨てた。
「ザハル! 流れを西へ!」
「承知!」
ザハルが水路へ飛び込み、全身で水の向きを変える。ガランが崩れた柱を支え、マルザとニムが住民を高台へ走らせた。
魔王は濁流へ入り、倒れた子どもを抱き上げる。
その間に、砦冠の息子は神殿の裏口へ逃げた。
そこで待っていたのは、フェンだった。
「やり直せると思ったから、何人死んでもよかったのか」
男が剣を抜くより早く、フェンが腕を地面へ押さえつけた。
「俺たちは、やり直せないから道を選んだ」
源流神殿は崩壊した。
《水印》はルルクの体に包まれて残った。集落の住民にも死者は出なかった。
負傷者は十九人。家を失った者は六十三人。神殿の修復には年単位の時間がかかる。
翌朝の掲示には、それも書かれた。「死者なし」だけを勝利として掲げなかった。
夜、剣冠が神殿へ来た。
泥だらけの魔王と、武器ではなく道具を持つ八種族を見た。捕らえられた反乱者と、保護された人間国兵も見た。
「人間国への全面攻撃命令を撤回します」
剣冠は告げた。
魔王は頷いた。
「廃位への同意は?」
アレクシアが尋ねた。
「撤回しない」
剣冠は魔王をまっすぐ見た。
「今日、陛下が民を救ったことと、六年間、国の最後の備えを隠したことは別です」
「私が公布の猶予を認めたことも、廃位を撤回する理由にはしません。正しい判断を一度したからといって、監督が不要になる王を作るつもりはない」
「それでいい」
魔王は答えた。
七日目の日没、王宮の広場で廃位の儀式が行われた。
魔王は自分の手で黒冠を外した。
剣冠へ軍の印を、古冠へ国政の印を返す。新しい統治者が選ばれるまで、黒冠院が暫定的に行政を預かる。
「本日をもって、あなたの魔王としての権限を停止します」
古冠が宣言した。
「異議はありますか」
「ない」
王ではなくなった青年は、空になった頭を下げた。
広場に歓声はなかった。
彼が国を売ったわけでも、民を捨てたわけでもない。
それでも、善い行いが責任を消さないことを、国全体が見届けた。
国境の戦いは終わった。
しかし人間国の王宮は、敗北を認めなかった。
反乱軍を正規の先遣隊と呼び、投降した兵を裏切り者と発表した。
軍の重臣たちは、エドガー王へ総動員令を差し出した。
「今ここで退けば、王家の威信は終わります」
エドガーは震える手で羽根ペンを持った。
その隣で、ベアトリスは三冊の記録を机へ置いた。
「署名する前に、議会へ行きましょう」
「ベアトリス?」
「陛下が何を思っていたかではなく、何をしたかを、国民に見てもらいます」




