第38話「善意の先制救出」
二十四歳の春。アレクシアの最初の人生なら、滅亡までまだ一年あった。
拉致されたとされる巡礼団は、四十七人。
人間国軍部の報告では、国境の礼拝所から消え、魔王国側へ引きずられた跡があるという。
アレクシアとベアトリスは、同時に調査を求めた。
名簿には、三年前に死んだ者が二人いた。同じ住所の者が十一人もいる。目撃者は軍部が用意した一人だけだった。
フェンは現場の匂いを調べた。
「四十七人分の足跡はありません。人間の兵が十五人ほど、魔王国側へ荷物を引きずっています」
ザハルは、地面の湿りから足跡が作られた時刻を調べた。
「雨が降った後です。巡礼団が消えたとされる時刻より、六時間遅い」
証拠は共同通信糸で、すぐに人間国王宮へ送られた。
共同調査の枠組みは、両国の軍部の通信も対象にしている。
自国の主戦派が仕組んだ疑いであっても、相手国と一緒に調べられる。
ベアトリスは会議の冒頭で議事を両国へ共有すると宣言し、国境のアレクシアへ音声を届けていた。
軍議には、三身分会議の代表も呼ばれていた。
会議が始まる直前、一人の女が衛兵に支えられて入ってきた。
巡礼団の名簿では、七番目に拉致されたことになっている女だった。
「私は、ここにおります」
熱で頬を赤くし、寝間着の上へ外套を羽織っている。
「巡礼は三日前に中止されました。案内役が、礼拝所の屋根が壊れたと言ったからです。名簿は寄付金の申請に使うと言われ、先に渡しました」
軍部の将軍が問い返す。
「一人がここにいるからといって、残る四十六人が無事とは限らない」
「同じ村から参加するはずだった六人も家にいます」
「確認したのか」
「今朝、一緒に畑へ出ました」
女は偽の被害者として扱われたことより、病人を王宮まで連れてきた家族に腹を立てていた。
エドガーは自分の椅子を譲り、水を持ってこさせた。彼の親切は演技ではない。
「知らせに来てくれて、ありがとう。すぐ家へ送ろう」
それから将軍へ向き直る。
「だが、彼女たちが参加しなかった後で、別の巡礼者が集められた可能性は残る」
間違いではなかった。可能性は、まだゼロではない。
都市代表は調査完了までの二十四時間停止を求めた。
国境貴族は、救出隊を出すとしても共同調査団を同行させるべきだと提案した。
軍部は、議会に作戦を知らせれば人質の場所が移されると反対した。
「情報が漏れる可能性と、人質が存在しない可能性を比べるべきです」
ベアトリスが言う。
「比べている間に殺されたら、誰が責任を取る」
エドガーは問い返した。
「確認せず国境を越え、戦争になったら?」
「私が責任を取る」
「王が責任を取ると言っても、焼かれるのは国境の村です」
ベアトリスは軍の出発を止めようとした。
「少なくとも、名簿の確認が終わるまで待ってください」
「国境の内側へ救出隊を待機させ、フェン、人間国の斥候、教会と都市の代表を先に入れます」と国境貴族が提案した。「人質が確認できれば、すぐ動けます」
「それでは遅い」
エドガーは即座に退けた。
「会議をしている間にも、人質は苦しんでいる」
エドガーは鎧を身につけていた。
「人質が本当にいるかを調べています」
「アレクシアの報告を信じるのか」
「フェンとザハルの調査です。人間国の歴史家も確認しています」
「すべて、彼女の配下ではないか」
通信糸の向こうから、アレクシアが尋ねた。
『どんな報告が届けば、出兵を止めますか』
エドガーは糸を見た。
『名簿の全員が家にいれば? 足跡をつけた兵が名乗り出れば? 案内役が砦冠の私兵だと証明されれば?』
「人質の存在を完全に否定できるまで、待つ理由にはならない」
『では、止める報告は最初から存在しないのですね』
「君は、助けられなかった人の顔を見ないから、そんなことが言える」
アレクシアは言い返さなかった。
一回目の戦火で見た顔を語っても、証拠にはならない。
軍部の将軍が、越境救出案を机へ置いた。
案内役の名には、砦冠の嫡男が使う偽名が記されている。
ベアトリスはそれを指摘した。
「この者は魔王国の反逆将軍です」
「だからこそ、魔族のやり方を知っている」
エドガーは出兵命令へ署名した。
そこまでは、《悪意の帳簿》に何も現れなかった。
彼は本気で人質を救えると信じている。
若い伝令が、追加報告を持って入った。
「陛下。名簿のうち二十三人の無事を確認しました。亡くなっている二人を除き、残る者も家族へ確認中です。出発を半日だけ――」
エドガーは報告書を伏せた。
指先が、紙の上で止まる。
名簿の誤りは一つではない。足跡の時刻も合わない。案内役は敵国の反逆者。止めるべき理由は、すでに同じ机へ並んでいた。
それでも、どこかに人質がいる可能性だけは消えていない。
ここまでは、危険な誤判断だった。
王には、不確かな状況で決めなければならないときがある。急いだ結果が失敗しても、それだけで《悪意の帳簿》は開かない。
「救出が終わるまで、出発を遅らせる報告は私の机へ置くな」
「ですが」
「誤った報告に迷えば、救える命を失う」
その命令が共同通信糸を通った瞬間、アレクシアの帳簿が開いた。
頁が風もないのにめくれ、これまで何もなかった場所へ黒い線が伸びる。
――エドガー。
――判断が誤りだと示す報告を、受け取らないよう命じた。
――人質を救う善い王であるため、存在しない可能性を知る機会を捨てた。
初めて、彼の名が黒い文字で記された。
エドガーが初めて悪人になったわけではない。
自分の判断を正しいままにするため、これから届く事実を拒んだ。その一歩だけが、今までの無思慮とは違っていた。
アレクシアは、能力がようやく正しさを証明してくれたとは思わなかった。
黒い文字が出る前から、危険を示す証拠はあった。
文字が出た今も、それだけでは軍を止められない。
「ベアトリス。命令書の写しを議会へ回して。反対した者の名も、賛成した者の名も残すのよ」
「今は軍を――」
「止められなかったとき、誰が何を選んだかを消さないためよ」
「止めて、ベアトリス」
アレクシアは通信糸へ叫んだ。
「王命が出ました」
ベアトリスの声が震える。
「それでも止めるのよ」
だが、人間軍はすでに国境を越えていた。
救出先とされた谷に、巡礼団はいない。
先頭の兵たちは、空の礼拝所を見て初めて命令を疑った。
撤退命令を求める伝令は、後方にいる軍部の将軍へ届かなかった。案内役を務めた砦冠の私兵が通信具を壊していた。
崖の上から矢と岩が降り、人間軍の退路を砦冠の私兵が塞いだ。
混乱した兵は魔王国の村へ逃げ込み、民家を壊して陣地を作った。
「住民を外へ出せ!」
人間軍の若い隊長が叫んだ。
だが別の部隊は、村人を魔王軍への盾として家へ残そうとした。
同じ王命で来た兵の中でも、守ろうとする者と、命を道具にする者が分かれ始めた。
越境と村への被害が、黒冠院の開戦承認条件を満たした。
剣冠、代理の血冠、代理の砦冠。
三つの席が、反撃に賛成した。
剣冠は、越境と村への被害を見過ごせば、次の侵入を招くと主張した。
血冠代行は人間国へ王統の威信を示すため、砦冠代行は国境軍の損害を補うために賛成した。
帳冠は反対し、古冠は採決結果を魔王へ渡した。
「反撃を認めることと、人間国の全土を敵と見なすことは同じではありません」
帳冠は議事録へ反対理由を残した。
古冠は賛否を示さず、三票が揃った事実だけを読み上げた。
本来なら死に戻りから七年後に起こるはずだった戦争が、一年早く始まった。




